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2005年06月01日

きっかけはJリーグだった。

1993年春、記念すべき開幕戦、日本サッカーにおけるプロリーグ誕生の瞬間をテレビで観戦していた。横浜マリノス対川崎ヴェルディー。超満員の国立競技場が揺れる。緑の芝生の上で躍動するJリーガーたち。輝く光景に目を細めていたのは私だけではあるまい。心から拍手を送りたい気持ちでいっぱいだった。私は力強くうなずきながら「日本のサッカーもここまで来たんだ」と呟いていた。

この時すでに私のサッカー人生第2幕の緞帳が上がり始めていたのだ。

胸躍る開幕戦から、1ヵ月後のことである。スタジアムまで足を運びJリーグを観戦した。車椅子席からピッチを見下ろす。選手たちはゴールを目指し渾身のプレーを繰り広げる。私の目は試合に釘付けだった。しかし、この時の思いは、開幕戦でこみ上げてきたものとは違っていた。拍手を送りたい気持ちなど微塵もなかった。身体の中を悔しさが駆け巡っていたのだ。かつてグランドで一緒にプレーした仲間たちがそこにいる。……なんで、俺がいないんだ。心の中で叫ぶ声が聞こえた。

エゴイスティックな自分を情けなく思いながら、この悔しさはどこから来るのか、考えるようになった。

そして、最終的に辿り着いた答え、それは―
・・・もう一度、俺はサッカーをやりたいんだ。監督になって子供たちにサッカーの楽しさ素晴らしさを伝えたい。車椅子に乗ったままでも指導者ならできる。どうせやるなら、とことんやりたい。よし、今の仕事を辞めて、再びサッカーの世界に飛び込もう。そのためには妻にこの気持ちを打ち明けなければならない。

妻との出会いは高校3年生のときである。甲府出身の私は日本一を目指し伝統校の韮崎高校に学区外から入学した。クラスメイトだった妻と付き合い始めたのは高校卒業と同時。地元山梨の短大に進学し幼稚園の先生を目指していた妻。私は東京で浪人生活。しばらく二人の間には距離があった。

運命の分かれ道は付き合って4ヵ月後の夏だった。私を車椅子の人にさせたバイク事故は、二人の距離を縮めてくれた。甲府の病院に見舞いに来てくれた妻に、廃人のようだった私は「こんなになっちゃった」と細い声でつぶやいた。それでも妻は軽く微笑みながら、その後ずっと傍にいてくれたのである。

山梨県庁職員に採用され社会復帰できたのは妻がいてくれたからかもしれない。付き合って7年後、八ヶ岳の高原ロッジで結婚できたのは私に大きな希望と自信を与えてくれた。

「再びサッカーの世界に飛び込みたい。仕事も辞める」という私の願いに対する妻の答えはこうだ。

「県庁職員よりも、きっとサッカーのほうが似合っているよ」

ひょっとすると、バイク事故が私の幸せの始まりだったのかもしれない。

羽中田昌

羽中田昌

羽中田昌はちゅうだまさし

サッカー解説者

サッカーの名門・韮崎高校にて2年連続全国大会準優勝。韮崎高校の黄金期のエースとして、その名を轟かせるが、高校卒業後、交通事故に遭い、脊髄を損傷、下半身不随の生活を余儀なくされる。その後、県庁に9年間勤…

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