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2011年07月11日

明暦の大火から江戸を復興させた名君・保科正之~今日の震災復興にも教訓~

 皆さんは保科正之という大名をご存知だろうか。明暦の大火で江戸の大半が焼け尽くされるという、徳川幕府始まって以来の危機を乗り切ったリーダーだが、そのわりに知名度は低い。だが保科正之の業績は、今日の震災復興のあり方や政治のリーダーシップを考える上で、貴重な教訓を我々に残してくれている。

数奇な運命をたどった将軍の隠し子
 
まず保科正之という人物について紹介しよう。実に数奇な運命をたどった人である。父親は2代将軍・徳川秀忠。秀忠は大奥に勤めていたお静(お志津とも書く)を気に入り、男の子が生まれた。幸松と名づけられたその子こそ、後の保科正之である。しかしその誕生は公にされず、ひそかに育てられた。なぜそのような扱いになったのかというと、秀忠の正室、今年のNHK大河ドラマの主人公・お江の方の存在だ。お江の方は嫉妬深く、恐妻家だったため、秀忠は生涯にわたって側室を持たなかったといわれるほどだ。そのためお静と幸松の存在は秘密にされ、そのことを知っているのは、秀忠のごくわずかな側近だけだったという。
 幸松は生まれてしばらくの間は、お静が江戸・神田の実家で育てていたが、お江の方の詮索から逃れるため、見性院という尼僧に預けられた。この見性院という女性は武田信玄の娘で、信玄のいとこ・穴山梅雪に嫁いでいた人だ。その穴山梅雪は武田家滅亡後、徳川家康に仕え、本能寺の変が起きた時は家康と一緒に堺にいた。家康一行は堺から伊賀を越えて三河に逃げ帰ることが出来たが、その途中の伊賀で梅雪は土民に襲われて命を落としたのだった。こうしたことから家康は、未亡人となった見性院を庇護し、後を継いだ秀忠も見性院を江戸城内に住まわせて生涯大事に扱った。そういう人に幸松を預ければ安心だったのだろう。
 見性院の下で幸松はすくすくと育ったが、見性院は幸松の将来のためには、しかるべき大名家に養子に出したほうが良いと判断するようになった。そこで、武勇に優れ人格者として評判の高かった信州高遠2万5千石の藩主、保科正光に白羽の矢を立てたのだった。保科家はもともと武田家の重臣の家柄だったので、見性院にとっては信頼できる相手でもあったのだろう。幸松は7歳のとき、こうして保科家の養子になったのだった。そして保科家で順調に成長し、21歳で高遠藩主に就任し、正之と名乗った。

信州高遠藩主から会津藩主へ、そして幕府のナンバーツーに
 
だが、それでも実父・秀忠との親子の対面はかなわないまま(将軍と大名としての顔合わせの機会はあったようだが)、秀忠は死去し、家光が3代将軍に就任した。家光から見れば、保科正之は異母弟になるが、最初は異母弟の存在を知らなかった。だがふとしたきっかけでそれを知り、それ以来、家光は正之を大いに信頼し、幕政にも参画させるようになった。そして信州高遠から山形20万石へ、さらに会津23万石へと”出世”させていった。正之が藩主となった会津藩はこの後、幕末まで続くことになる。
 家光が正之を厚遇したのは、弟だからというだけではなかった。家光は同母弟の忠長を切腹させており、むしろ弟は警戒すべき存在でもあったのだ。したがってそこは正之の人柄や能力を評価したものと解釈できるだろう。やがて1651年、死の床に伏した家光は正之を枕元に呼び「幼い家綱を頼む」と言い残した。跡継ぎの家綱はまだ11歳。正之をその後見人にして徳川政権の安定を託したのだった。
 徳川幕藩体制を完成させた家光の死は、実は徳川幕府始まって以来の最大の危機だった。家康、秀忠、家光の3代にわたって多くの大名を取り潰した結果、大量の浪人が発生し社会不安が高まっていた。こうした不満を背景に、家光死去という時期を狙って幕府転覆を図ろうという由井正雪の乱が起きたのだ。幕府はこれを未然に防いだが、事件の背景となった浪人問題の解決が課題に浮上した。4代将軍となった家綱の後見人として幕政のナンバーツーとなった保科正之は、大名政策の転換に踏み切った。これまでは跡継ぎがいない大名は取り潰してきたが、末期養子(死の直前に養子を決めること)を認めて大名の取り潰しを減らした。浪人の増加に歯止めをかけ、社会の安定を図ろうというものだった。武断政治から文治政治への転換である。このほか、それまで大名の妻子だけでなくその重臣の妻子も人質として江戸に住まわせていたが、重臣から人質をとることを廃止した。殉死を禁止したのも正之だ。

明暦の大火で江戸城も焼失
 
正之はこうして徳川幕府最大の危機を乗り切った。これは政治的な危機だったが、次に起きたのが未曾有の災害という危機だった。明暦の大火(振袖火事)だ。1657年(明暦3年)1月18日、本郷から出火し瞬く間に江戸中に広がった火事は二昼夜におよび、江戸の大部分を焼失した。焼失した大名屋敷は500軒、旗本屋敷770軒、町屋400町余りにおよび、死者は10万人以上に達したという。江戸城も天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が焼け落ち、無事だったのは西の丸だけだった。将軍も本丸から西の丸に避難を余儀なくされ、一時は城外への避難が検討されたほどだ。
 この対応に陣頭指揮を執ったのが正之。西の丸に避難した将軍の前で右往左往する幕閣の中にあって、正之は城外避難との意見をしりぞけ、「西の丸が焼け落ちたら、屋敷の焼け跡に陣屋を立てればよい」として将軍を江戸城にとどまらせた。有事の際にトップがとるべき姿勢を示したと言える。
 被災者救援にも力を尽くした。まず粥の炊き出し。江戸の6カ所で、一日千表の炊き出しが7日間行われ、さらに延長された。同時に、家を焼け出された江戸町民に救助金として16万両を支給することにした。幕閣の間からは「それではご金蔵がカラになってしまう」と反対する声が上がったが、正之は「幕府の貯蓄はこういう時に使って民衆を安堵させるためのもの。いま使わなければ、貯蓄がないのと同然だ」と一喝したという。
 被災者救援と並行して取り組んだのが、物価の安定だった。江戸中が焼け野原になってモノがない状態では物価が高騰しやすい。特にコメの価格は要注意だ。そこで、正之は米価の上限を決めるとともに、コメの確保を急いだ。さらに正之は一つの”奇策”を打ち出す。参勤交代で江戸にいる諸大名に帰国命令を出し、国許にいる大名には参勤交代で江戸に来る必要なしと通知したのだ。参勤交代で江戸にやってくる各藩の家臣の数を合わせると膨大な人数にのぼる。それを減らすことによって、コメの需給を緩和し値上がりに歯止めをかけようとしたのだった。普通なら、江戸が一大事だから大名がこぞって江戸に駆けつける
ことが幕府への忠義と考えそうなところだが、正之の考えは逆だった。既存の常識にとらわれない柔軟な発想と、幕府の権威よりも被災者と民衆の生活安定を優先させるという明確な理念があったのである。

防災に強い江戸の町づくり~復興のために優先順位を明確化
 
そして次の課題が江戸の復興。正之は江戸を防災に強い都市に改造する方針を打ち出した。主要道路の道幅を拡幅するとともに、各地に火除けのための空き地や広小路を作った。今も地名に残る上野広小路は、この時に作られたものだ。神田川を拡幅し、隅田川には初めて両国橋がかけられた。また江戸城内にあった徳川御三家の屋敷を城外に出すとともに、江戸城周辺にあった大名・旗本屋敷をその外側に移転させ、寺社を江戸の郊外に移転させるなどした。これによって江戸の市街地は拡大し、その後の江戸の発展の基礎を作った。
 ここで浮上したのが、江戸城の再建問題だ。前述のように、江戸城は西の丸以外はすべて焼失してしまったため、本丸や二の丸、三の丸が再建された。だが天守閣はついに再建されなかった。これは正之が反対したからだ。その理由は、天守閣は城の守りに必要というよりも遠くを見るだけのものなっており、このような時に天守閣の再建にカネを費やすべきでないというものだ。「庶民の迷惑になる」とまで言ったという記録が残っている。江戸城の天守閣は徳川の権力と権威の象徴であり、当時の常識ならその再建は最優先課題だったといってもおかしくない。正之はそれを否定したのである。まさに、国難に直面し、優先順位を明確にして復興に取り組んだのだった。ちなみに、江戸城の天守閣はその後も再建されることはなく、明治維新を迎えることになる。現在の皇居東外苑の一角には天守閣の土台となる天守台が残っている。
 こうしてみてくると、保科正之は幕府の権威や既存の常識よりも、江戸の復興と民生の安定を何よりも優先し、そのために限られた財源を効果的に使うことに心を砕いていたことがよく分かる。その方針は常に明確でブレがなく、リーダーシップを発揮して老中など幕閣をまとめている。こうした正之の業績は今日の震災復興においても大いに参考になるし、もっと注目されていいリーダーだと思う。

岡田晃

岡田晃

岡田晃おかだあきら

大阪経済大学客員教授(大学院経済学研究科、経済学部)

1947年、大阪市生まれ。1971年に慶應義塾大学を卒業後、日本経済新聞社へ入社。記者、編集委員を経て、テレビ東京へ異動し、「ワールドビジネスサテライト」のマーケットキャスター、同プロデューサー、テレ…

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