2008年02月19日

ノルディック複合との出会い

 「群馬県の草津生まれということもあり、3歳くらいからスキーには慣れ親しんでいました。それとは別に小学1年から、双子の兄である健司と一緒に器械体操の教室に通っていたんです。この体操教室にはとても厳しい指導者がいらっしゃって、だんだん「もう辞めたいなあ」と思うように。小学5年ですね、あれは。同じ年代の子どもたちが、裏山の小さなジャンプ台でスキー・ジャンプの練習をしている光景に出合うんですよ。それが僕にはすごく楽しそうに映った。で、すぐに体操教室を辞める決意をし、スキー・ジャンプを習うために草津スポーツ少年団に入部。健司が少年団に入部したのは、僕の少し後です。彼は長男だからか、何でも最後までやり遂げなければという責任感が強く、体操教室も「辞めたいから辞める」と簡単に辞めてしまうタイプではありませんでしたから。

 少年団経験者はほとんどそうなのですが、僕も中学ではスキー部に入部。また、当然のごとく、ジャンプとクロスカントリーの複合競技を始めることになります。なぜなら当時の群馬では、複合競技をするのが一般的だったんですよ。姉たちがクロスカントリーの選手だったことも、すんなりこの競技に馴染めた理由です。そして中学1年の時、たまたまクロスカントリーが早かった僕は、岐阜で行われた全国大会に出場しています。全国大会に行けなかった健司は、悔しくてこたつで泣いていたそうです」

「健司のにせもの」…アルベールビル五輪後の屈辱

――中学3年の全国大会複合競技で、健司氏が1位、次晴氏は2位。そして、高校に進学した荻原兄弟はそろって日本のナショナルチームに選ばれることになる。高校2年では、世界ジュニア選手権に出場するため、イタリア遠征にも参加している。

大学時代はスキーよりも音楽に熱中。「『テンションのあがる曲』を集めてオリジナルテープを作って、遠征に行く健司に渡したりしていました」。

「その後の10代はずっと、ほとんどの世界遠征に参加させてもらっていました。でも僕は、もともと人と順位を争うことが好きじゃないのです。だから正直いうと、優勝したいとか、表彰台に立ちたいとか、競技スキーを始めてからただの一度も思ったことがないんですよ。もちろん、健司は違っていましたが。

 大学はスキー推薦で早稲田に進学します。でも実は音楽が好きでしたから、ここだけの話、父に『早稲田に入れたのは嬉しいけど、音楽をやりたいのでスキー部に入らなくていいかな?』と聞いてみたことがあるんですよ。『何をバカ言ってんだ!』って一蹴されましたけど(笑)。入学式の後のサークル勧誘で、ソウルミュージック研究会から誘われて、「いつか入りたいな~」と本気で思ったことを覚えています。 結局、スキー部に入部しましたが、練習はかなり適当にこなしていました。自分の部屋にはターンテーブルが4台に、プロ仕様のミキサーも装備。夜はレコードショップやクラブをはしごして、朝帰りする毎日です。ただ、インターカレッジ大会の前になると、早稲田の勝利に貢献せねばという思いはありましたね。

 そんな生活を送っていた大学4年の時。1992年のアルベールビルオリンピックに出場した健司は複合団体戦で金メダルを獲得し、一躍、時の人に。ここから苦難の時期が始まります。僕らは双子じゃないですか。だから本当によく間違われるんですよ、健司と。「健司さん、おめでとうございます」「いえ、僕は弟のほうなんですけど」「な~んだ、にせものか」とか…。それが何度も、何度も…。そんな心無い人たちの対応にとても困惑しました。今思い出しても、あの時期は苦痛でしたね」

――就職活動の時期になり、もうスキーは辞めようかと何度も悩んだという。歌もうまかった次晴氏は、カラオケに行くと、「プロになれば?」と周囲から勧められる。嘘か冗談か、「運動神経なら負けないし、当時はジャニーズに入ろうかって考えましたよ」と笑う。しかし、心の奥底では、早くこの苦痛を伴う状況と決別したいと思っていた。

 「そこでもう一度、考えてみたんです。この状況から抜け出すためにはどうすることが一番の近道かって。せっかくここまで続けてきたスキーを辞めることはない。健司に間違われないようにするためには、ふたりそろって表彰台に立てばいいじゃないか、と。おそらく初めてですね、競技者として上位を目指したいという思いが芽生えたのは。そう決めてからすぐに、自分で練習メニューを考えて、ストイックにスキーに打ち込む毎日が始まりました。健司は当時の日本のA代表として世界で転戦を続けています。かたや僕はナショナルチームには所属していましたが最下層のCチーム。もちろん、結果なんてすぐには出ませんから、国内の大会に出場しながら、少しずつ実績を積み重ねていきました」

 

【ターニングポイント】 ワールドカップで兄弟ワンツー・フィニッシュ

――1年遅れて大学を卒業した、自称「研究熱心な(笑)」次晴氏は、健司氏が先に所属していた北野建設に就職。1年ぶりに健司氏と一緒に、スキーをとおして切磋琢磨する日々を送るようになった。もちろんまだまだふたりの実力の差は埋まらない。

photo4  「やると決めた以上は、やってやると決めていました。健司に絶対についていくんだと。社会人1年目は大会に遠征しても、健司と自分では泊まる宿のランクが違うんですよね。この頃が一番、健司と自分の距離を感じていた時期だったと思います。しかし、地道な努力の甲斐あって、2年目になった1994年~1995年のシーズンで、僕も代表チームに選抜されることに。そして兄弟一緒に世界を転戦することになるのです。 1995年、チェコのリベレツで行われたワールドカップ。この大会で、僕たち兄弟は社会人になって初めて、ワンツー・フィニッシュを経験します。クロスカントリーではまさにデッドヒートで、遅れてスタートした僕が健司を追走しいったんは抜き去ったのですが、終盤で再び抜き返され、結果は健司が優勝で僕が2位。正直この時、「一回くらいは優勝を譲ってくれよ」と思いましたよ。競技後にそのことを健司に話しましたが、「そういうわけにはいかねえだろう」と。彼はやはり生粋の勝負師なんです。

 結局、優勝は果たせませんでしたが、双子の兄弟がスポーツの世界舞台でワンツー・フィニッシュという話は聞いたことがありませんでしたから、僕にとってこのリベレツでの経験はとても思い出深いものとなりました。健司と一緒に切磋琢磨する経験というものも、高校以来でしたし。あと、いい親孝行ができたなあって(笑)。この時に、健司の弟としての次晴ではなく、ひとりのアスリートとしての荻原次晴を確立できたのだと思います。やっと、これまで兄に間違われるという苦痛の呪縛から脱出することができたのです」

 

―――その後2年間のシーズンは、次晴氏の調子はまったく上がらず。大会に出場しても、下位で終わることが多くなっていく。

 「この期間は、スキーだけでなく、映画に行こうが、ショッピングに出かけようが、本当に何をやってもつまらなかったですね。調子が悪いとすべてだめです。そもそも競い合うことにモチベーションがわきませんでした。本来、自分は、競い合うことよりも誰かのためになること、誰かを楽しませることの方が性に合っていたというのもあるのですが。そして1998年の長野オリンピックが開催される1月前、ヨーロッパで合宿をしていた僕は、兄弟そろって出場できるこの晴れ舞台を最後として選手生活にピリオドを打とうと決めました。結果は、個人6位、団体5位入賞。自分としては、最後に満足できる結果が残せたと思っています。

荻原次晴からのメッセージ

photo6「今の時代って、誰もがサクセスを求めすぎているんじゃないかと思うんですよ。収入、持ち物、見栄えなどを気にする拝金主義者が増えているような。僕の場合は、兄の健司でしたが、そもそも自分を誰かと比べ始めるとキリがありません。だから常にあなた自身が地球上でたったひとりきりの存在として、自分自身に何ができるのかを突き詰めて考えておくことが大切だと思います。わかりやすく言えば、自分が守るべきペースをつくることです。

 それでも誰かと自分を比べてしまい、心乱された時には、仏像を見に行くといいですよ。僕は京都の広隆寺にある日本の国宝第一号といわれている「弥勒菩薩像」が大好きなんです。本当に心が落ち着きますから、ぜひ(笑)。今が曇りや雨であっても、次に晴れればそれでいい。そう思えると先に進めるじゃないですか。

兄の健司氏とは、兄弟揃ってイベントに出演するなど精力的に活動している。(写真:スポーツ・ビズ提供)

兄の健司氏とは、兄弟揃ってイベントに出演するなど精力的に活動している。(写真:スポーツ・ビズ提供)

今、僕はテレビ、ラジオなど様々なメディアを通じて、伝える仕事に従事させていただいています。もう10年目になりました。最近ではウィンタースポーツだけではなく、グルメや芸能などに関する話題を担当することも増えていて、競技時代とはまったく違った脳みそを使う仕事をしています。いろいろ勉強することが多くて大変ではありますが、苦しい選手時代を送ったことで、弱者の目線に立ったリポートや表現ができることが自分の強みだと思っています。これからも、自分らしさを追求しながら、伝えたい対象、ユーザーに対して少しでもいいパスが出せるように頑張っていきたいですね」
(了)

 

文:菊池徳行(アメイジング・ニッポン)/写真:上原深音 
(2008年2月19
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