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2005年03月01日

新しい風

これが私の競技人生の幕引き?これで本当に納得ができる?何度も自分に問いただしました。2002年のシーズンが終わってから、私はずっと気持ちがモヤモヤしていました。またしても2位に逆戻り。負けたままでシンクロを辞められる訳がないことはわかっているのです、頭の中では。なのに、「でも…」がつきまとう。

どうしても続けていく自信が持てないのです。この重くどんよりした気持ちは、一体どこに由来する物なのか。まず、それを自分でわからなければ前に進んだ結論が出せないと思いました。

「パートナーと自分達の演技を見つめ直すこと」
私は、頭の中にあることをとにかく思いつくだけ紙に書き出しました。一通り書き出すと、急に自分を客観的な目線で見られるようになっていったのです。自分は何を嫌だと思っていたのか。それがわかれば後はそれを取り除くか、何らかの対処をすればいいだけの話になりますから。道が開けた気がしました。

そして、私がその経緯を経てまず起こした行動は、パートナーの美哉さんと話すことでした。私は、2002年のシーズン中、常に感じていたことがあったのです。「これでいいのだろうか…」という迷いの感情です。

デュエットとしてスタートした当初は、ついていくことや合わせることに必死で、自分でない誰かが演技をしているような、小さくまとまった演技をしていました。それしかできなかったと言う方が正しいかもしれません。

でも、それに違和感を抱き、どうしてもそこから変わっていきたくて何度も試行錯誤を繰り返し、2001年の世界水泳福岡大会で、ようやく自分が自分であることを感じて試合の舞台に立つことができたのです。自分がデュエットで果たすべき役割を見つけた喜びは大きかった。

そして2002年。「これは、このスタンスは、お互いの個を確立しすぎなのではないだろうか…」と不安感が芽生えてきたのです。それぞれの役割を果たすことは重要ですが、それができた上で私達は次のステージに進まなければいけなかったのです。任務を遂行するように、注意を守り、振りを追うだけの演技は、例え揃っていても魅力的に映らないと思うのです。シンクロはカメラの映像を見て採点されるものではなく、その場の臨場感に触れて採点されるのです。

私は、不安を感じていながら、それを口に出すことをしなかった。お互いを感じ合い、お互いの個性を融合して泳ぐという、とても崇高な領域に挑戦できる場所に立っていたのに、私達はそれをしなかったんじゃないかと思いました。だから、「美哉さんと話したい、何でもいいから思っていることを、そして続ける意志を聞きたい」と思ったのです。

プログラムのテーマ性や技術的な分析は、帰国後からずっと井村コーチが徹底的に検証している様子がうかがえました。きっと、私達がこのままで辞めるわけがないことを予見していたのだと思います。私自身も、美哉さんと話す機会を持ったことで現役続行の気持ちが固まりつつありました。

「新しい風に耐え切れる技術と精神力」
お互いが唯一のパートナーであることを認め合うことができた。このことは私の中で大きな支えとなりました。これで、何の迷いもなく進んでいける、どこか晴れやかな気分でした。

そして、井村先生は私達の決断を待っていたかのように、「振り付けを私以外の人にやってもらうことをどう思う?」と切り出したのです。

驚きました。全く予想しなかった展開です。しかし、同時に井村先生の勝つことに懸ける執念を垣間見た瞬間でもありました。「新しい風を入れる」という表現をすると聞こえはいいですが、この出来事はそんな言葉で片付けられるようなことではありません。何年間も指導してきた選手を自分以外の、しかも外国の振り付け師によって日本代表のデュエットとしてプログラムを創り上げ、勝負の舞台へ出すことの決断は、とても大きな賭けだったと思います。井村先生はそれをやってのけたのです。

自分以外が私達を見ても潰れない技術力と精神力を信じて下さったのです。きっと、周りにそれを納得させることは容易ではなかったでしょう。

私は素晴らしいシンクロにまたしても出会うことができました。2003年。テーマは「風とバイオリン」。私のしたかったシンクロナイズドスイミングが、その中にいっぱい込められたプログラムでした。お互いを感じ合いながら演じる、まさに究極のシンクロです。結果は、またしても2位。ですが、2位でもがっかりしませんでした。なぜならこの頃からある覚悟のようなものが私の中に確立していたからです。

「気持ちの葛藤から生まれた秘密の覚悟」
現役続行を決めた最大の理由は、どうしてももう1度勝って表彰台の一番高いところに立ちたかったから。

練習の内容も充実していました。それなのに、充実度が増すにつれて、それとは逆のマイナスの発想が…。「良いものをしても、日本にはロシア以上の点数はもう出ない…」なんとなくそんな諦めのイメージが頭を覆うのです。私はいつもそのイメージを振り払いました。本当に頭を振って。

選手でいる限り、こんな思いを口にすれば試合をする前から負けを認めていることになります。思ってはいけないことを思ってしまっている、その気持ちの葛藤から生まれた秘密の覚悟。これは今だから言えることです。私の中で、金メダルの価値より、自分達のシンクロの完成形を追求していくことに価値を見出していました。

2004年。アテネオリンピックイヤーです。気持ちは全く切れていません。去年の覚悟はさらに強い形でしっかりと根付いてくれていました。「さあ、今年はどの手でいくっ?」というぐらいのやる気が漲り、心も体もすでに用意できていました。最後の挑戦であることを自らのプレッシャーにし、悔いを残すことだけは絶対したくないと、ただひたすらそれを考えていました。

となると、いても立ってもいられません。日本代表として合宿をスタートするや否や、デュエットのスタンスでまだ納得いっていない部分を、先ず井村先生に相談しました。思っていることを行動に移さずしては、終われないと思ったからです。井村先生もその気持ちを汲んで下さり、あらゆる場面でそれに対する答えを返してくれていたような気がします。そして、今までの疑問や、見て見ぬ振りをしていた部分をクリアにし、そして、少しの可能性でも勝てる確率があるのであれば、良いとされるものは全てしたいと思いました。

毎日の練習の中で、やり残しを作らない。1つでもいいから何かを得て
1日を終える。このことを徹底しようと決めました。過去最高のモチベーションだったと思います。モチベーションが上がると、俄然、練習が楽しくなってきます。もちろん、強化合宿も練習時間や内容もハードさをさらに増していき、体力にも限界がきていることを自分でもわかります。でも、それがわかることがおもしろいのです。

体の感性が研ぎ澄まされるというのでしょうか。とにかく、自分の体の状態が手に取るようにわかることができました。以前だったら「もう筋肉が動かない」と脳が感じて、それ以上動かそうとしても動かせなかったことが、「ここの筋肉はこの使い方をしたらこれ以上は無理だけど、この使い方だったらまだいけるかも!?」とか、色んな感覚が呼び起こされてくるのです。これって最高におもしろいことだと思いませんか?(なんだか押しつけがましくなっていますね!すいません。)

【競技を楽しむ】という言葉の本来の意味を初めて知ったように思います。何度も辞めようと悩みましたが、ここまで、このアテネオリンピックまでシンクロを続けていなかったとしたら、こんな素晴らしい経験はできなかったのです。「続けてよかった…。」心からそう思いました。

4月のプレオリンピックで「歌舞伎」をテーマにプログラムを初披露。ロシアとの得点の差は想像以上でした。でも、私は気にしない。その後、テーマを「ジャパニーズドール」に変え、曲も一新。良くなるのであれば、何でも受け入れる用意はありました。本大会まで4ヶ月しか期間がなくても、不安はありませんでした。毎日の取り組みに対する自信と、集大成を出したい。その一心です。

8月25日。アテネオリンピックデュエット決勝。屋外のプールでの開催でしたが、その日の風は穏やかでした。私は、3大会出場したオリンピックの中で、一番ほどよい緊張感で本番の時を迎えました。井村先生と美哉さん、そして私。3人の描いている演技の完成形は一致していました。舞台に立つ直前、井村先生が握って下さった手を通して、そのことを感じました。気持ちよかったです。体が軽くて、歓声がよく聞こえました。

曲が終わった時、同時に「これでもう辞められる。やり残したことはもうない。」と思いました。

武田美保

武田美保

武田美保たけだみほ

アテネ五輪 シンクロナイズドスイミング 銀メダリスト

アテネ五輪で、立花美哉さんとのデュエットで銀メダルを獲得。また、2001年の世界選手権では金メダルを獲得し、世界の頂点に。オリンピック三大会連続出場し、5つのメダルを獲得。夏季五輪において日本女子歴代…

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