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伊勢丹時代は「解放区」「リ・スタイル」「BPQC」など百貨店初の試みを次々と仕掛け、カリスマバイヤーと呼ばれた藤巻幸夫さん。独立後には、中堅アパレルメーカーの経営にも携わり、その後は福助の社長、イトーヨーカ堂の役員と、大企業から中堅企業、さらに企業再建とキャリアの幅を広げた。2008年の2度目の独立後は、兄の藤巻健史氏とタッグを組み、アパレルを中心に、空間プロデュースやホテル・カフェの運営など、新しいトレンドや価値を提供するかたわら、執筆、コメンテーター、審査員、企業の顧問やアドバイザーなど幅広い分野で活躍している。同年10月には明治大学特任教授にも就任。
核になっているのはファッションの世界での経験だが、意外にも、「もともとファッションには関心がなかった」という。
藤巻氏の成功哲学、そしてターニングポイントとは。
バーゲン売り場の“伊勢丹の寅さん”から
「僕の親父は大手電機メーカーに勤めるサラリーマンだったんですが、祖父が1910年代に国営銀行のニューヨーク支店長をしていて、仕事に酒に遊びに、と豪放磊落な人だったんですね。だから、親父の兄弟には医学博士や政治家の妻、映像カメラマンがいたりと、面白い人が多いんです。親父もサラリーマンでしたが、やっぱり独特の美意識は大事にしていました。転勤族だったので、僕は何度も学校を変わっています。おかげで、なかなか友だちができなくて、イジメに遭った時期もありました。中学は神奈川県で最も荒れていたといわれる学校に入って、そこから公立高校に行ったんです。その後、上智大学に入るわけです。ところが、不良ばかりの環境から、今度はお坊ちゃんばかりの環境でしょ。物足りなくて(笑)。学生時代は、体育会でテニスをやる一方で、肉体労働から販売員まで50種類くらいのアルバイトを経験しました。特にやりたい仕事なんて、なかったんです。
就職活動を間近に控えていた頃、新宿で飲み会があったんです。それで待ち合わせ場所に指定されたのが伊勢丹。初めて見る華やかな世界。洋服にはとりわけ興味がなかったんですが、なぜか惹かれて。実はお嬢さん育ちの母の影響で、幼い頃から映画や文学、美術などに埋もれて育っていたんです。だから、潜在的な何かに引っかかったのかもしれない。採用の面接でしゃべったのは、ひたすら『気合いと根性でなんとかします』(笑)。これが面白がられて婦人服に配属になり、バーゲン売り場に立つようになって。当時は“伊勢丹の寅さん”と呼ばれていました(笑)。バーゲン品は、つまりは売れ残った商品。売れない商品を扱っていたおかげで、売るために何が必要か、そのノウハウをわずか3坪の売り場で学ばせてもらいましたね。3年目にアシスタントバイヤーになると、自分で独自にリサーチに出て、新しい取引先を開拓しました。でも、社内で浮いてしまって。サラリーマンは頼まれたことをやればいい。でも、それだけじゃ仕事は面白くないと、このときに知ったんです。『逸脱すること』こそ、クリエイティブなんだ、って」
中国哲学との出会いが考え方を変えた
――その後、最初の大きな転機となったのが、アメリカのバーニーズへの出向。ここでは日本で身につけ始めていた小さな自信は木っ端みじんに砕かれ、ニューヨークでバイヤーとして徹底的に鍛え抜かれる。そして凱旋帰国か、と思いきや、そうではなかった。日本に帰国後、一年半ほど、実は鳴かず飛ばずの時代が続いたのだという。
「伊勢丹で幸運だったのは、すばらしい上司に巡り会えたことです。外の向き方、人との接し方、酒の飲み方、交渉力やバイヤーとしての心得…。この人に出会ってなかったら、今の自分はないですね。そして29歳でバーニーズに行くんです。世界有数のトップクリエイターと付き合って、目利き力は一気についた。インターナショナルなビジネスというのは、実は外国の言葉を操ることなんじゃなくて、むしろ日本を知ることだ、とわかったのもこのときでした。ただ、やっぱり若かったんですね。そこそこ仕事ができ始めて、いい気になって…つまりはうぬぼれていたんです。地に足がついていなかった。それで日本に送り返されるんですよ。もちろん悔しかったですよ。しばらくは、売り場でブラウスを畳んだりする毎日。『噂の藤巻が帰ってきた』と、僕を見に来た社員も、しょぼくれた僕を見てがっかりしたみたいですね。それで次第に奮起するんです。みんなを見返してやるって。それが原動力になったんです。
今思えば、最初は純粋な動機じゃなかったんですね。一旗揚げて、話題を作ってやろうって。でも、それだけだとやっぱりうまくはいかない。その頃に出逢ったのが、『論語』をはじめとした中国哲学でした。『易学案内』の川島孝周、安岡正篤…。生きるとは、人と関わるとはどういうことか――本を通じて教えられました。この思想が心のよりどころになったんです。 そこからは自然体でアイディアが浮かんできました。誰のために仕事をしているのか。それは自分の意地やプライドなんかじゃなく、お客さまのためなんです。だから、生活者目線を何より重視することができた。もっと面白くしたり、人々をワクワクさせるにはどうすればいいか。それだけを考えた。しかも、アメリカで世界の最先端を見ていました。人脈、リーダーシップ、自分の意識の高さ…。気がついたら、どんどんうまくいって話題になって、39歳のときに『AERA』で“カリスマバイヤー”と書かれたわけです。まさに絶好調でしたね」
睡眠3時間。過労で歯が抜けた。福助再建への挑戦
―――40歳で伊勢丹を退職、独立の道を選ぶ。そして再び藤巻氏の名前が大きくメディアで取りざたされたのが、民事再生法を申請した老舗企業、福助の再建だった。44歳のときだ。藤巻氏は、わずか1年で破綻企業のターンアラウンドに成功、関係者を驚かす。だが、そこには再生に立ち向かう、壮絶な日々があった。

【福助再生への道のりは、『福助再生!』(ダイヤモンド社/共著・川島隆明氏)に詳しい】
「再建を担うべく資金を入れたファンドから、最初に依頼があったのは、チーフマーケティングオフィサーの肩書きだったんです。でも、4カ月ほど会議を繰り返しているうちに、その場でどんどんアイディアを出していく僕を買ってくれたんでしょう。社長をやれ、ということになって。社長なんてやったことはありませんでしたが、頼まれたんならやるしかない。
ただ、再生の仕事は半端ではなかった。それこそ、過労で歯が抜けましたから。破綻した企業というのは、やっぱり『壊れている』んです。社員はやる気がないし、商品にも力がない。これじゃダメだと思いました。まずは直接、思いを伝えようと300人の社員全員と面接しました。 あとは、大胆さが必要だと思っていました。福助は本社を東京に移し、新しいブランドを作りましたが、僕はその程度じゃ不十分だと思っていました。例えばコストダウンなら50%のコストダウンを要求した。10%程度じゃ、これまでの仕事の延長で考えてしまいますからね。それじゃダメなんですよ。意識と発想を今までとは大きく変えないといけない。
10人でやっていた仕事は、3人でやれと命じる。もちろん、できません、と来る。でもやらせるんです。さすがに3人ではできなくても、5人でやる仕組みを考えるようになる。これで50%減。もちろん、やらせっ放しじゃないですよ。睡眠3時間で僕も現場に張り付いて一人ひとりを見ていった。再建なんて口で言うのは簡単ですけど、死ぬ気でやらなきゃうまくいかないんです。だって、妥協はできないんだから。
大事なことは、高い志です。うまくいったときの、最高の姿をイメージする。再生成功なんかじゃない。僕は『福助を世界ブランドにする』。そう言っていました。だから、広い視野で物事が考えられるようになるんです。志を高く、具体的にイメージできるようになる。そこに人や組織や数字を付けていくことで再生が実現する。気力が萎えそうになることもありました。そういうときは、とことん遊ぶんです。徹底的に発散する。中途半端に遊ぶからダメなんです。それで翌日から、また切り替えるんです」
【ターニングポイント】仕事の絶頂期にあえて伊勢丹を辞めた意外な理由
―――転機は何度もあった、と語る藤巻氏だが、やはり最大の転機となったのは、40歳での伊勢丹退職だろう。次々と斬新な企画をヒットさせ、カリスマバイヤーとして絶頂のとき、彼は自らその地位を降りたのだ。だが、だからこそ退職の道を選んだのだ、と藤巻氏は語った。何かを守らない、という生き方をしてみたかった、と。
「あのときは、たぶんすごいところにいたんだと思うんです。やること全部がうまくいって、仕事にも真剣に打ち込めて。でも、このままでいいのかな、新たなことに挑戦して独立してみたい、という気持ちがあった。そんなときに浮かんだのが、一度すべてを捨ててみることでした。ちょうど大人たちから、“若いヤツらは元気がない”なんて声が上がっていた時代。ちょっとムッとしたところもあった。こういうヤツがいたって、面白いんじゃないか、と。
この決断には、東洋の古典を読み込んでいたことも大きかったと思います。人生なんて、せいぜい80年とか90年しかないわけです。小さなものをなんとか守って生きていこうなんて、あまりに寂しい。実際に、『守・破・離』(しゅ・は・り)という言葉があって、人生はこの繰り返しだ、という考え方があるんです。守って、破って、離れる。守らない生き方をやってみたら、結構かっこいいんじゃないかな、というのが一番の動機だったかもしれない(笑)。挑戦してどうなるかわかんないけど、死にゃしねぇだろうと思ったんです。命まで取られないなら、何をやってもなんとかなるはずだ、って。

【途中、ホワイドボードで解説をしながら質問に応える藤巻氏。取材にも、もちろん“本気”で挑む】
だから僕にはプライドなんてないんです。人からよく思われたい、と思うこともない。目の前が楽しければいい。『好き』か『嫌い』か。『楽しい』か『楽しくない』か。それが僕の人生の基準。今も、はっきりそう言えますね。好きで楽しいことだけを貫いていこうと思ってる。それでいいじゃないですか。大事なことは、プライドなんてものを優先させて自分にウソをつかないこと。そうすれば、自分だけの軸ができる。それが、自分の生き様になるんです。結局、僕の場合は、伊勢丹退社後も、『守・破・離』の繰り返しになるんですけどね」
藤巻幸夫からのメッセージ
「今の僕の夢は、『日本の百貨店』を作ることです。商品のほとんどがメイド・イン・ジャパン、あるいはプロデュース・バイ・ジャパンの百貨店。そのためには、たくさんブランドを作らないといけない。だから今、ブランドづくりに日本中を飛び回っています。そして60歳で引退して、今度は世界を巡ります。僕が愛している日本の技術・感性を世界に提案したいから。今も夢だけを追いかけていますよ。僕は、『夢オヤジ』なんです(笑)。
若い人に限らず、なんだか最近、周りをキョロキョロして、他人の顔色をうかがいながら生きている人が多い気がします。もっと本能のままに生きてもいいと思う。そうすれば、人脈だって自然に増える。僕は人脈づくりの本も出していますが、人脈を作ろうと思ったことはありません。基本的に寂しがり屋ですし、一人じゃないほうが楽しいからなんです。だから誰かと一緒にいたい。そう素直に思えば、人脈づくりはそんな難しいことじゃないんです。 周りの目を気にする人は、『何かしでかすと、バカにされるんじゃないか、笑われるんじゃないか…』と恐れているのだと思います。でも、そんなものは気にしてもしょうがないでしょう。僕自身、まったく気にしません。イトーヨーカ堂を離れたとき、いろいろとバッシングを受けました。でも、全部無視ですよ。文句があるなら、僕に会いに来て目の前で言えばいいんです。それをしないヤツを僕は認めない。だいたい人は一人で生まれて、一人で死んでいくんです。最後は一人。人生は自己責任なんです。なのに、人のことなんて気にしてどうしますか。だいたい、人の悪口を言って立派になったヤツはいない(笑)。だから気にしないのが一番です。
今、日本に一番足りないのは、『本気さ』だと思うんです。実際、僕は本能のままにやってきた。でも、その時その時、真剣に本気でやってきたんです。この「本」という言葉を大事にしてほしい。本のつく字を意識するんです。「本心」、「本質」、「本物」、「本流」、「本筋」、「本気」、「本能」…。これを頭に置いて生きていく。実際、僕が魅力的だと思うのは、「本」のつく人です。人の採用もそうやって行ってきた。その人がどんな人なのかは、目と声を見ればわかるんです。そこに本心があるから。すべては目と声に出る。これは、ごまかすことはできないんです。若い人には、ぜひ『熱く』生きてほしい。僕は熱いヤツを育てたいし、日本を熱くしたいんです」(了)
取材・文:上阪 徹/写真:上原 深音
(2009年6月3日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
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