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楽しいことを続ける。それが夢への道に。

ラサール石井

ラサール石井

タレント

1980年に渡辺正行、小宮孝泰と結成したお笑いトリオ「コント赤信号」で花王名人劇場にてデビュー以来、テレビのみならず、その博識を生かしたクイズ番組のパネラーや、 情報番組のキャスター、声優、舞台の作・演出など、 さまざまなフィールドで活躍し続けているラサール石井氏。

講演会では、名門ラ・
サール高校を受験したときの自身の体験を おもしろおかしく語る中で教育問題への提言をするなど、 <緩急併せ持つ講演>として好評。そんな講演会でお話いただく内容を中心に、芸能界の裏話や芸能界で長く生き残るための処世術など、ラサールさんにお話をお聞きしてきました。

「お受験」から始まった青春

――ラサール石井さんの「ラサール」は本当に鹿児島の名門校、ラ・サール高校に学ばれたていたからというのは有名な話ですね。学業に勤しまれていたというのは自発的なものだったんでしょうか。子どもの頃のお話から聴かせていただけますか。

 「大阪の帝塚山というところで育ちました。路面電車が走るのどかな町なんですが、家の裏に入江塾という当時有名な進学塾がありましてね。中学1年のときから、なんとなく通い始めたんです。 勉強はやればできるとは勝手に思っていましたが、好きだったわけではありません。授業中は授業に集中せず、「ロボットが現れる」とかストーリーをつくって空想ばかりしていましたし。お笑いのネタを考えていたわけじゃないです(笑)。ただ、5歳くらいからお笑いは好きでしたね。でも大阪は面白いヤツがいっぱいいますから。「面白い」という笑いのレベルで言うと、ぼくは中学のときのクラスでは2番目だと思っていました。クラスで2番なんだから、世の中での順位はもっと低いだろうと。だから芸人になれるとは思ってもみませんでした。 ただ、漠然とみんなと同じようにサラリーマンにはならないだろうとは思っていました。 漫画家か、小説家になりたかったですね」

――塾には真面目に通われていたんですか。

「 いや、塾はサボり倒していましたね(笑)。 その塾はきわめて私塾的で、普通の家を改造してあって、先生はステテコ姿。時間割も決まっていないし、土日も休みはないんです。しかも「学校から家に帰らず直接来い」と言われるんですよ。家に帰ると、塾に行きたくなくなるからです。でもぼくは家が近いですから、ちょっと家に寄ると、やっぱり行きたくなくなる。でも家にかばんを置くと帰ったことがばれますから、路地にかばんを置いて、1人でミナミ(大阪の繁華街)に遊びに行ってました。 「1人だったら絶対に非行に走らない。非行に走るのは悪いヤツらと群れになるからだ」というのがぼくの考えでね。それで、1人でB級映画を見ていたんです。とりわけ、ヤクザ映画を見ましたね。ちょっとエッチなシーンがあるけど、R18じゃないので(笑)。 でもそのときいろんな映画を見たことが、今になって役に立っていると思います」

――塾をさぼっても、ラ・サール高校に合格されたのはすごいですね。

「それは灘高に落ちたからです。うちの塾は灘高に行かないと意味がない塾なんですよ。 そうして塾をさぼっているうちに、ある日、先生に呼び出しをくらったんです。「おまえは灘高に行く気があるのか」と。黙っていると、先生はぼくを指してみんなに言うわけです。「見ろ、これが敗北者の目だ」とね(笑)。 翌日から塾に泊り込むよう言われました。そうすると、今度は学校をさぼるようになりましたけど。 それでも入試2週間前から朝から晩まで塾にいて、灘高を受けてはみました。 塾生60人が家族と一緒にバス2台くらいで受験に行くんです。早朝着いて、みんなで灘高の校庭でラジオ体操をして他の受験生を威圧するという。 そして、灘高の合格発表の日に泣いてる生徒が大阪駅に集まって九州のラ・サールへ行く寝台列車に乗るんです。寝台列車だけど、誰も寝ないで勉強している。ぼくは寝ていました。そうすると言われるわけです。「見ろ、これが敗北者の姿だ」とまた(笑)。 ラ・サールの試験は素直な問題だったので、合格できました。全寮制だけど、放任主義で楽しい学生生活でしたね。入学したときは7番の成績が、卒業するときは243番でしたが」

――東大を目指されたんですか。

「 共通一次はよかったんですが、二次試験はむずかしくて太刀打ちできなかったですね。一方でお試しで受けたつもりの早稲田大学の政治経済部にも落ちてしまって、文学部だけ合格したんです。 初めて東京に来たら楽しくて、ここで浪人したらもうどこにも受からないだろうと、そのまま早稲田の文学部に入りました。学費の安い東大に受かって親孝行しようとも思ってたんですが。 今、受験という難関の前にいる人たちに何かアドバイスできることがあるとしたら、受験は誰にでもできることだということです。テクニックだし、ゲームみたいなこと。難しいと思うから手がつけられなくなるから、とても簡単だと思ったほうがいいですね。 むしろ、高校に入って大学に入って、そこから先に学問があるんです。受験勉強はわからないと思わずに、わかるところからやっていけばいい。だってゲームですよ。弱いキャラクターをやっつけて自分のレベルを上げていけばいいんです(笑)。 それを面白くなくさせているとしたら、それは先生の責任。どこかでわからなくなるから嫌いになっちゃうんです。だって、小学校一年生のときに教科書というものをもらったとき、なんかページをめくってみたくなったでしょう。あの気持ちをどう持ち続けることができるかだと思うんです。」

裏方から演者へ

―――大学時代に演劇と出会われるわけですね。

 「そうですね。また勉強せず、演劇に。これでいけるかなと思ったのは、大学2年のとき、ぼくが書いた脚本で客が笑ったんですね。その当時から放送作家のバイトもやり始めていたんですが。それでテアトル・エコーの養成所のテストを受けたら合格してしまったので、演者もやってみようと。そこに後にコント赤信号を一緒に結成することになる、小宮と渡辺がいたんです」

――いよいよコント赤信号時代ですね。最初はどこで演じていらっしゃったのですか。

iv51_02「渋谷のストリップ小屋ですよ。デビューのときまでに300回くらい同じ暴走族ネタをやっていました。もちろん、デビューできるとかなんの保証もないですよ。でもぼくはいつか世の中に出られるとは思っていました。ずいぶん後で聞いた話ですが、小宮はとにかくストリップ小屋から出たいと思っていて、リーダーの渡辺はずっとこのままでいいと思っていたらしい(笑)。1980年にテレビ(『花王名人劇場』)に出られると言われたときは半信半疑で、それ1回きりだと思っていました。だからストリップ小屋の主人が「衣装を買いなさい」とご祝儀にくれた10万円も、私服を買っちゃったりして。 ぼくらはヘンに真面目なところがあって、テレビに出ながらも、時間があるときは1年ぐらいはストリップ小屋に出ていました。テレビとは全然ウケるネタが違うんで、ある意味、テングにならずにすんだのかもしれません」

――『オレたちひょうきん族』に代表されるお笑いブームは80~88年頃まで続いていくわけですが、その後「ラサール石井」としてまた一人の芸人としても成功されています。

「コント赤信号のバラ売りが始まって、それぞれワイドショーに出たときに、ぼくは読書コーナーをもらって、そのとき初めて「ラサール石井」という名前を使ったんです。抜けがよかったのかな、どんどん仕事が来はじめました。 それから空前のクイズ・ブームにも乗ることができた。『ひらめきパスワード』、『平成教育委員会』。ここで中学時代の勉強が意外にも役に立ったんです。先を見越して勉強したとか、そういうわけじゃないんですよ。たまたまですが、自分がやってきた事が時代の流れにあったんですよ。そしてそれを最大限活用したんです」

楽しいことを続ける。二番手で行け!

――仕事で成功されてきたのには、何らかのポリシーがあったのではないかとお察しします。

iv51_03「 まずは続けることですよね。自分から辞めちゃダメ。僕もいつかは世の中に出られると思って下積み生活を続けてきたし、デビューしてから今までだって努力を続けてきたから今があるんだよね。でも一つ思うのは、嫌な仕事もしなくていいということ。やりたいことをやることが結局続くことになるから。 芸能界はまた独自な世界です。人とのつながりがとても大事。でも、仕事をくれる人、お金をくれる人に、ごまをすっちゃダメなんです。 ぼくが人と付き合う基準はいい人かどうか。一緒にいて楽しい人かどうか。それと、うちの事務所の社長が言ったのは「二番手で行け」と。一番になってギャラが上がり過ぎると使われなくなるから。 でも今は本当にたくさん芸人がいるから、大変ですよね」

――また本格的な舞台の演出もされていますね。

 「演劇界で認められるには数をやるしかないと思いましてね。この13年間で70本の芝居の演出をやりました。1年に5~6本やっていることになります。少し減らそうとは思うのですが、レギュラーでいただいている仕事もあるので減らせませんね。結局、仕事をしていないと落ち着かないのかもしれません。休みたいなと思っても、4~5日何もないと、かえって不安になるんです」

――今携わっていらっしゃるすべてが天職のように思えてきますね。そういう仕事をまだ見つけられていない若い方たちにアドバイスをお願いできますか?

「さっき話をしたように好き嫌いや自分の天職が既に見えている人なら別だけど、そうでないなら若いときは、選り好みをせずになんでもやったほうがいいですね。そして一つの職業もやり方次第で自分のものにできるということを体験したらいいと思います。 たとえば居酒屋でサービスをやるとしても、マニュアルを踏まえた上で、自分なりの工夫を加えていく。マニュアル通り、マニュアル以下のことをダラダラやっていても面白くないし、自分のためにはならないですから。仕事の質は自分で上げていくものなんです。それが全て。どんな分野でもいいからそういう体験をしておくことですね。結局、そうやって自分なりに工夫をしてついた知恵が、自分に本当に好きな事が見つかった時に役に立つんですよ」

――最後に、サイトをご覧になっているみなさんに、メッセージをお願いします。

「ぼくは自分の体験をもとに教育のお話や芸能界での処世術を中心にした「仕事論」なども講演でお話していますが、教育の講演をしていてつくづく思うところ、学問というのは、ぼくの今の年齢になってこそ落ち着いてやれるものかもしれないなぁとね。学ぶということは何も学校での勉強だけではなくて、それぞれの仕事だったり生きていく上で学ぶことはたくさんあって。皆が自分らしく生きるために、学ぶことや好きなことを続けること、なんかをぼくの話をきっかけに考えてくれるといいなぁと思います」

――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。

取材・文:森綾 /写真:三宅詩朗 /編集:鈴木 ちづる
(2011年1月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)

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