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2009年12月18日

蜂須賀小六の「部下力」

尾張中村の貧乏農家の小倅・「日吉丸」が関白太政大臣にまで昇り詰め、位人臣を極め、「豊臣秀吉」を名乗り天下人となることができたのは、もっぱら秀吉のために働いた蜂須賀小六(のちに小六郎、彦右衛門、正勝)の「部下力」によるところが大であった。

蜂須賀小六は1526年、尾張に生まれた。1536年生まれの秀吉より10歳年長であった。
小六は、尾張・海東郡蜂須賀郷の土豪で、木曽川の水運業を営む「川並衆」を率い、少年時代の秀吉を一時、手下として使っていた。蜂須賀家は、織田信長の妻・吉乃の実家・生駒家とは親戚関係にあり、秀吉は、吉乃の紹介で信長に仕えることができたという。大出世の糸口が「蜂須賀家-生駒家」にあったということである。

【頼ってきた秀吉の心情に胸を打たれる】

「木下藤吉郎」と名を改めていた秀吉が1564年春、小六を訪ねてきて、開口一番、「お館様から東美濃の攻略を命じられたので、是非、力を貸して欲しい」と懇請した。秀吉28歳、小六38歳であった。

当時、「野武士」などと卑しめられていた小六は、かつて織田信清、織田信賢、斎藤道三にも仕えたことはあったものの、あくまで独立勢力として生きていたので、売り出し中の織田信長に加勢するつもりはなかった。

だが、十年以上も前に仕えた上司を忘れず頼ってきた心情に胸を打たれて、「信長公には、奉公しない。藤吉郎へ合力し、生涯奉公する」と応え、年下の男の「与力」、すなわち「部下」として一生粉骨砕身することを約束した。

小六の初仕事は、秀吉が信長から命じられた東美濃攻略である。秀吉と部下になった小六が狙ったのは、鵜沼城の大沢基康だった。この城は、堅城のうえに強兵が守備していたので、陥落させるのは容易ではない。けれども信長が兵力を送ってくれる見込みはなく、秀吉は小六の力だけが頼りだった。こうなると「調略」(策略をめぐらして敵をまかしたり内通させたりすること)しかない。

秀吉は単身、鵜沼城に乗り込み、捕らわれの身となってしまった。秀吉は「降参せよ。さもなくば、信長公が大軍を率いて攻めてくるぞ」と脅すが、大沢は「信長軍がくれば、お前を殺す」と逆に脅しにかかる。そこに大軍が姿を現し始めたので、大沢は秀吉を縛り付けて城の天辺に吊るして威嚇した。それでも大軍は歩みを止めず、進軍してくる。大沢が一瞬ひるみそうになったところで、秀吉が「降参しろ」と叫ぶと、大沢はようやく秀吉の縄を解き、投降した。大沢が信長軍と思っていた大軍は、実は小六が呼び集めた土豪集団だった。

【川並衆を動員し「一夜城」を築く】

小六の二度目の仕事は、有名な墨俣築城であった。「川並衆」を動員して、秀吉を助けたのである。秀吉は、柴田勝家や佐久間信盛らが失敗していた墨俣築城を引き受け、見事に成功した。あらかじめ木曽川の上流で建築の部品を筏に組み、川で下し、築城場所であっと言う間に組み立てた。世に言う「一夜城」である。

「川並」とは、木曽川を中心とする大河七筋のほとりを意味し、源流の木曾は、銘木の産地であり、木曾の筏流しで知られる材木運搬業、流域の農産物輸送の水運業、さらには物建築に携わる大工、左官などの技術集団が活動していた。

庶民の力は凄い。小六は、「土豪の雄」として、これらの人脈ネットワークと情報ネットワークを掌握していたうえに、他の土豪とも深いつながりを持っていたので、秀吉にとっては、心強い味方となった。

【最前線で、「殿」「調略」「交渉」の力を発揮する】

こうした力を武器に小六は、秀吉一家の要に位置して、秀吉が出世街道を歩む過程で、勝負の岐路に直面するたびに持てる力のすべてを発揮した。

合戦となれば、常に戦場の最前線に敢然と向かって戦った。近江攻めでは、浅井長政の小谷城の真向かいの横山城に籠もった。石山本願寺攻めでは、一番乗りし、金ケ﨑での撤退戦では、最も危険な殿を受け持った秀吉のその最後尾を担って、信長の危機を救った。

中国攻めでは、やはり最前線の播磨竜野に居城した。さらに敵の調略、交渉にも腕を振るい、勝利に導いた。その代表例が鳥取城の「干殺し」である。城外ばかりか、城内の米を買い占めて兵糧攻めした。

【秀吉を奮起させ、天下取りに驀進させる】

川並衆を統率して行ったのが、高松城の「水攻め」である。その最中、本能寺で信長が明智光秀に討たれ報をつかみ、悲嘆にくれていた秀吉を「ここは一番、一六勝負で決せられよ」と奮起させ、秀吉軍を「中国大返し」に走らせ、天下取りに向けて、驀進させたのである。

秀吉は、小六に阿波一国(徳島)を与えて長年の功に報いようとした。だが、小六は、「子の家政に譲って欲しい」と自らは辞退し、阿波に一度も入国せず、秀吉の側に仕え続けることを喜びとし、1586年7月8日、死去した。享年60歳。

秀吉が小六の尽力によって天下を手に入れたのと同じように、小六もまた、秀吉の存在によって、自ら「デキる部下」としての生きる道を拓き、それを全うしたといえるだろう。

板垣英憲

板垣英憲

板垣英憲いたがきえいけん

政治経済評論家

元毎日新聞記者、政治経済評論家としての長いキャリアをベースに政財官界の裏の裏まで知り尽くした視点から鋭く分析。ユーモアのある分かり易い語り口は聴講者を飽きさせず大好評。

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