2016年06月10日

真田幸村から学ぶ中小企業の生き残り戦略(中) ~高い“技術力”と危機管理で大企業に対抗

敵味方に分かれた真田父子

 豊臣政権下では比較的平穏な時期を過ごした真田親子だったが、1600年の関ヶ原の戦いが真田家の運命を決める一大転機となった。

 秀吉の死後、徳川家康派と石田三成派の対立が激化する中、会津にあった上杉景勝に対し徳川家康は上洛を求めたが上杉が拒否。家康は全国の大名に上杉討伐の号令をかけ、大軍を率いて会津に向かった。ところが下野国・小山(現・栃木県小山市)まで進軍したとき、上方で石田三成が挙兵したとの知らせを受ける。家康は従軍していた各大名に「これから西にとって返し石田三成を討つ。違う考えを持つ者は陣を引き払って領国に帰るように」と通告した。

 真田昌幸、長男・信幸、次男・幸村の父子3人も家康の命に従い会津に向かっていたが、下野国犬伏(現・栃木県佐野市)に着陣した7月21日(旧暦、以下同)、三成方から「反徳川の兵を挙げたので味方してほしい」との密書を受け取った。ここで真田父子は決断を迫られる。昌幸、信幸、幸村の3人は密かに話し合ったが、意見が別れたのだ。昌幸と幸村は石田三成への加勢を主張したのに対し、信幸は徳川につくというものだった。

 もともと昌幸は表向き家康に従っていたものの、第1次上田合戦(詳細は前号)やその前後のいきさつもあって本音では徳川ぎらいだった。幸村も当初は人質としてであったが秀吉のそばに長年にわたって仕え、三成をはじめ秀吉の側近グループと親しい関係になっていた。その頃に、三成の盟友と言われた大谷吉継の娘を正室に迎えている。

 しかし信幸は違った。第1次上田合戦の後、秀吉のあっせんにより真田は徳川と和睦したが、その後に徳川四天王の一人である本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えていた。しかも小松姫を家康の養女にした上で結婚しており、形の上では信幸は家康の娘婿になっていたのだ。徳川側には手ごわい真田を取り込むという思惑もあったとみられるが、家康や本多忠勝は信幸の誠実な人柄を評価するようになり、信幸も家康の実力を認め忠義心も持つようになっていたようだ。もちろん天下の形勢は家康有利との読みも当然あっただろう。

究極のリスクヘッジと危機管理

 こうして真田家はついに敵味方に別れることになったのだった。有名な「犬伏の別れ」である。しかしこれには別の解釈も成り立つ。家康、三成のどちらが勝っても、真田家は生き残ることができる。今日風にいえば、リスクヘッジであり、究極の危機管理である。

 もともと地方の豪族にすぎなかった真田家は一族が結束して生き残りを図ってきた。本連載の前号で見てきたように、かつて長篠の戦いでは当時の嫡男と次男が討死して当主不在となり、他家に養子に出ていた3男の昌幸が急きょ後を継いで真田家を存続させたこともあった。その後も武田家の滅亡、本能寺の変、第1次上田合戦など、何度も真田家存亡の危機に直面したが乗り切ってきた。こうした一族の歴史を考えれば、昌幸がリスクヘッジと危機管理を考えないはずはない。さらに言えば2人の息子の結婚自体が、こうしたことをある程度予想した上でのものだったかもしれない。

 実際、家康側についた信幸は関ヶ原の戦い後も上田の本領を安堵され、信幸の家系は大名として明治維新まで存続した。危機管理策が功を奏したわけだ。

 さて、犬伏で信幸と別れた昌幸と幸村は上田城に戻り、戦いの準備を始めた。片や徳川家康は小山からいったん江戸に戻ったうえで、軍勢を二手に分けて上方に攻めのぼる。家康は約3万の軍勢で東海道を上り、秀忠隊約3万8000は中山道を進んだ。秀忠軍は9月2日に小諸に入り、上田城の真田昌幸にあらためて味方するよう使者を遣わした。昌幸は「家臣どもに言い聞かせるから少し待ってほしい」と称して、降伏を受諾したかのように見せかけて時間を稼ぎ、その間に戦闘準備を整えるという策に出る。

 その挙句に「石田方に味方する」と対決姿勢を表明したため、9月8日に至って戦闘開始となった。秀忠率いる徳川軍3万8000に対し、上田城に立て籠もる真田軍はわずか3000人足らず。ところが、真田軍が城から出てきてすぐに退却し、それを追撃する徳川軍を大手門付近まで誘い込んだり、幸村が指揮する200人が夜のうちに密かに城外に出て秀忠本陣に奇襲をかけるなど、ゲリラ的な戦法で徳川軍を翻弄し多くの損害を与えた。さらに近くを流れる川の上流に堤防を築いて堰き止めておいて、徳川軍が川を渡るところを見計らって堤防を決壊させ、徳川方は多くの兵と馬が濁流に飲み込まれたという。

 これが「第2次上田合戦」である。結局、秀忠は上田城攻略をあきらめ、美濃国をめざして西に向かうが、その後の道中の悪天候もあって、9月15日の関ヶ原での本戦に間に合わなかった。1度ならず2度までも徳川の大軍を相手に一歩も引かずに戦い勝利してしまうという快挙――こうして真田の名はさらに一段と高まることになったのである。このあたり、独自の技術力や小回りのきく戦略で頑張る中小企業の姿を見るようだ。真田は「中小企業の星」のような存在と言える。

九度山に蟄居、苦しい中でも再起を期す

 しかし関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に終わり、またもや真田は危機に直面する。何しろ秀忠軍の遅参の原因を作った“戦犯”である。家康は昌幸と幸村の死罪を命じた。しかし信幸とその岳父である本多忠勝が懸命に助命を嘆願した結果、二人は一命を助けられ高野山蟄居となった。一方、信幸は従来の領地である沼田に加えて、昌幸が所領していた上田の領地も加増された。この時、信之は徳川に遠慮して、父・昌幸の「幸」からもらった信幸という名前を信之に変えている。

 高野山に配流となった昌幸・幸村父子は当初は金剛峰寺近くの寺に滞在したが、間もなく麓の九度山(現・和歌山県九度山町)に住まいを構える。ここでは幸村の妻子と十数人の家臣と一緒だった。流罪のわりには比較的厚遇されていたようだ。

 しかし生活は相当厳しかったようで、昌幸が上田にいる信之宛てに「こちらは借金が多く難儀しているので、早く20両を送ってほしい」などの手紙をたびたび送っている。幸村の正室が真田紐を考案し、家臣が全国を行商して生計を助けたという伝承も残っている。そんな中、昌幸は1611年に病死する。65歳だった。

 現在、九度山町には真田父子が蟄居していた屋敷跡に建てられた善名称院(通称・真田庵)があり、昌幸の墓も残っている。静かな山あいの町の一角にひっそりと立つ真田庵は、真田一家の苦労の跡を忍ばせる。まさに臥薪嘗胆。しかしどんなにつらい時でも決してあきらめずに再起を期していた土地でもあった。この時期を耐えて乗り切ったからこそ、幸村の大坂の陣での活躍があったのである。

 実は、幸村主従が九度山を密かに脱出して大坂城に入城した際、地元の農民が幸村たちの脱出を見逃した、あるいは周辺の地侍が幸村一行に加わったなどと言われている。これは幸村たちが地元周辺で信頼されていたことを示しており、苦しい時こそ振る舞いが大事だということを我々に教えてくれている。

「真田丸」で徳川方を翻弄

 そしてついに最後の決戦の時がやってきた。ここで幸村はその名をさらにとどろかすことになる。まず1614年の大坂冬の陣。敵の主力部隊が攻めてくる大坂城の南側に突出する形で出城を築いた。真田丸である。幸村は真田丸に敵を引き付け、寄せてくる敵兵に銃撃を浴びせるなどして翻弄し多くの損害を与えた。真田の本領発揮だ。

 真田丸のあった場所は特定されていない。現在のJR環状線玉造駅から西南へ徒歩数分の三光神社付近にあったと古くから伝えられ、境内には大坂城まで続く「真田の抜け穴」が残っている。ただ最近の研究ではその信憑性は薄く、同神社からもう少し西方にあったという見方が有力のようだ。

 冬の陣は和睦となり、大坂城の堀が埋められた際に真田丸も破壊された。年が明けて1615年、今度はいよいよ運命の夏の陣である。ここでも幸村は獅子奮迅の活躍を見せた。5月6日、大坂方の主力軍は大坂城から出撃し、現在の大阪府の南部各地で徳川方を迎え撃った。幸村軍は道明寺付近で伊達正宗軍と正面衝突した。現在の大阪府藤井寺市から羽曳野市にかけての一帯である。

 大坂方は善戦したものの、有力武将を次々と失う。幸村軍も一時は伊達軍を後退させたが、多勢に無勢、次第に押されて夕刻には撤退を余儀なくされた。しかしこの際の手際が見事で、伊達軍を感嘆させたという。

最後の決戦で一時は家康を追い詰める

 翌5月7日、この日を最後と定めた幸村は茶臼山に本陣を敷いた。茶臼山は現在の天王寺公園内にある小高い丘で、大坂城から南へ約5キロ、大坂方の最前線である。正面には、勇猛果敢で知られる松平忠直軍が陣を敷いていた。忠直は家康の孫で、このとき21歳、越前(現在の福井県)32万石の領主。幸村が最後の決戦を仕掛けるのにふさわしい相手である。茶臼山から一気に駆け下りて忠直軍を蹴散らした。

 そこから幸村は決定的な伝説を作り上げる。幸村軍は忠直軍を突破し、その後方に本陣を構えていた家康に襲いかかったのである。何万もの軍勢を率いる総大将の本陣に近づくことなど普通なら不可能だ。それをあっという間に突破してきたのだから、家康の本陣はパニックに陥ったという。家康を守るべき多くの旗本の多くは我れ先に逃げ出したと伝えられている。

 家康はぎりぎりのところで難を逃れ、幸村たちはやがて押し戻される。いったん引いた幸村たちは態勢を立て直し、2度3度と家康に迫ったという。しかし朝から続いた戦闘で幸村軍の消耗は激しく幸村自身も傷を負ってしまう。結局あと一歩まで家康を追いつめながら、討ち取ることはできなかった。幸村は兵を引いて近くの安居神社の境内で休んでけがの手当てをしていたところを敵兵に見つかり、ついに討たれてしまったのだった。49歳だった。(46歳説もあり)

 安居神社の境内には幸村が休んだという松の木があったが、当時のものは枯れてしまい、昭和になって植え替えられたという。「2代目」の松のかたわらには、幸村の銅像と碑も建てられており、無念のうちに命を落とした幸村を偲ぶことができる。

 思えば幸村の一生は激動の時代をあっという間に通り抜けたようなもので、残念ながら勝者とはなれなかった。しかし徳川軍を相手に何度も苦しめ、最後には肝を冷やさせるほどに追い詰め、確かに歴史に名を刻んだのだった。

真田の強さは現在の中小企業にも通用

 真田の強さの特徴は、何と言っても戦闘能力の高さ、一族の結束力、そして危機管理、それらによって生まれた周囲からの高い評価などにある。これを現代になぞらえれば、中小企業がその独自の高い技術を磨き、経営者と社員が一丸となって大企業をも打ち負かすほど力を発揮したようなものだ。危機管理もしっかりしており、世間から高い評価を受けている――まさに中小企業の経営にとって必要な要素が揃っている。実際、そのような中小企業は少なくない。

 実はもうひとつ、真田父子は現代の中小企業の経営にとって重要なヒントを残している。それは事業承継である。信幸・幸村兄弟は昌幸が真田家の生き残りのために必死で生きた姿を見ながら、また助けながら成長してきた。その結果、信之は徳川政権の下で真田家が安泰となるよう努力し、明治まで続く真田藩の基礎を作った。

 一方、幸村は徳川と戦うという昌幸の遺志を継ぐとともに、比類なき戦闘能力や戦術を昌幸から学びとっていた。二人の兄弟は父・昌幸の優れた資質の中からそれぞれ違う要素をうまく継承したと言える。

 しかし実は、幸村自身も子供たちへと密かに引き継いだものがあった。それも一種の事業承継であるが、それについては次号で明らかにする。

Vol. 54真田幸村年表