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2011年12月09日

今、日本人に求められる「英語を、外国語としてではなく、”自分の言語”として喋る」という意識

私は、日々の生活において、テレビで放映されている英会話講座、あるいは、一般書店に並んでいる英会話教材を見ると、しばしば胸を痛めます。私が胸を痛めるその瞬間とは、「日本人における健全な国際感覚の樹立を狭める、”この島国・日本独特の現象”」を目にした時です。

「この島国・日本独特の現象」とは一体何を指すのか、今回は、私たち日本人が再考するべき「国際共通語としての英語に対する意識」、そして、「バランス感覚に優れた国際感覚の養い方」という観点から、少しずつ話を進めていきたいと思います。

さて、私たちすべての人間には、言うまでもなく、考える能力、即ち、「理性」(reason)が賦与されています。人間は、日々、物事を考え、自分なりの生き方を模索し、迎える一日一日において、「より実りある人生、そして、より価値ある人生を送りたい」と切望しながら生きています。人間は、この地球上におけるどのような文化圏において自分の人生を送ろうとも、迎える一日一日において、「必要な食事をとり、しっかりと働き、趣味を楽しみ、睡眠をとる」という如く、毎日、同じ行為を繰り返しながら時を刻んでいます。

私たち日本人にとって、日々の生活のために使う言語は日本語ですが、それは、日本という”極めて限定的な文化圏”においてのみ該当することです。ここでグローバルな観点から述べるならば、日本に住む一人ひとりの日本人は、いわゆる日本人である前に「この地球に存する”一人の人間”」として捉えることができます。これは即ち、一人ひとりの日本人にとって、「自分はどこの国に属するのか」という以前の問題として、日本人は、紛れも無く、「地球に存する”人間”(human being)」であるわけです。

この国際社会において、そうした「地球に存する一人の人間としての”自分自身の立ち位置”の意味」について十分に理解する人間にとっては、英語という”国際共通語”について捉えるとき、「自分が何人であるか」という問題はそれほど大きな問題ではないでしょう。

21世紀の現代社会においては、「英語」という言語は、決して”英米人”だけの言語ではありません。現実問題として、英語は、世界におけるありとあらゆる国々において国際共通語として多くの人々によって当たり前のように話され、もはや、「英語を喋るその本人が、英米人であるかどうか」ということは重要な問題ではなくなってきています。

日本で英会話を学ぶ人に見られる典型としては、「どうせ英語を喋るのであれば、喋る相手は英米人がいい。英米人と喋れば、自分の英語が上手になる」と端的に考える人が多いでしょう。しかし、たとえ英米人といえども、話す英語は「個人」によって様々です。無論、英米には「奇麗な英語」「エレガントな英語」を喋る人はいますが、すべての人がそうであるとは限りません。英米の一般社会では、例えば、「常識・マナーのない英語」を喋る人もいれば、「スラング、あるいは、暴力的表現を多く含む英語」を喋る人もいます。このことは、”日本人が喋る日本語”に当て嵌めて考えてみると実に容易に理解できることです。即ち、日本人だからといって、そのすべてが、「綺麗な日本語」「エレガントな日本語」を喋るわけではありません。喋り方・振舞い方は、まさに、人それぞれです。

私は、このグローバル社会において、真の意味での国際人が喋る英語とは、「いわゆる自由・平等・正義の名の下で、国籍、人種、民族、文化、習慣、思想、価値観、宗教等における相違を超えて、この地球に存する様々な人々と交流を図ることを目的として使われる英語」を指すのだと考えます。

本来、言語は、「自分の人生をしっかりと生きていく上で必要不可欠な道具」として捉えるべき代物。そうした観点から導き出せる考え方は、日々、仕事やプライベートで英語を喋る私たち日本人においても、「英語は、外国語ではなく、しっかりと自分の人生を生きていくための”自分自身の言語”である」という捉え方をしてみるということです。

英語を喋る相手が、何人であろうと、それは決して大きな問題ではありません。今、日本人が「真の意味での国際人への変貌」を目指して考えるべき重要なポイントは、「外国人とのコミュニケーションにおいて、常に、相手を、”地球に存する一個の人間”として捉え、お互いに”尊厳ある一個の人間同士”として接する」ということだと私は考えます。

日本には、実に、星の数ほど英語を学ぶ人がいますが、実際、このような考え方を基盤として学習を進めている人は極めて少ないでしょう。残念な事実ですが、日本人にとって、英語は「英米人の言語」。表現を換えるならば、日本人にとって、英語は「他人の言語」でしかないのです。

この”島国”日本では、多くの人々がどのように英語を学ぼうとも、結局、英語は「他人の言語」。それ故に、日本人が英語を学ぶとき、学ぶ本人がどのように熱心な学習者であっても、”この一種独特の偏狭な心理構造・価値観”を改善しない限り、日本人にとっての英語の学習は、1)「他人(英米人)が喋るその様相を真似するだけ」、2)「一にも二にも、真似することが学習の目的」というラインを超えることは永遠に不可能となります。

読者の皆さんが、ステレオタイプな英語の学習方法で満足するのか、それとも、「健全、且つ、バランス感覚に優れた日英バイリンガル」として人生を送っていくのか、その分かれ道は、本稿で述べた英語に対する認識・捉え方如何で大きく変わると思います。

「人生を生きる」という行為は、誰にとっても難しい行為です。そして、「言語を喋る」という行為も、極めて難しい行為です。英語という言語を面前として、1)「果たして、英語を”自分の言語”とすることができるのか」、それとも、2)「”他人の言語”として、それを真似するだけで満足してしまうのか」、この選択は、言語を扱うあなた自身が、この地球に存する”一人の人間”として、「あなた自身の判断と責任」において決めることです。

生井利幸

生井利幸

生井利幸なまいとしゆき

生井利幸事務所代表

「ビジネス力」は、決して仕事における業務処理能力のみを指すわけではありません。ビジネス力は、”自己表現力”であり、”人間関係力”そのものです。いい結果を出すビジネスパーソンになるためには、「自分自身を…

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