2007年10月12日

サッカーとの出会い

 「1968年に僕が生まれた当時の東京・町田市は、新興住宅地化が始まった頃で。どんどんスポーツ環境も整備されていたんですよ。僕がサッカーを始めたのは小学1年生。理由は、ただ、そこにサッカーがあったから(笑)。町田市はサッカーが盛んで、指導者の方々も熱心だったんです。市内の大会をつくったり。そうなると、ライバルもできるし、自分の力を試すための物差しや目的が増えるじゃないですか。そうやって少しずつ段階を追って、サッカーにのめり込んでいったんですよ。

 中学になると読売サッカークラブへ。日本でもここだけはプロだったんですよ。トップ選手の、ラモスさん、都並さん、松木さんとかいらっしゃって、給料袋を手渡しされていましたからね。いわゆる職業サッカー選手でしょう。自分もこれを目指せばいいんだと思いました。このまま高校でも読売で練習して、トップ選手になろうと思っていたのですが、残ることができなかった……。それで、修徳高校に進んだのです。父も、「環境を変えても活躍できる自分をつくればいい」と言ってくれましたし」

不本意ながら高校サッカーの道へ

――父の進言もあり、高校へ進学。しかし当時の修徳高校サッカー部には、新入部員が100名以上もいた。スポーツ特待生として入学したわけでもない北澤は、部内に自分の居場所を見つけることができなかった……いや、「見つける気などなかった」のだ。

最初は、高校サッカー独特の"アツさ"を敬遠していたものの、「高校1年の途中から醍醐味に気づき始めて、3年間ですっかり染まりました(笑)」。

最初は、高校サッカー独特の”アツさ”を敬遠していたものの、「高校1年の途中から醍醐味に気づき始めて、3年間ですっかり染まりました(笑)」。

  「ここで結果を残すというより、その先にあるプロしか見てなかったから。チームワークとか、一体感とか、そんなものはどうでもよくて、自分のテクニックをいかに磨くか、ということしか頭になかった。だから、最初は朝練には全然行かなかったんです。どうせ球拾い係ですし。友だちもなかなかできなくて、みんなからは「何なんだあいつは」とか思われていたはずです。僕につけられたあだ名は、「ヨミウリ」でしたから(笑)。でも、ある先輩が登場するんです。その人は、サッカー部員でありながら、サーフィンが得意な大人びた人で。上からの目線ではなく、同じ選手として対等に話してくれる人でした。その先輩が、1年生がやるべきことの意味などを諭してくれたんですよ。それで自分もだんだん納得できるようになって、半年くらいで普通に練習に参加するようになりました。その先輩の背番号が13番。先輩の引退後には、13番という番号を自分から引き継ぎました」

 

――北澤が高校2年生になる年、優勝候補の帝京高校に勝利し、修徳高校は学校創設以来初のサッカー高校選手権に出場した。北澤はレギュラーとして試合で活躍。このあたりから練習への取り組み方にも変化が表れる。

 「初出場した高校選手権では、今でも忘れられない印象的な出来事があったんですよ。実は1回戦で敗退してしまったんです。それもPK戦で。僕は攻撃的ミッドフィルダーというポジションでしたので、当然PKになれば、皆「北澤、頼む」って雰囲気だったのですが、ひいちゃったんですよ。僕はPKの練習を全くしてこなかったから。結局、びびった顔したうちの選手が最後のPKを外して負けてしまった。なぜ自分が蹴らなかったのか……、ものすごい後悔ですよ。その時に気づいたんです、練習して納得できたものしか本番に出せないって。それから毎日100本ずつ、PKの練習をするようになりました。あと、試合では必ず自分でPKを蹴ることも決めたんですよね」

ヴェルディに振られ、本田技研へ

――好きなことを続けていいと言ってくれていた父が、大学進学を勧めるように。「サッカーで飯は食えんだろう」と。しかし、北澤にとって目指すべき場所は、社会人の日本リーグ。もちろん、大学からの誘いもあったが、高校2年の時にその気持ちは固まっていた。

photo01_04「絶対に読売に戻ってやると決めて高校サッカーを続けていましたから、当時の読売トップチームのGMであり中学時代の監督をしていただていた小見さんに、「どうですか」って売り込んでみたんです。その恩師からの返事はあっさり、「だめだ。お前はまだ早い」と。そうか、俺はまだまだかと。それで、ますます大学に行っている場合じゃないという気持ちが強くなって。就職試験を受けて、本田技研に入社したんです。職級は1等27号。当然ですが、最下層からのスタートでした。

  バイクの塗装が主な仕事だったのですが、午前中は目一杯働いて、午後から練習です。正直、ここは本当に将来サッカーで食っていける状態に自分を持っていける環境なのかって、不安になりましたよ。それに本田は、シンプルイズベストのサッカーを追求するスタイルで、片や僕は、読売で学んだテクニックを得意とするタイプ。もう真逆なわけです。練習試合でもトリッキーなプレーをして、監督から本気で殴られたり(笑)。『何度言ったらわかるんだ!』って。当時は体もまだ大人になりきれていなかったし、スピードもなかったんでしょう。2年間は、公式戦のベンチにすら入れてもらえませんでした」

【ターニングポイント】父の言葉…「お前は本当に理解できているのか」

――これまでずっとレギュラーで活躍してきた北澤だったが、ベンチ入りすらできず、休日は対戦相手のビデオ撮影係。
実は、2年目が終わった頃、本気でサッカーを辞めようと考えたという。そして北澤は、父に一本の電話をする。

「実は、親父はこっそり試合を観に来ていたらしいです。だから何も言わなくても、僕の置かれている状況とか、チーム内での位置とか、なんとなくわかっていたのかもしれませんね」。

「実は、親父はこっそり試合を観に来ていたらしいです。だから何も言わなくても、僕の置かれている状況とか、チーム内での位置とか、なんとなくわかっていたのかもしれませんね」。

 「俺なりに一所懸命やってるけど、うまくいかない。難しいかもしれない」と。すると父は「お前は自分を本当に理解できているのか。監督のほうがお前のことを理解しているとしたら、ゲームに出られないのは当然で、それはとても恥ずかしいことだ。まずは、自己分析からやってみればいい」とアドバイスしてくれたんですよ。確かに、僕は本能でプレーするタイプでしたし、悪い部分なんて考えたこともなかった。それから、ノートに自分の良い部分、悪い部分をどんどん書き出すようになったのです。

  食べ物の好き嫌いをまずなくそうと、嫌いなものを書き出してみたり。また、食が細いほうだったので、2時間くらいかけて吐きそうになるまで食べたり。プレー面では、左のボール回しが苦手だ。右足の回転は得意だけど相手に読まれている。ゴール前でやるべきプレーと、やってはいけないないプレー……。そうやって、自己分析を繰り返しながら、苦手を克服するために、誰よりも早くグラウンドに出て、練習するようになりました。そうやって取り組み方を変えてから、だんだんと練習でいい動きができるようになっていったんですよ。監督から声がかかり、ベンチ入りさせてもらえるようになって。3年目の終わりには、数分間ではありますが、ゲームに出ることもありました。

 ゲームに出た日は、その日のうちにグラウンドに戻ってシミュレーションして、できなかったことを反復練習。恥ずかしいから、みんなに見つからないように、そっと寮を出て(笑)。次のゲームでまた使ってもらうためには印象が大事じゃないですか。この頃から、点を取ることをイメージしながらプレーするようになりました。公式戦とは別に、教育リーグというのもあったんです。自己分析を開始した3年目に、僕はここで得点王を獲得しています。自分がやってきたことは間違っていなかったということを実感できましたよね。4年目、やっとレギュラーのポジションを獲得し、5年間、本田技研にお世話になりました。そして1991年に念願の読売復帰を果たし、1993年のJリーグ開幕を読売ヴェルディの一員として迎えることができたのです。父のアドバイスには、今でも本当に感謝しています」

北澤豪からのメッセージ

photo01_08

ボランティア活動には現役時代から積極的に参加。アフリカ・ザンビア共和国、カンボジアなどを訪れ、サッカーの普及につとめている。

 「どうしても成し遂げたい強い夢を持ってない人に、『頑張れ、続けろ』とは言いたくないです。例えば、最近『なぜ若者は3年で辞めるのか?』なんて本が売れましたよね。辞めるその先に何かがあることを知らないまま、転職を繰り返すのはどうかと思う。もしかしたら、一回目はいいのかもしれない。でも、二回目も同じ理由で辞めるなら、踏みとどまって、先を見るための努力をしたほうがいいですねよ。失敗だって、経験のための大切な引き出しになるんですから。

 同じ失敗をしてしまった時、僕は、妻や友だちや仕事仲間に相談します。「またやっちゃったよ」って(笑)。客観的なアドバイスもほしいのですが、ただ話すことで解決することも多いんです。あと、サッカーの経験はピッチ以外でもすごく役立っています。90分間という限られた時間の中で、いいプレーができて積極的になったり、その直後に最悪なミスをして消極的になったり。しかも、90分後には、喜んでいるか、悔しがっているか、その結果もついてくる。人生が凝縮されたようなものなんですよね。みなさんも、サッカーでも何でも、スポーツをやられるといいと思う。いろいろな気づきや、ブレイクスルーとなる体験ができるはずです。

 今後は、サッカーが文化として世界に定着していくためのお手伝いを続けていきたいですね。サッカーには平和をもたらす力があると思っています。金持ち、貧乏、背の高い人、背の低い人、誰だって参加できるユニバーサルなスポーツですし。これからも自分を広げるために、サッカーから学ばせてもらった様々な知見を生かしながら、いろんなことにチャレンジして、世の中をつなげていきたい。プロスポーツ選手には、社会貢献する義務があると思っていますから」
(了)

 

文:菊池徳行(アメイジング・ニッポン)/写真:鈴木ちづる 
(2007年10月12
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