2019年11月01日

信長が認めたのは、光秀の外交官としての才能

明智光秀というのは、織田信長にとって、どのような家臣だったのでしょうか?なぜ、リーダーである信長は、光秀を部下として高く買ったのでしょうか?

井沢元彦さ
ん講演依頼.comスペシャルインタビュー

織田信長が最も重宝したのが、羽柴秀吉と明智光秀でした。信長の無茶振りや無理難題、あるいは謀略など、誰もできなかったことをやってしまう才能を持っていた秀吉に対して、光秀はまた別の能力で信長に応えたからです。光秀は極めて優秀なユーティリティプレーヤーでした。博学で、鉄砲についての知識も持っていた。今でいうと、理工系才能ですね。当時は鉄砲を扱うには、火薬の調合の知識が必要で、それによってどのくらい弾が飛ぶかなどの計算も求められました。戦国武将というのは、とにかく敵と戦いたくてしょうがない猪突猛進型の人も多かった。そんな中で冷静に意見を言える一人が光秀でした。こういう人がいないと、政治は成り立たない。和議には冷静に説得する才能が必要ですからね。そういう能力を光秀は持っていたんです。武芸一点張りの荒くれ者揃いの中では、光秀は目立っていましたね。

しかし、何より信長が認めた光秀の才能は、外交官としての才能です。端的いえば、朝廷や幕府とコミュニケーションが取れたこと。例えば、光秀は和歌が詠めたんです。当時の朝廷や公家の間では、和歌は必須の教養でした。天気ひとつとっても、和歌を折り込む。そうすると、ああこの和歌は古今和歌集のあの歌だな、ということに気づけないといけない。また、身分の高い人から何かを聞かれて応えるとき、さりげなく和歌を折り込んだりすると、優秀な人間だとアピールできるわけです。自分たちと教養が同じだ。単なる武人、東人、野蛮人ではないと伝えられる。そうすると、教養人たちも安心してコミュニケーションができる。無骨な人間ばかりの織田家に、こんな人間はいなかった。公家たちとの外交ができた。だから、信長は重宝したわけです。それこそ朝廷との外交に失敗してしまったら、敵にさせられてしまうようなこともありえた時代です。ただ戦に勝てばいい、では済まなくなっていたんですね。ここで、信長が持っていない才能を、光秀は持っていたわけです。ただ、公家社会と強烈なコネクションを持ってしまったことは、光秀自身には、仇になったとも言えるかもしれません。

そもそも、どうして光秀はそんな信長の家臣になったのでしょうか?

信長の正室は齋藤道三の娘でしたが、光秀にとっては従姉妹に当たりました。従姉妹が嫁いだ織田信長は、戦国武将としてみるみる力をつけてその名前が知られるようになっていったわけです。そんな中で、光秀から自分を売り込んだという説もあるのですが、私は信長から光秀に近づいたのだと思っています。信長は、戦に強い武将でしたが、当時は常に身分がついて回った。所詮は田舎大名だったんです。いくら実力をつけたところで、人はついてきてくれない。それを信長はよくわかっていたのだと思います。要するに、看板が必要だったんです。その陰に隠れて、勢力を伸ばすことを考えたわけですね。

室町幕府の将軍家、義輝はとても優秀な人でしたが、家来に暗殺されてしまった。14代将軍を四国から連れてこようとしたんですが、京都の治安が悪くてそれは叶わなかった。それで、13代の弟で興福寺のお坊さんだった義昭を将軍にすることにしました。このとき、義昭がお坊さんから侍になるのを手助けしていたのが、光秀だったんです。光秀の哲学は、平和な世を築くこと。この乱世を収めるには、足利将軍家を復活させるのが一番、と考えたのでしょう。今から思えば古い考えに見えますが、当時はまだ幕府のシステムが残っており、しかも応仁の乱以降、地方では誰も幕府の言うことを聞かず、領土拡張の死闘が続いていたわけですから、光秀がそう考えるのも当然です。ただ、実は信長はそうは考えていなかった。将軍のシステムは古い、実力のある者が上に立ち、日本を変えていくべきだ、と思っていたわけですね。この2人の考えの違いが、後に爆発することになるわけです。

看板がない信長には、義昭というのは、なんともありがたい存在でした。それを迎え取りたかった。光秀にとっても、信長は興味深い存在でした。従姉妹の嫁ぎ先であり、この男に預ければ、足利家の復興ができるかもしれないと考えた。実は当所、光秀は盟友の細川藤孝と組んで、義昭を北陸の大名、朝倉義景のところに連れて行くんです。ところが、朝倉軍は平農分離をしていなかった。一時的には預けられても、京都に上洛して一年を通して面倒を見る、なんてことは不可能だった。実はこの頃、上杉謙信も上洛しているんです。上杉ほどの強力な大名でも、1年の間、京都に居続けるのは不可能でした。兵農分離ができていなかったからです。これが信長ならできるのではないか、と光秀は考えたんですね。実際、それは可能だった。兵農分離ができていたからです。義昭を迎えたのち、信長は周辺の滅ぼした国や同盟国を通って、悠々と京都に入りました。義昭は京都で15代将軍になり、感謝のしるしに信長に副将軍の地位を与えようとします。破格の待遇ですが、信長はそれを断りました。部下になる気などさらさらなく、いずれは義昭を追い出して、自分が天下を取るつもりだったからです。一方で、将軍家の力を使い、堺の大商人や本願寺から多額のお金を出させています。はむかうと、将軍家に逆らうのかと攻め立てたりしたんです。

やがて義昭は、自分が単なるカードで、操り人形であることに気づいていきます。当然、信長を頼った光秀にいろんな文句を言ったでしょう。そこで、光秀は板挟みになってしまった。ただ、光秀は最後は信長を取るんです。楽市楽座などのアイディアも素晴らしかったし、天下に平和をもたらしてくれるのは、もしかしたら信長ではないかと思い始めるわけです。そして、義昭の追放に加担することになります。

領民に慕われ、領国の経営にも優れていた光秀

井沢元彦さん講演依頼.comスペシャルインタビュー

光秀は自分の領国では、地元をよく知る国人衆を家臣として取り立てたり、出身・家柄に関係なく能力主義でポストを決めるなど、当時としては珍しい政治手腕を持つ主君だったと言われています。

そうですね。領国の経営の才能がありました。光秀が収めた京都の福知山には明智神社があって、彼は神様になっています。それは善政、良き為政を敷いたからです。商業を支援したり、森林を育成したり、さまざまなサポートをして領民が豊かに暮らせるようにした。領民の痛みがわかる人だったんでしょうね。この才能も、信長は認めていました。軍人という観点では、大将としてより、その才能をこそ認めていた。おそらく信長が領国を大きく広げたときには、光秀を民政官のような形にするつもりだったのだと思います。

光秀は当時としては珍しいんですが、側室を持たない人でもあったんです。マイホーム主義ですね。三女はたま姫、のちの細川ガラシャですが、輝くような美女だったと言われています。しかし本来、戦国武将は側室を持たなければいけませんでした。大名は男がいないと家系が絶えてしまうからです。それこそ正妻が病気がちだったりで跡継ぎが産めないということになると、側女を持つよう勧めたとも言われています。そうでないと、家が絶えてしまうだけでなく、自分も生きていけなくなるからです。戦国時代は、側室は奨励されるべきものだったんです。そんな中で、光秀は最初から最後まで側室を持ちませんでした。

清廉潔白、領国を収める才能もあり、戦国武将には珍しく和歌も詠め、博学でもあった。光秀というのは、どんな出自で、どんな育ち方をしたのでしょうか?

美濃の明智状の若様ですが、お父さんが斎藤道三と親しかったんですね。道三というのは、都のお坊さんから流れて、一代で天下を取った人。国主を追い出してしまった人です。司馬遼太郎の『国盗り物語』に詳しいですね。お坊さんというのは、当時の日本では随一の教養人なんです。その道三の、ぬきんでた教養の薫陶を、光秀は受けたのではないかと私は思っています。光秀にとっての師匠だったわけですね。鉄砲やら和歌やら、いろんなことを道三から学んだのだと思います。

そんな優秀な光秀が、最終的に謀叛を起こしてしまうわけですが、それは信長のマネジメントに問題があったのでしょうか?リーダーとフォロワー、トップと参謀の関係は、どのようにあるべきなのでしょうか?

信長という人は、大変な戦略家だったわけです。こういうことを、歴史学者はなかなかわかっていないんですよね。武力で天下を取れば、みんながついてくるのかといえば、そんなことはない。なんでお前はオレの上に来るんだ、ということになるんです。身分社会ですから。そこから、どうやって成り上がるか、信長は戦略的に考えていたんです。まずは将軍カードを使い、その後は天皇をかついだ。天皇に対して、義昭は不忠者だとして、それを口実に追放するんです。

とんでもないことをしようとするわけですから、下につく人は大変です。自分も働くんですが、部下をとにかくこき使う。それこそ会社でいえば、さんざん残業して「さぁ帰ろう」と思ったら、「お前、もう帰るのか」と上司や社長に言われるようなものです。このヤローと思って翌日早く行ったら、上司も社長もすでに来ていて、「お前、遅いじゃないか」みたいなことを言う。言ってみれば、超ブラック企業ですね。そこにとにかくへつらった秀吉のような人間もいるわけですが、光秀は年齢も信長より3つ上。難しさはあったと思います。そして、さんざんこき使われて、ストレスが溜まっていたところに、とんでもないことが彼の身に起こるんです。私はそれこそが、本能寺の変の直接の引き金だと思っています。

トップである信長から重宝され、時として意見も提案も行いながら、最後は本能寺の変を起こしてしまった。いったい何がその引き金だったのでしょうか?

井沢元彦さ
ん講演依頼.comスペシャルインタビュー

四国の長宗我部元親問題です。信長は勢力を拡大していくため、有力大名と重臣を仲良くさせるという政策を取っていました。四国では、長宗我部元親が最も強い大名でしたから、光秀に仲良くしておくように言っておいたわけですね。それを光秀は忠実に聞いて、第一の家老である斎藤内蔵助利三の妹を、長宗我部元親に嫁がせた。縁続きにすることで、織田家が何かをするとき、明智家を通すような形になったわけです。しかし、信長は一方で、四国の三好家にもルートを持っておこうと考えた。こちらも四国の名門です。ここは、秀吉に通じておくように伝えた。後に秀吉の甥っ子、ねねの妹の実子が後に三好家を名乗ることになります。

両者による四国の闘争では長宗我部が勝ちました。三好を叩き出し、四国統一を果たそうとしていた。それに対して信長は、四国をすべてやるつもりはない、と言い出すわけです。本能寺の変の直前、宿敵だった武田家が滅びました。信長は、返す刀で四国征伐を計画するんです。自分の三男、神戸信孝に古い重臣・丹羽長秀をつけ、数万の軍勢を送り込むことにしたんですね。四国征伐です。長宗我部と断交することに決めたわけです。
しかし、光秀にとっては、これまで営々と築いてきた信頼関係を一切、無視されたことになったわけです。信長は、三好を取ってしまった。実は、織田の軍勢が大坂を出航するのが、天正10年6月2日でした。この日、信長は殺されるんです。そして、それによって四国征伐は中止になったんです。

光秀は、長年の蓄積疲労で精神的にまいっていたのだと思います。そこに長宗我部との信頼関係を断ち切られた憤怒で「敵は本能寺にあり」となってしまった。通常、大名は腹心である一の家老に大事なことを相談するんですね。そうすると、家老は、「殿、それはなりませぬ」などと止めたりするわけですが、斎藤内蔵助利三という一の家老は妹が長宗我部家に嫁いでいるわけです。妹が殺されてしまう。これでは止められないでしょう。
そして、兵3000ほどという安土城ではまずありえないほど警備が手薄になった信長が本能寺にいた。絶好のチャンスがそこに現れてしまったわけです。光秀の悲劇は、本来なら止めるべき側近も、光秀を止められなかったことにもあるんです。

光秀は、突発的、感情的に動いてしまった。それが、光秀を追い詰めてしまうことになるのですね。

これが突然の行動だったことは、後の光秀を見てみればわかります。誰も光秀につく味方はいなかった。親しかった細川藤孝にすら後から手紙を出しています。さらに、信長と敵対する勢力にも声をかけていない。義昭がそそのかしたという将軍黒幕説や、信長がのし上がってきて不安になった朝廷が光秀を動かしたという陰謀説もありますが、時期尚早だと思います。当時はまだ、信長の周囲は敵だらけだったからです。信長を討て、と命令を出すことは難しかったはずです。ただ、光秀には本能寺の変のあと、銀500貫相当のお金を朝廷に献上した記録が残っているんです。もしかすると、信長を討った後、朝廷は光秀を征夷大将軍に任命した可能性があります。その見返りが礼儀としての献上金だった。ところが光秀はあっという間に負けてしまった。それで、将軍の話はなきものにされてしまったのではないか、という説です。実はある公家の日記は、本能寺の変から4日分が切り取られているんです。だから、そのとき、本当は何があったかわからないんです。

どうして本能寺の変は起きてしまったのか。リーダーの目線から見たら、どんなことが言えるでしょうか?

井沢元彦さ
ん講演依頼.comスペシャルインタビュー

使われる人間の心情が、信長というリーダーはわかっていなかった、ということですね。部下は、自分がやろうとすることのためのコマだとしか思っていなかった。コマにも感情があり、それは必ずしも合理的なものではないということに気づけていなかった。四国征伐にしても、面倒だけれど頼む、と一言あとでフォローしておけばいいものをしなかった。とにかくケアが足りないわけです。殿様だからしょうがないといえばしょうがないですが、このあたりが家康とは違ったところなんです。家康も若様でしたが、若い頃に人質にされるなど、苦労していた。だから、人の気持ちが分かったんですね。身分の低い人にも、丁寧に、へりくだってしゃべる人だった。後に、天下分け目の関ヶ原で戦う石田三成が、これまた威張って横柄だと受け取られるような人だったと言われています。雌雄を決したのは、このあたりにも理由があったのかもしれないですね。人間をコマみたいに扱ったりしてはいけないんです。プライドを傷つけたらいけない。部下に対しては、きちんと説明しないといけないし、きちんと慰労しないといけない。上司だからと何をしてもいいわけではないわけですね。信長のやったことは、理屈としては当たり前なんですよ。でも、部下のプライドは無視しちゃいけないんです。

一方の光秀は、見込みのない暴発を起こしてしまった。感情的に動くことの危険です。しかも、やってしまった以上、なんとかしようとするものの結局、天王山で負けてしまった。少なくとも京都を中心とした日本の中枢を押さえられたかもしれないのに、まったくできなかった。無計画だったからでしょう。本能寺の変というのは、徹底的に世の中を変えようとした信長が、あまりに急進的過ぎて一部に否定された、ということです。戦の世の中は終えたかったけれど、それまでのやり方を省みず、あらゆる権威や既存の価値を無視していると捉えられた。行き過ぎだったと思われてしまった。それが結局、光秀の反乱につながったんだと思います。信長という天才が生きていたらどうだったか。実はこれ、SF小説として書いているんです。それだけ面白いテーマです。その信長が失われた。明智光秀、さらには本能寺の変というのは、やはり歴史上、大きな意味を持ったキーワードだと思います。

――取材・文:上阪 徹/写真:三宅 詩朗/編集:対馬 玲奈