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2016年02月19日

注目度急上昇!五代友厚に学ぶ(下)~日本経済再生と企業経営へのヒント

 前号まで見てきたように、五代友厚は薩摩藩が明治維新を成功させるうえで重要な役割を果たし、維新後は大阪経済を再建に導き日本の近代化の礎を築いた。その業績を振り返ると、五代は実業家として3つの重要な特徴を持っていたことがわかる。それはそのまま今日の日本経済と企業経営、さらには大阪経済復活にとっての重要なヒントとなっている。

 まず第1に、グローバルな視野である。いち早く海外に目を向けていた五代は藩から長崎に派遣され、薩摩藩の外国船購入担当として活躍する。五代が購入した何隻もの蒸気船は藩所有の船として軍事面でも経済面でも幕末の薩摩藩に大きく貢献した。また五代は長崎滞在中、はっきりしているだけで2回上海に渡っており、薩摩藩きっての国際通となっていった。
 中でも、藩の留学生を率いてイギリスに渡航したことは五代本人にとっても薩摩藩にとっても、大きな意味を持つ。欧州の海外事情を視察するだけではなく、当時世界最大の紡績機械メーカーとの間で紡績機械の大量購入の商談を成功させた。これをもとに薩摩藩は鹿児島に工場を建設し産業近代化の拠点としていく。このように薩摩はイギリスの技術力を導入して経済力を強化したことで、明治維新を成し遂げる経済的な基盤を作ったのである。今風に言えば、成長戦略である。
 五代は1865年にイギリスに渡航した際フランスにも渡り、1867年開催のパリ万博に薩摩藩として出品することも決めている。このパリ万博が開催された時には五代はすでに帰国していたが、同万博には幕府が「日本国代表」として出品した。ところが幕府の代表団が現地に到着した時、薩摩藩も出品していることを知り驚いたという。五代が出品を決めたのは開催より2年近くも前だったため薩摩藩は周到に準備して、出品数などは幕府のそれよりも多かった。これによって薩摩藩は海外に対し薩摩の存在をアピールすることに成功したのである。まさに五代のグローバルな視野が時代を動かしたと言える。
 今日においても、経済のグローバル化が進む中で、グローバルな視野なくしては日本経済の再生はあり得ないし、個々の企業にとってもグローバル競争を強化することが欠かせない。業種や業態によってはグローバル化への拒否反応、ないしは避ける空気がなきにしもあらずだが、それは幕末期の「攘夷論」になぞらえることができる。前々号で指摘した通り、薩摩藩は薩英戦争をきっかけに偏狭な攘夷論を払しょくしてグローバル路線に転換したことが明治維新を成功に導いたのである。今日の日本経済が復活するには、グローバル化による果実をいかに取り込むかが勝負どころである。

 第2は、時代の変化を読み取る先見性だ。前述のグローバルな視野そのものが時代を先取りしたものだったわけだが、彼の幕末の活動を見ると、この先見性がいかんなく発揮されていることがよくわかると思う。
 それは明治維新後も変わらない。明治になって実業家に転身した五代は貨幣関連事業、貿易、金融、海運・陸運などきわめて多岐にわたる事業を手がけたが、いずれも日本の近代化にとって優先度の高い事業ばかりであり、その中でも公共的な性格を持ったものが多かった。いわば産業近代化の基盤を作るインフラ的な事業分野である。新しい時代には何が必要か、どの分野のビジネスが求められているか、今日で言えばニーズがどこにあるかをしっかりと捉え、それをビジネスチャンスとして生かしていったということである。
 五代が設立に関わった企業のうちのいくつかの企業が、その後も合併などを経て発展し、今日の南海電気鉄道、新日鉄住金、商船三井、日本郵船などとなっていることから見ても、五代の先見性を感じ取ることができるだろう。また五代が設立した大阪株式取引所(のちの大阪証券取引所、現・大阪取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)などが、現在の大阪経済の中心となっていることも周知の通りだ。

 第3は、幅広い人脈とすぐれた交渉力だ。実は、明治になって五代が手がけた前述の事業は五代が一人で行ったものはほとんどなく、いずれも大阪の豪商や実業家、あるいは薩摩藩時代からの同志などの協力や出資を得て始めたものなのである。この点が普通の実業家とは一味違うところだ。これも彼の広い人脈とすぐれた交渉力がなければ出来ない事であり、どちらかと言えばプロデューサー的な役割と果たしていたといってもよさそうだ。
 そうした五代の能力は幕末期から発揮されていた。すでに紹介したように、五代は長崎時代に高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、坂本龍馬、岩崎弥太郎など、藩の枠を超えて幅広い人たちと交流していた。そしてそれらが当時からその後の明治期に至るまで、大いに役立ったのである。
 特にトーマス・グラバーとの付き合いはきわめて深いものだった。イギリスからの船や武器の購入はほとんどグラバーを通して行われた他、あのイギリス渡航もグラバーが船の差し回しや現地での受け入れの手配など全面協力して実現したものだ。
 グラバーとの関係はビジネスだけでなく、プライベートまで及んでいたようだ。五代は幕末期から、物資や資金の調達などの面で大阪の豪商たちとも交流を深めていた。その中の一人に、和船を作る商人がいた。当時、長崎で洋式のドック建造に意欲を燃やしていた五代はその商家に出入りし、共同事業者としてグラバーを紹介した。それが縁で、グラバーはその商家の娘、ツルと結婚したのである。
 長崎の観光名所となっているグラバー園は、そのグラバーとツルが住んでいた邸宅跡である。ちなみに、ツルはオペラの名作「蝶々夫人」のモデルとも言われている。しかしオペラで蝶々夫人は夫・ピンカートンの裏切りに失望して自殺するが、実際にはツルは自殺などしていない。グラバーとの間に2人の子どもをもうけ、グラバーと一緒に幸せな人生を過ごした。二人は長崎市内の墓地に並んで眠っている。
 話しを本題に戻すと、今日においても一つの企業だけ、一人の経営者だけ、あるいは一人の人間だけで出来ることには限界がある。すべてのビジネスマンはいかにして人的ネットワークを広げるか、交渉力を磨くかが重要だ、企業レベルで言えばM&A(買収・合併)なども、その一手段となるだろう。
 以上のような五代の優れた資質と能力は、まさに今日の日本経済が復活をとげるうえで必要な要素だろう。これまであまり知られていなかった五代友厚という人物が注目されるようになったことは、日本経済にとっても喜ばしいことだと心から思う。多くの人が五代から元気をもらって、日本経済復活に役立ててもらいたいものである。

岡田晃

岡田晃

岡田晃おかだあきら

経済評論家

1947年、大阪市生まれ。1971年に慶應義塾大学を卒業後、日本経済新聞社へ入社。記者、編集委員を経て、テレビ東京へ異動し、「ワールドビジネスサテライト」のマーケットキャスター、同プロデューサー、テレ…

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