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2010年10月26日

上海・日本人飲食店 取材レポート(1)

 上海で大成功している日本人経営のイタリアンレストランがある。「日式イタリアン コラボ」というお店だ。イタリアンで日式、と聞くと違和感があるかもしれないが、「素材を生かした軽い味付けのイタリア料理を丁寧な接客で提供する」という、いわゆる東京にあるイタリアンレストランをイメージすれば分かりやすいかもしれない。コラボは中華料理を含めた、数ある上海のレストランの中でも、人気ランキング上位に輝くという高い評価を受けており、現在、上海だけで5店舗目を出店するに至った。コラボの美味しさは共産党官僚にも知られるようになり、上海市政府の要請で上海万博会場にピザレストランを出店することにもなった。今、世界一競争が激しいと言われる上海の飲食店の中で、なぜコラボは成功できたのか。実際に上海の店舗を見に行った。

 コラボの経営者は黒木論一氏、中村一昭氏、陳春楊氏の3人。同額を出資して共同経営というスタイルをとっている。従業員は120人で、日本人シェフ阿由葉知博氏以外はすべて中国人のスタッフだ。3人の経営者はいずれも30代という若さだが、なぜこの3人が上海でイタリアンレストランを経営することになったのか。

 3人の出会いは2000年の東京だ。黒木氏と陳氏はベンチャー企業の同僚であり、陳氏の行きつけのイタリアンレストランを経営していたのが中村氏だった。黒木氏と陳氏は子会社に出向し、上場を目指して寝る間も惜しんで仕事に打ち込んだ。その子会社は着実に利益を上げ、上場が現実的になってきた矢先、2002年にITバブル崩壊。黒木氏が出向していた子会社は親会社に吸収されることになり、黒木氏はすっかりやる気を失った。独立心旺盛だった黒木氏はその時「やはり自分で会社をおこさなければダメだ」と悟ったという。

 同じ思いを抱いていた陳氏は、イタリアン好きが高じて「これからは中国がすごくなる。上海でイタリアンレストランをやるのはどうか」と言い出した。中村氏は既に銀座でイタリアンレストランを経営しているという実績があり、陳氏にとって上海は地元である。そこに黒木氏のリーダーシップが加われば上手くいくと言うのだ。

 黒木氏は半信半疑だったが、飲食店の経営には興味があった。しかし、東京でレストランを開業するには資金がまったく足りない。そこで黒木氏は、まず1週間会社を休んで上海に行ってみることにした。上海では陳氏の母親と会い、一緒に洋食と名のつくレストランに手当たり次第入ってみたが、すべて恐ろしくまずかったという。

 「ここにライバルはいない。これだったら成功する」。
 そう確信した黒木氏は帰国後、会社を辞めた。
 2003年、すべてを整理して上海に乗り込み、いざ店舗探しという矢先に、香港からSARSが発生した。それが上海にも飛び火して、渡航禁止だけでなく外出禁止令も発令され上海の街は閑散とした。商業施設は開店休業状態になり、家賃の高い大きな飲食店から潰れていった。日本から出店していた飲食店も店を閉めて帰国していった。しかし、黒木氏はすべてを捨てて上海に来ていたので日本に帰る場所はなかった。資金が潤沢にあったわけではないので、一日も早く稼がなければいけないというプレッシャーもあった。「SARSは流行病、いつか治まる」。あえて楽観的に考えて、店舗探しを続けた。ピンチはチャンスという言葉があるが、SARSの影響で日に日に上海の飲食店の家賃相場が下がっていった。これは立ち上げ当初、資金がなかったコラボにとってはラッキーなことだった。
「今では考えられないことですが、月1万元くらいで借りられました」と黒木氏。
 この時期、SARSにひるまず、店舗探しを続けて賃貸契約をしたことが初期のコラボの経営を助けることになる。

 そのような環境の中、2003年、上海の中心地、静安公園にコラボ1号店をオープンしたのだが、最初はまったく客がこなかった。後からわかったことだが、そこは一年で3回オーナーが変わったといういわくつきの店舗でもあった。しかし問題の本質は、ほとんどの中国人はスパゲティを食べたことがないということだった。ディナーは大勢で円卓を囲む中華料理が主流で、そもそも少人数でイタリアンレストランに行くという発想自体がない。進出が時期尚早だったということもあり、売上げが一日200元という日が1ヶ月近くも続いた。200元というのは当時2500円くらいで、当然、日本人シェフの日給もでないありさま。資本を食いつぶす毎日だった。あきれた中国人スタッフに「あなた日本にいたら年収いくらもらっていたの?365日で割り算して、さあ今日の売上げと、どちらが高いでしょうか?」と笑われ、近くの公園のベンチに座って考え込んでいたという。「どうしたら客は来るのか」と。しかし、いくら考えても特別な案など思い浮かばなかった。「料理は絶対に美味しいはずだ。あとは来てくれたお客さんに精一杯サービスするしかない」。赤字でもあきらめずに愚直にサービスを続けたところ、少しずつリピーターが増え始めたという。

 洋食を食べる人がまだ少数だった上海に、多少フライング気味にイタリアンレストラン・コラボをオープンしてしまった3名の経営者。当初はまったく客がこずに苦労したが、日本人駐在員向けの雑誌に紹介記事を載せてもらえたことがきっかけとなり、オープンから3ヶ月目にして、ようやく席が埋まるようになっていった。

 最初は日本人客がほとんどではあったが、上海には日本人駐在員が6万人、短期出張者、旅行客を含めると、常時10万人の日本人がいる。上海に住む日本人は美味しいものに飢えている。それをターゲットにするだけでも十分に商売はできるのだ。そこに気が付いたコラボは、まずは日本人に絞ってサービスしようと割り切ったところ、急速に客が増えていったという。

 コラボ1号店である静安公園店は面積が小さくはあったが、ディナータイムになると順番待ちが出るようになっていた。その人達がどこから来てくれているのかを聞いてみると、静安公園から車で20分程のところ、古北という外国人駐在員が住む地域からという答えが多かった。わざわざ車に乗って来てくれるのだったら、そこにお店を出してしまえばいいと考えて、古北に2号店をオープンした。

 そのころになると1号店はそこそこ儲かっていたが、2号店も無理をせずに家賃の安い店舗を探した。「美味しいものを良いサービスで提供していれば、お客さんは店を探してでも来てくれる」。店舗としては目立たないビルの2階ではあったが、読みどおりこの店にはちゃんと客が来てくれた。この古北店の成功によって3号店、4号店へとコラボは躍進し
ていくことになった。
(つづく)

内田裕子

内田裕子

内田裕子うちだゆうこ

経済ジャーナリスト

大和証券勤務を経て、2000年に財部誠一事務所に移籍し、経済ジャーナリストの活動を始める。テレビ朝日系「サンデープロジェクト」の経済特集チームで取材活動後、BS日テレ「財部ビジネス研究所」で「百年企業…

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