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新宿で印刷会社の御曹司として生まれ、将来は若旦那となるはずだったが、立教高校(現立教新座高校)卒業後、欧米への放浪の旅に。帰国後は俳優を志すが、なかなか芽が出ない。十数年の下積みを経て、タレントとして遅咲きのブレイク。テレビ局全局でレギュラーを持つ売れっ子になった。だが、全国に名前を知らしめる目的もあり、インパクトを重視。どこにもいない「クドくて」「気持ち悪い」キャラを自分なりに演出し、一方で一躍嫌われ者にもなる。93年、94年には『an・an』の「嫌いな男」で2年連続グランプリに。そしてこのアクの強さも影響し、40代に入るとテレビやラジオの仕事が少しずつ減り、一時はマスメディアの露出がほとんどなくなった。ところが2007年、カタカナ英語を交えた「ルー語」ブームで再びテレビ、ラジオの世界に「再起」。この間、ルー大柴に訪れたターニングポイントとは……?
ルー語の原点は高校時代のエクスペリエンスにあり
「人間ってエクスペリエンス、つまり経験が作っていくんですね。表現者になりたいと思ったきっかけは幼稚園なんです。人前でのお遊戯はナーバスになるものだったんだけど、あるとき拍手がもらえて。これはいいなぁ、となって。拍手がもらえる職業につきたいと。考えてみれば、何も幼稚園で人生を決めなくても良かったんだけど(笑)。ちょっとアーリー過ぎますよね。でも僕は、お前は跡継ぎだ、跡継ぎだ、と言われて育ったから、それが苦で。だから、ドリームの存在は、ものすごく大事だった。そして表現者になりたいという気持ちが、具体的に俳優というドリームに変わっていったのは、中学2年のときに見た映画「サウンド・オブ・ミュージック」でした。ストーリーがイノセントで、純粋なボーイの心にグサっと刺さって。もう感動の嵐なんですよ。それで“オレはこんなとこにいる場合じゃない”と思うようになって。早く舞台に立って人を楽しませたくて、卒業したら旅芸人になる、と宣言して親を困らせるんです。
ところが、ここで母親がすごい行動に出た。誰の言うことなら僕が聞くかを考えて、映画評論家の淀川長治さんに相談の手紙を書いちゃうんです。すると淀川先生から本当に返事が来ちゃった。
ちょっと座れ、と言われてその手紙を母が読んでくれて。“これからの役者は高校も大学も出てないとダメだ。ドリームはいい。やりたい気持ちもわかる。でも自分も中卒でずいぶん苦労した。お母さんは息子さんを学校に行かせないといけない。ハリウッドに行くにも学は必要だ…”。
この手紙は僕にも衝撃でした。それで勉強して立教高校に行ったんです。そこで演劇部に入って夢中で演劇をやった。実際、高校に行ったことで貴重なエクスペリエンスを得るんです。ルー語の原点もそう。アメリカ帰りのガールフレンドと出会って恋に落ちて。強烈なパーソナリティを持ってた彼女が、英語と日本語がごちゃ混ぜになった言葉を使ってた。それがうつっちゃったんですよ」
20代は焦ってた。焦る必要なんてなかったのに
――――高校を出て海外に放浪に行ったのは、大きな夢を果たすには、人と同じことをやっていてもダメだと思ったから。そしてイギリスで3カ月英語を勉強した後、俳優になるにはもっといろんな人間を知らなければ、とヒッチハイクで北欧を回った。寝袋を持ち歩き、宿が取れないときには、土管で野宿した。
「実際のところは、跡継ぎのプレッシャーから逃れること、それから不仲になった両親がケンカする姿を見たくなかった、というのもあったんですけどね。遠くに行きたい、家から離れたいって。でも、露天商をしながらのヒッピー生活は楽しかった。ヒッチハイクしたり、初めて会った人に1週間タダで泊めてもらったり。素敵だな、と思う女の子がいたら声をかけました。だって、後悔したくなかったから。もちろんダメなときもあるけれど、うまくいくときだってあるんですよ。声をかける前からあきらめてる場合じゃない。頭だけで考えて失敗を恐れるから、手に入れられるものも手に入れられないんです。恥はかいたっていい。エクスペリエンスをしながらグローイングアップしていくのが、僕のフィロソフィー(哲学)だから。そういえば、まわりには「ジャパニーズだ、イエローだ、っていじめられた」なんて日本人もいたけど、僕はまったくなかったね。
でも、日本に戻ってもドリームはなかなか実現しなかった。大スターの付き人になれば役者になれると思っていたけど、それもなかった。でも、2年半付き人をしたんです。一番長かったと言われた。2日で辞める人もいた世界だから。人に付くって大変なことなんです。僕が頑張れたのは、ドリームがあったから。でも、焦ってました。今から考えると、焦る必要なんてなかったんだけど。まだ20代だったんだから。それで辞めてから、勝アカデミーで勉強したり、プロダクションに入ってオーディションを受けたりしたけど、何をやってもやっぱり泣かず飛ばす。それでもドリームは捨てきれない。中途半端でした。風呂もないアパートに住んで。27歳でマリッジして、30歳を過ぎて長男がボーンしても同じ。こんなんじゃない、という毎日。アングラ芝居にもお金をつぎ込んで。生活費も女房に渡せないような時代が長く続いたんです」
夢を追うのを辞めたら、夢が追いかけてきた
―――勝アカデミーの同期生だった小堺一機がブレイクしていた。だが、自分は芽が出ない。やはり実力がないのか、と思い始めていた。そして、人生で一番辛かったという言葉が母親から降り注ぐ。「家族を食べさせることも忘れて何やってるの。もう夢なんて捨てなさい。奥さんや子どもを泣かすな。」ルー大柴32歳。ブレイクの2年前である。
「ガツンと来ましたよね。これで目が覚めてドリームを捨てたんです。辛かった。でも、どんなことをしても女房子どもを食わしていかないといけないと思った。それで俳優の道をあきらめて、多種多様なアルバイトをしました。モデル、結婚式の司会、ティッシュ配り…。やっと落ち着いた頃、関根勤から電話がかかってきたんです。“今、小堺とルーの話で盛り上がってる。出てみないか”と。僕は20代にもいい話に振り回されてひどい目にあったことがあった。それで言ったんです。“もういい話は止めてくれ。オレは才能がないんだ。もう誘わないでくれ”って。でも、一回出るだけでいいからって、何度も頼まれて。それで出てみたら、コイツ面白い、と火がついちゃったんです。ドリームから醒めたことが、逆に良かったのかもしれない。追いかけるのをやめると、今度は向こうから追いかけてきたんです。しかも、結婚式の司会をやっていたことで、人前でしゃべることにも抵抗がなくなってた。いろんなエクスペリエンスがつながってたんだね。あのときは、本当にウインドを感じました。
それからいろいろ出させてもらったんですが、僕はもう崖っぷちですからね。だから必死でした。このチャンスを活かさないといけないと。関根勤の劇団『カンコンキン』の旗揚げに参加したときも、普通じゃダメだと思ったんです。それで海パン芸をやったわけです。まずは、名前を売ることが先決でした。それまで嫌というほど、その意味を思い知らされてきたから。名前さえ売れれば、役は後からついてくると思ったんです。だから、ちょっとでもスキがあったら目立とうとして。それがアクになっちゃった。でも、たとえ嫌われ者でも、1位になるってことは、すごいことだと僕は思ってたんです。名前を覚えられることって本当に大変なことなんだから。そして42歳のときには全局でレギュラーを持ちました。やったな、と思いました。オレもここまで来たか、って。スケジュールはビッシリ。ただ、やっぱりちょっとテングになってたところもあったかもしれない。でも、それは後のフェスティバル(祭り)だったんです」
【ターニングポイント】「老いてはチャイルドに従え」と大胆に意識を変えた
――――クドくて、気持ち悪いキャラは、目立つための苦肉の策だった。だが、強烈だっただけに飽きられるリスクは高かった。43歳からテレビのレギュラーがひとつ減り、ふたつ減り、ゼロになる。それから約10年。奇跡的な再起は訪れた。53歳にして新人芸人なみのスケジュールという再びのブレイクを、ルー大柴は果たすのである。
「 テレビの世界から離れても、舞台があったし、舞台を楽しんでた。でも、あれだけテレビに出ていたら、「あの人は今」状態になるんです。僕自身、一度全盛を迎えたからもういいや、という気持ちが心にある一方で、全盛時代のプライドもあった。流されるままにこのまま流されていいのか、って。ギャラだって下がってたし、街を歩いても僕を知らない若い世代も増えてた。ただ、もう一度、再起するなんて奇跡ですから。どうすればいいかなんて、わかんないし。
そんなとき、新しい若いマネージャーに替わったんです。この出会いが、大きなターニングポイントだった。僕はいきなり言われたんですよ。“ルーさん、何がやりたいの?俳優?タレント? なんだか今、中途半端ですよね”。ズバっとね。若いのが生意気なことを言うんです。それでカチンときて。でも、ふと思ったんです。言われたことは当たってた。ハッとさせられて。僕も負けん気が強いから。よし、と思って。もう一回、ブレイクしてやる、と」
―――マネージャーと2人で話し合って決めたのは、今までやってないことをやらないとダメだ、ということ。そして、今までの行動のすべてを変えようと決意する。

『MOTTAINAI』プロジェクトTシャツ
を着て語るルー氏。
「最後の賭けだと思っていました。ブレイクするかはクエスチョン。でも、やらない限りは絶対にブレイクはない。マネージャーの言う通りにやってみよう、と。50歳を過ぎて決めたわけです。老いてはチャイルドに従え、と。それで始めたのが、ブログ。大変でした。50歳過ぎてやるもんじゃない(笑)。最初は日本語だけで書いてたんだけど、3カ月くらいで自然にカタカナ英語が混ざり始めたルー語になって。そうすると、あっという間にネットで火が付いちゃったんです。時代が変わって若い人がカタカナ英語を普通に使い始めてたから、ルー語って面白い、と受け入れられたんだね。
ルーブログは、特に女子高生に面白がってもらえて、それがだんだん中学生に、最近では小学生にも読んでもらえている。そして同時に仕掛けたNHKの「みんなのうた」での環境をテーマにした歌を歌うプロジェクト『MOTTAINAI』が放映されて。「みんなのうた」は幼稚園児が見てくれてるでしょ。今ではどこに行っても僕を知ってくれてるし、何より子どもと楽しくトゥギャザーできるんですよ。学校に講演に行けば、『MOTTAINAI』の合唱になるしね。それがものすごくうれしいんです」
ルー大柴からのメッセージ
「 もう固まっちゃってると思ってた50代で、恥をかきながらも、もう一回チャレンジしてみよう、違うことをやってみようと意識を大きく改革したこと。それが、奇跡的な再起ができた理由だと思う。ある程度、年を取ると「オレはこうだ」とバリアしちゃうでしょう。それじゃ前に進めないんです。だって、時代は変わってるんだから。若い人は、やっぱり時代をよく感じてる。別に無理に若い人に迎合する必要はないけど、彼らの新しい感性を素直に受け入れる部分があっていい。それは芸能界でも、ビジネスや一般の世界でも必要だと思う。古いプライドだけじゃ、新しい時代、変化の激しい時代は生き抜けないですからね。
そしてもうひとつ、奇跡の理由は出会いです。特に大きかったのは、今のマネージャーとのデスティニー的な出会いでした。この出会いを大切にして、信じてドリームに向かったことが大きかった。実は最初はあまりの生意気さに、合わないから替えてもらおうと思ってたんですよ(笑)。ところが、行動力も正義感もあってね。いつのまにか、いろんな仕事を持ってきてくれて。マネージャーというだけではなく、プロデューサーとしての能力があった。滅多に出会えない人物だと僕は思いました。今は、お世話になった事務所から彼と一緒に独立したんです。
振り返って思えば、うまくいったときって、決断しているんですね。自分の中で、ちゃんと腹をくくってるんです。実はそれがものすごく大事なこと。これぞというとき、ターニングポイントって、人が決めてくれるものじゃないんですよ。自分で決めるんです。自分で見極めて、腹をくくるしかないんです。考えてみれば、そもそも人生はマウンテンありバレーあり(山あり谷あり)。20代で勝負する人がいてもいいし、40代で勝負する人がいてもいい。ここぞ勝負、というのは人と違っていい。だから焦ることはないんです。その代わり、ここぞと思ったら一気に決断して行動する。それができるかどうかが、分かれ道。その後の運命を左右するんじゃないかな。」
(了)
取材・文:上阪 徹/写真:上原 深音
(2008年9月29日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
ルー 大柴 るーおおしば
タレント
新宿で印刷会社の御曹司として生まれ、「自分探し」のため70年代前半にヨーロッパ放浪の旅に出る。その後、故三橋達也氏の付き人を経て、勝アカデミー第一期生(小堺一機ら)となり故岸田森氏に師事。長い下積み時…
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