2010年10月01日

知らぬ間に叔母が応募した「スター誕生!」予選

――当時、13歳、中学生でのデビューは大きな話題になりました。小さい頃から、歌手を目指しておられたのですか?

「いいえ、そんなことはまったくなかったんです。歌手になるなんて、夢にも思っていませんでした。ただ、歌は子どもの頃からよく歌っていました。私の父は、フタバ食品というアイスクリーム工場に勤務していたんですが、歌謡曲が大好きだったんですね。夕方、父が自転車に乗って帰ってきたときは、すぐにわかりました。かなり遠くから、父の歌声が聞こえてきたからです(笑)。家でも毎日のように歌っていましたが、6畳一間の狭いアパート暮らしでしたから、私も聞いていて覚えてしまったんですね。2、3歳の頃には、「お、歌えるじゃないか」と父が私に歌を教えることに目覚めてしまって。まだ字も読めない、書けないときに、1日4曲も5曲も私に教えてくれるようになりました。でも、ちゃんと歌えると、『がんばったね、まさこ』とチョコレートで文字を書いたアイスクリームを持って帰ってきてくれるんです。これが楽しみで、私も頑張りました。もうひとつ、私の母は病弱で、私を生んでから3年間、入院していたほどでした。私が幼稚園を出てから家族で暮らし始めたんですが、やはり臥せっていることも多くて。ときどき、咳き込んだりする発作が出たんですが、私が歌を歌うと不思議と少し良くなったんです。だから、それもあって、ますます頑張って歌うようになりました。でも、家の中だけだったんです」

――「スター誕生!」に出られたきっかけとは、どのようなものだったのですか?

 「小学校のとき、東京に引っ越しをしたんですね。もともと一人っ子だった私は、非常に内向的な性格で、友だちもあまりいないし、一人で家の中でいるのが好きだったんです。そんな私を心配したのが、東京にいた母の妹にあたる、私の叔母でした。人と会っても挨拶できないくらい暗い性格でしたし、引っ込み思案だった私を見て、中学生になって、そんなに内向的では、暗いといじめられかねない、と考えたようなんです。何か、性格を変えられるようなものはないか、と叔母は思ったそうなんですね。それで、私がときどき歌っていたことを知って、人前で歌でも歌えば何か変わるんじゃないか、と考えたようなんです。日本テレビで『スター誕生!』という素人番組が新しく始まるということをどこかで耳にしたんでしょう、叔母が勝手に応募してしまったんです。でも、無理矢理連れていくのは、難しいと考えたんでしょう。予選会の日、中学入学のお祝いに何か買ってあげるから、有楽町のデパートに行こう、と誘われたんです。ワンピースと靴と帽子を買ってもらって、私は喜んでいて、さあ帰ろうというところで、いやいやちょっと7階で歌っていこうよ、というわけです。見ると、叔母の手にはしっかり楽譜があって。そのデパートの上が予選会場だったんです」

――そうすると、本当に何も知らないまま、「スター誕生!」の予選に参加することになってしまったんですか?

「そうなんですよ。会場の控え室に通されると、30代、40代の方々が真剣な表情で発声練習をされていて。子どもは私一人。私は空気に飲まれて、ガタガタ震えていたのを覚えています。でも、洋服を買ってもらったし、しょうがないかなと思って、とにかく一度だけ歌えばいいんだと、勇気を出して歌ったら、一次審査に合格してしまったんです。都はるみさんの「涙の連絡船」です。子どもがこういう歌を歌ったら目立つんじゃないか、と叔母は考えたようなんですね。その後、面接があったんですが、『私は予選に出る気などありませんでした。叔母と買い物をして、そのまま連れて来られました』と正直に答えたんですが、面接も通ってしまった。

  翌週の本戦の収録にも、私は無理矢理連れて行かれたんですが、会場に入ってびっくり。萩本欽一さんが見えたんです。思わず、『あ、欽ちゃんだ』と声をあげそうになりました。『こんどはずいぶん小さい女の子だねぇ』なんて言われて。アコーディオンの横森良造さんがおられて、目の前には審査員がずらりと並んでいます。一番端に阿久悠先生が座っておられたことは、後でわかったことでした。私はもう緊張でガチガチだったんですが、また合格してしまったんです。それからしばらくして、第一回の決戦大会が行われました。ここでも、私が最年少でした。それで、グランプリを取ってしまったんです。まだ12歳でした。あれよあれよという間に気がついたら歌手デビューが決まっていて、『何が起きたの?』という感じだったんです」

――歌手デビューができると決まって、お父様は、ずいぶん喜ばれたのではないですか?

「いいえ、それがそんなことはなかったんです。グランプリを取ってから、毎日のようにレコード会社の方やプロダクションの方が家に来られて、『うちに決めてください』とおっしゃられたんですが、父は歌手デビューに反対で、お断りしていました。これから中学生になる大事な時期であり、しかも本人も内向的な性格なので、とても芸能界などでやってはいけない、と考えていたようなんです。でも、貧しい生活の中で育ち、いろんな方にかわいがっていただけてはいたんですが、子ども心になんとなくわかったのは、これはひとつのチャンスなのかもしれない、という思いでした。それで私から父に『歌手になりたい』と申し出たんです。父には条件がありました。高校を卒業するまでとにかく頑張ってみること、それから、学校だけは休まないことでした。だから、中学は休まず毎日行きましたね」

芸能界のスター達との、さまざまな交流

―――中学生のスターは、いなかった時代ですよね。後に、山口百恵さん、桜田淳子さんと、中3トリオとして話題になるわけですが。

「あるときリハーサルで沢田研二さんがいらっしゃいました。以前はテレビで見ていた方だったんですが、私のほうを見て怪訝な顔をされている。それで言われたんです。『どうして、ここに座ってるの?ここは関係者しか入れないところだよ』と。私は『新人の森昌子です』と返すと『ああ、そうだったのか。ごめんごめん』と言われて。それこそ芸能界では、ほとんど全員が私より先輩で、私より年上でした。でも、そうだったからこそ、みなさんにかわいがって頂けたところはあったと思っています。 百恵ちゃん、淳子ちゃんは、私がデビューした翌年にデビューされました。私のデビューを見て、同い年でも歌手になれるんだ、と2人は『スター誕生!』にチャレンジしたのだと聞きました。あの頃は、いつも3人ずっと一緒でしたね。番組も一緒の事が多かったし、どこからが仕事でどこからがプライベートがわからないくらいずっと一緒にいましたが、いつも楽しかった。ちょうど雑誌『平凡』『明星』が全盛期だったんですが、あの雑誌の撮影は3人のスケジュールの関係でいつも真夜中だったんです。夜中の1時とか2時とかに、にっこり笑って表紙の撮影をしていて。みんな眠かったんですが、よく頑張っていたと思います。私が一年先輩だったから、いつもポジションは真ん中でした。右が百恵ちゃん、左が淳子ちゃんです」

――美空ひばりさんなど、芸能界を代表するスターの方々との交流をお持ちだったんですよね?

「ひばりさんはご自身が子どもの頃にデビューされていましたから、久しぶりに小さいのが出てきた、と早くから気に掛けて興味を持ってくださっていました。だから、デビューしてから早い時期にお会いすることができたんですよね。ものすごく気さくな方で、『ウチに遊びに来ない?』と誘っていただいて。ものすごくびっくりしたんですが、こんな機会はないだろう、とお邪魔したんです。プライベートルームに通していただいて、色々な資料を見せていただいて。それからは、頻繁にお邪魔するようになりました。中学3年生から高校一年生にかけての時期は、年間200日位も伺っていたんです。ご自宅には、専用のスリッパやコップも置いてありました。

 まさに雲の上の方だったんですが、『まちゃこ、まちゃこ』と呼んでくださって。『おなかすいたから、やきそば作ったわよ』なんて、ひばりさんが言われるわけです。イメージとのギャップがものすごかったことを覚えています。でも、こんなことを言ったら失礼ですが、本当にプライベートでは普通の方だったんです。あの映画を見に行こう、デパートでお買い物に行こう、とお誘いをいただいたこともあります。歌も直々に教えていただきました。私の歌を歌うこともあるだろうから、と1小節ごとに区切って、ここはこう歌うのよ、と教わって。本当に貴重な経験でしたね」

――ひばりさんから直接の指導とは、かなりのプレッシャーだったでしょうね。石原裕次郎さんとも、ご共演をなさったことがあるそうですね。

iv50_02「ドラマにゲスト出演したことがあります。『西部警察』に、出てくれないかな、と言って下さって。ロケでは、ご本人の出番がないのに、おいでいただいて。いつも座られている椅子に、『昌子ちゃん、座って』と言っていただいたりして。ずっと見ていただいたんですが、見られると緊張するんですよ(笑)。それで、セリフもガチガチ。NGも出してしまって。『大丈夫、大丈夫』なんて裕次郎さんから声が飛んでくるんですが、これがまた緊張するんです。笑いながら『何も言わないでください。緊張するので隠れててください』なんてお願いして。『もうお帰りになってもいいですよ』なんてことも言っちゃったりしていました。とてもいい雰囲気の中での撮影でした。

それから、渡哲也さんはじめ、石原軍団のみなさんと食事に連れていっていただきました。実は裕次郎さんは、私の母が大ファンだったんですよね。ロケに着いていきたい、なんて言われたものですから、ダメダメ、と強く断ったことを今も覚えています」

――13歳のデビューから、26歳の結婚、引退まで、順風満帆な芸能生活、だったのでしょうか?

「実は辞めてしまおうかな、と思ったこともあったんです。ちょうど高校を卒業してしばらく経った頃。学校がなくなり、ぽかーんと時間が空いて、いろんなことを考え始めたんですよ。友だちも進学したり、就職したりしていくわけです。それまで学校に通いながらのお仕事だったので、本当に毎日休みもなく、土曜も日曜もなかった。その時に、『辞める』という言葉がふと浮かんでしまったんですね。それで会社の人に相談したら、休暇を下さって。ちょうどロサンゼルスに友だちが住んでいたので、まったく一人で渡米したんです。リュックかついで、ジーンズをはいて。チケットは片道だけしか買わず(笑)。アメリカではレンタカーでサンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴからメキシコまで、ずっと車を走らせて、安いホテルに友達と2人で泊まった。そのときにものすごく印象的だったのは、人々がキラキラしていたんです。子どもも、ご老人も。人間って、キラキラできるんだって、思い出させてくれました。日本では、あんなに幸せな環境の中で過ごせていたのに、なんで私はこんなちっぽけなことで悩んでいたんだろうと気づきました。やっぱり人生は一回きり。もっと楽しまないといけないと思いました。

振り返れば、あのときがターニングポイントでした。 それまでは全部、人にお膳立てされて、その上で踊っていたようなところがあった。今度は自分で何かやってみよう、と思ったんです。もう一度、しっかり歌をやってみよう、と。ヘアスタイルを変えてみようと、髪を伸ばしたのも、この後のこと。年相応の歌を歌ってみたいと、演歌に興味を持ったのもこの後のことでした。ここからようやく、歌が楽しくなっていったんです。そして、26歳になる年に、結婚を期に引退しました。子どもの頃から家庭をもってお母さんになるというのは夢だったんですよ。だから、結婚したら仕事は絶対に辞めると決めていました。まったく未練はなかったですね。

もう一度歌うと決めた日

――引退後、家には自分のCDを置かなかったと聞いています。そして20年という時を経て歌の世界に戻られた。そのきっかけは何だったんですか?

iv50_03「そうなんです。実は家に自分のCDすらなかったし、テレビで映ったりしたらすぐに消していたんです。家では、普通のお母さんでいたかったからです。それにむしろ、主婦業が忙しくて、子どもが生まれてからは、家事に子育てに、ほとんど座るヒマもないくらいの毎日でした。けっこう大変なんですよ(笑)。子どもの世話も楽しかった。長男と次男が年子でしたから、前にだっこして後ろにおんぶして、掃除や洗濯、夕飯の支度をしていましたね。それから、5歳離れた三男が生まれて。赤ちゃんのときは赤ちゃんのとき、大きくなったら大きくなったで、いろんなことを、子どもに教わった気がします。

家では、私が歌手をしていた痕跡はまったくないような状況だったにも関わらず、再デビューするかどうか迷っていたときには、息子たちが言ってくれたんです。『お母さんの歌、一度、聞いてみたいなぁ』と。3人とも別々に、同じようなことを言ってくれて(笑)。それで、私もちゃんとしないといけないと思って、もう一度、歌おうと覚悟を決めたんです。私にはそれしかなかったですから。他に何かの技術や資格があるわけではなかった。歌しかなかったんです。でも、すぐに歌えると思っていたのに、声が出ないんですよ。ボイストレーニングを続けて、思うように声が出るまでに3年くらいかかりました。『待ってたよ』『お帰り』『応援してるよ』と街でたくさん声をかけていただきました。そのたびに、涙が溢れて仕方がありませんでした。お便りもたくさんいただきました。これがまたうれしくて泣いて。ホリプロさんをはじめ、昔の仲間たちも盛大なパーティを開いてくれて、これがまたありがたくてうれしくて。私はこれから歌で恩返ししていかなきゃいけない、それが私の使命なんだ、と思いました」

――そんな中、更年期障害に立ち向かわれることになったんですね。

「ちょうど再デビューをした1年後ぐらいからです。女性ですから、その存在自体は知っていました。でも、まさか自分がそうなるとは、思っていませんでした。最初は、夜、眠れないことから始まり、疲れているのかな、と思いました。そのうち、ぼんやりしたり、身体がだるくなり始めて。ますます、眠れなくなって、ようやくお医者さんに行ったら、更年期障害かもしれない、と言われて。ああ、ついに来たか、と思ったんです。誰でもなる可能性があるんですが、人によって軽さ、重さが違う。私の場合はちょっと重かったんです。何がつらかったかって、人に会いたくなかった。会って話ができない。また、夜になるとなぜか涙が止まらない。情緒不安定になるんです。家族とも会話も減って、部屋に閉じこもったりして。薬は飲んでいるんですが、効果が出ないと、『いつ治るんだろと』と今度は焦りが出てきて。これがよくないんですね。私の場合、再デビューをしてすぐの事だったので、その仕事との調整もあって苦心しました」

――また、子宮筋腫、子宮頸ガンから、子宮全摘出をされたというニュースが流れました。

「 私の場合、若いときから貧血がひどかったんですね。それが、特にひどくなって、不正出血が始まって。その出血量が半端ではなかったんです。それでおかしいと思って病院に行ったら、筋腫がたくさんできていると診断されました。レーザー手術で除去して、子宮頸ガンも初期ではあったんですが見つかったので、これもレーザーで取り除いてもらいました。でも、体質的にどうしても筋腫ができてしまうんです。なんとかお薬だけで治る方法がないかと、約1年間、勧められた薬を飲んだりしていたんですが、だんだんごまかし切れなくなってしまって。顔に副作用が出てしまったんです。真っ赤に腫れ上がって、むくみも出て。皮膚が湿疹だらけになってしまったんですね。お医者さんからは、原因ははっきりしないと言われました。薬もあるだろうし、精神的なストレスもある。でも、そんな状態では、人前に出られません。仕事も出来ないし、テレビにも出られない。人にも会えない。それくらいひどい顔だったんです。それで、最終的に先生と相談して、子宮全摘出の手術を受けることにしました」

――記者会見まで行われたというのは、何か、森さんの思いが込められていたのでしょうか?

 「 会見を開き、病気のことをご説明することにしたのは、先にニュースが流れてしまったこともありますが、少しでもお役に立てれば、と思ったからです。私の使命は、若い女性に、病気のことを知ってもらいたいと思ったからです。デリケートな話ですから、積極的にしたい話ではありません。でも、自分がそういう病気であれば、気に掛ける女性も増えていくんじゃないかと。実際、会見を見て、検診に行く背中を押された、という声をいただきました。勇気が出てきました、という声もありました。自分も同じ病気をしました、という声もありました。今はすっかり元気になって、体調もいいです。世の中には、本当に苦しんでいる方もたくさんおられると思います。苦しいのは、決して一人じゃないんです。私が伝えたかったのは、一人の中におさめないこと。家族でも友人でも、ちょっとでもいいから話してみる。あたたかい人たちはたくさんいるんですから。まずはお医者さんに相談することです。若い方でしたら、とにかく検診が大事。女性の場合、子宮のみならず乳ガン検診も怠らずに行ってほしい。自分の身体ですから、自分で守っていかないと、誰も守ってくれません。それによって、家族も傷ついたり、悩んだり、悲しい思いをする可能性もあるわけです。でも、一人でも検診に行ってみようと思ってくださる方がおられるなら、発表して良かったと思っています」

――最後に、サイトをご覧になっているみなさんに、メッセージをお願いします。

「来年は、デビュー40周年になります。新しい歌を出して、その歌を持って、コンサート活動をします。今は歌が楽しい。歌うことが、ようやく楽しくなってきました。久しぶりに歌ってみて、昔とは違うことに気づきました。それまでの人生を踏まえて、等身大で、素直な気持ちでメッセージソングを歌っていけたらいいな、と思うようになりました。そして、今日お話したような、私が経験した婦人病のお話など、講演活動も合わせて行っていきたいと思います。自分の経験でお役に立てるのなら、と思います。 全国のみなさんにお会いして、元気な私を見ていただければと思っています。 お会いできる日を楽しみにしております」

――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。

取材・文:上阪 徹 /編集:鈴木 ちづる
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