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クロネコヤマト最大の危機~ヤマト運輸株式会社 元代表取締役社長・都築幹彦~

都築幹彦

ヤマト運輸株式会社 元・代表取締役社長

今回の「人生最大の危機」は、特別版として「クロネコヤマト最大の危機」をお届けします。ヤマト運輸株式会社 元代表取締役社長・都築幹彦さんにご執筆いただいた内容から、当時の状況や危機感、苦労などが具体的に伝わってきます。是非ご覧ください!!

ヤマト運輸と西濃運輸との壮絶な戦い
―トラックで箱根の山を越した西濃運輸にヤマトは戦略で敗れる。3流会社に落ちたヤマト運輸は、新規事業の宅急便で巻き返す―

1950年代後半のころ、西濃運輸などの関西業者は国道1号線の免許を取得して、トラックで箱根の山を越え、東京へ入ってきた。当時、東京―大阪間の貨物輸送は「ゴールデンルート」と呼ばれていて、東西を行き来する貨物が増えるなか、その名の通り稼げる路線だった。西濃は「長距離輸送は将来、鉄道からトラックに代わる」ということをみこしていた。

しかし、ヤマトは初代社長の持論で、性能の悪いトラックが箱根の山を越えて1号線を走るのは無理であり、危険だと考えていた。そのため東京―大阪間は日本国有鉄道(国鉄・現JR)の貨物急行列車を利用していた。大阪側に地盤がなかったので、梅田駅に免許を持つ大阪合同通運(現合通)と提携していた。たしかに、国道1号の道路もトラックの性能も悪く、東京から大阪まで600キロあるため、24時間もかかった。貨物は夕方出荷されるのが殆どで、トラックで東京を出発すると大阪に到着するのは翌日の夕方だった。従って配達は翌々日になっていた。

ヤマトは国鉄の高速貨物列車を利用していた。列車は東京を夕方発車すると、翌朝到着するので翌日配達が可能だった。当時はトラックよりレールを利用したほうが、はるかに速かった。

その後、高速道路が開通し、車両も大型化して性能がよくなり、トラック輸送のほうが逆に鉄道よりスピードアップした。その頃の世の中の景気は、1959年に「岩戸景気」が始まり、労働組合は労働条件改善の申し入れで、労使関係は悪化した。ヤマトが使っていた国鉄は、労使紛争が一向におさまらず、ストを頻発した。顧客を顧みない10日間のぶち抜きストライキまでやったりした。顧客は、いつストで止まるかわからない「国鉄による輸送」よりも、あまりストをやらない「トラックによる輸送」を選ぶようになっていった。そうした意味では西濃のほうが先見の明があった。

時代が変われば運送方法も変えなければならない。東京―大阪間について国鉄貨物列車に執着していたヤマトは、のちに西濃運輸に大きく差をつけられ、じり貧への道に迷いこむことになった。遅ればせながらヤマトは、1957年に東京―大阪間の路線免許を申請したが、ようやく1959年に免許を取得することが出来た。しかし現場の施設などが遅れ、営業開始は1963年になり、西濃に著しく後手を踏んだ。

1967年には「いざなぎ景気」によって、経済全体が上向き、特に関西の運送業者は業績を伸ばしていた。しかしヤマトの業績は、依然として悪化の一途をたどっていた。好況にもかかわらず、なぜヤマトだけが低迷しているのか、非常に残念であった。この頃業界では、西濃・福通・日本運送の3社を「御3家の1流会社」と言い、ヤマトは「昔は1流、今は3流」と揶揄された。私はあまりの大差がくやしかった。挽回不可能とまで、危機を感じた。トラックで箱根の山を越すか、レールを利用するかの経営戦略の違いで、ヤマトは西濃に大差がついて敗れたのである。

会社は繁栄している時もあれば、気が付かないうちに衰退への道をたどっていくときもある。人間は常に健康でありたいと思っているが、年月が経つうちに体調を崩していくこともある。会社は人間と違って、革新すべきところがあっても、口に出して指摘してくれない。つい惰性に流されているうちに大企業病にかかり、なにも手を打たなければそのうち会社は潰れることになるだろう。

神戸大学、占部都美(邦芳)教授が1963年に「危ない会社」という本を光文社から出版した。副題に「あなたのところも例外ではない」とかかれていた。本を開くと、40ページに記載された陸運の欄に、大和運輸(現在のヤマト)だけが掲載されていた。数ある陸運の中でヤマト1社だけが指摘されているのを見て大変なショックを受けた。これを見て素直に肯定せざるをえなかった。当時のヤマトは古い会社であったために、硬直化していて、新しいことに挑戦しようという意欲に欠けていた。社会環境が変わっていく中で、ただただ惰性というレールの上を走っているだけだった。

このころ、私はまだ営業課長で、2代目の社長を務めた小倉昌男氏は上司の営業部長であった。4歳違いで、お互いに若かった。酒を飲んでは、「3流といわれたヤマトをまた再び浮上させるために、ヤマトもかって1流と言われた時代の成功例を捨て、発想の転換をはからなければならない。」、「大差がついてしまった西濃に追いつくためには、どうしたらいいか。」など、2人で盛んに議論した。西濃と同じような運送業をしている限り、努力だけでは絶対に追い付かないので、新規事業は考えられないか議論はしたが、そのころはまだ宅配で郵政と闘う知恵は出てこなかった。

その頃市民は、自分の知人や郷里に小包を送りたいときは、近くの郵便局に持ち込んでいた。郵便局は競争相手がいなかったので、サービスが悪かった。「重さは6キログラムまで」、「荷札を2枚つけろ」、また「いつ配達されるのか?」と聞けば「分からない」と答えていた。ダンボールに入れた10キログラム位の小荷物は、やむなく近くの国鉄の駅に持ち込んで運送を頼んだが、荷受人の住所が郡部の場合は駅留めになり、荷受人は自分で駅まで引き取りに行っていた。非常に不便をしていたが、郵便局も国鉄貨物も一向にお客の立場を考えないでいた。その頃、運送業界では業界神話があった。それは「宅配は手間が掛かって、コストもかかり、赤字になるから事業化出来ない」という考えで、宅配をやっている運送業者は1社もなかった。すべての運送業者は商業貨物を取り扱っていた。

一方、ヤマトの業績は下降する中で、1973年のオイルショックによって、大不況の嵐が吹き荒れた。そうした中でヤマトの輸送量は、前年比25%減となる最低の状態だった。荷物の取扱量も減ったために北関東地方の職場では、社員が出勤しても仕事がなく、キャッチボールや構内の草むしりをするありさまだった。当時ヤマトの社員は5,700人いた。加えて狂乱物価が国民生活を直撃し、ヤマト労組は24時間ストに突入し、経営状態は最悪であった。会社側は、急遽小倉社長と私がトップになって、それまで検討されてきた宅配突入のプロジェクトチームを編成した。社長が大口貨物から小口荷物へ大転換するための開発要綱を作り、前から議論していたとはいえ、3年間という猛烈な速さで作り上げた。

宅急便開始は1976年1月20日だった。一旦は箱根の山から落っこちて死にかけたヤマトが再生できるか、新規事業はどんな問題が待ち受けているか、先が見えない。宅急便を成功に導くためには、昔から取り扱いをさせて頂いていた松下電器(旧名)さんのテレビ、洗濯機、冷蔵庫をはじめ、すべての商業貨物から撤退することを決めていた。失敗がゆるされない、背水の陣を敷いたのである。従来からの大口商業貨物と新規事業の小口荷物を同時に扱うと、両方によいサービスが出来ないからである。もしも、新規事業に失敗したらヤマトは潰れただろう。宅急便の初日はたったの11個しか集まらなかった。しかし社員全員のやる気と辛抱と執念で、5年経過した後には年間に5千万個になり、なんとかいけるとこの時点で思った。2015年現在は、年間16億個を超えている。

宅急便を開始した頃、最も気にしていたのは、底力のあった西濃の動きであった。ヤマトの宅配に追随して参入してくるか心配だった。西濃創立者である田口社長を個人的にも知っていたので、その性格からヤマトの宅配の様子を見て、社長の号令一下、もしかしたら参入してくるかも知れないと思った。いろいろ探りを入れてみたが、西濃のある某高官によると、「西濃は現在の顧客で利益を出しているので、ヤマトのようにお客を切ってまでして宅配はやらない。」と小耳に挟んでいたが、それでもいつ参入してくるか心配でならなかった。

ヤマトは宅配便をはじめるために、今までの大口商業貨物の顧客を放棄しているので、市民や小口荷物をある程度集めるまでは、西濃に追随して貰いたくないと考えていた。もしも、西濃が宅配に初期に参入していたら、強力な競争相手が増えることになり、ヤマトは体力がまだ弱かったので、宅急便を潰されたかも知れない。宅急便が5年目に年間で5千万個に達したが、それまで業界では1社も宅配には目を向けていなかったのに、「動物戦争」と言われたように慌てて30数業者が一斉に宅配に参入してきた。

西濃はカンガルー、日通はペリカンなどのネーミングで動物戦争に参加したが、宅配の難しさがだんだんと分かってきたのか、途中で脱落していった。宅配はお客が個人であるから、何かにつけて難しく、殆どの会社は辞めてしまった。宅配はにわかに真似しても、簡単にはできない。ヤマトは5年目に、宅急便を柱とした経営で少しは見通しがついてきた。宅急便に反対していた社員や労組も、手はかかるが宅配をやってよかったと喜んでくれた。未知の世界であった宅急便は、40周年を迎えて、2016年中には17億個に達するだろう。まさに挑戦尽きることなく、頑張ってくれたお蔭であり、皆さんに感謝している。

西濃は依然として、業界で1流の会社であり、経営もしっかりしている。かたや3流に落ちたといわれたヤマトは、潰れずに再び西濃運輸と肩を並べる位置に復元でき、大変に嬉しく思うとともに、お互いに切磋琢磨しながら、お客さまに喜ばれるサービス業者として競いたいと願っている。

おわりに

私が経験した新規事業の難しさについて、触れてみたい。

新規事業には乗り越えなくてはならない沢山の壁があった。特に宅急便には厚い壁が3つあった。

1つ目の壁。宅急便は社運を賭けた挑戦だったので、労働組合に対して、ヤマトは荒波に揉まれて、先が見えない実情をよく説明し、現状を乗り越えるために「ひと、物、金」の一体化を目的とした組織改正を行い、あらゆる資源を宅急便に集中させることを提案した。

一番難しかったのは労働問題だった。当時は労組が強く、手間のかかる宅配に転換することには大反対だった。加えて役員までも「新規事業は実状からして無理だから、先に延ばしたらどうか」という反対意見だった。役員会に新規事業を提案したのは、小倉社長と役員になったばかりの私、二人だけだった。一方、労組の執行委員会は1973年に起きたオイルショックもあり、賃上げの労使交渉は決裂して24時間ストに突入した。そのような状況の中で、3年先の1976年に宅急便をスタートさせたいと考えていたので、かなり時間的には無理があった。とにかく反対する労組の執行委員会を納得させることが最重要だった。

小倉社長から「粟飯原労組執行委員長と二人で纏めるようにしてくれ」と指示を受け、夕方になると近くで食事をしながら、話し合いを何度も重ねた。委員長は「都築さんといくら親しくても、執行委員会が全員反対ですから、纏めるのは難しいですよ」と言い、私からは「ヤマトが潰れてもいいのか」の繰り返しが数日続いた。あまり結論の出ない話に時間をかけられないので、私から提案を出した。「粟飯原委員長が執行委員会で、委員長一任を取り付けられないか」と言ったが、「私も会社からの申し入れに迷っていますが、一任だけは取り付けるように努力しましょう」と一応受けてくれた。私から「委員長も大変だけども、俺も早く纏めなくてはならないので、次回は酒でも飲みながら、また話し合いをしよう」と別れた。2、3日してまた話し合いをし、一任を反対する執行委員もいたようだが、粟飯原委員長は私との約束通り一任を取り付け、前向きに纏めてくれた。あの頃の労組は強かったから、よく纏められたと思っている。もし纏められなかったら、宅急便はこの世になかったかもしれない。新規事業の難しさをつくづく感じさせられた。

2つ目の壁は、道路運送免許取得のための運輸省との折衝だった。新規事業である宅急便は、国営の郵便局に挑戦するため、47都道府県の免許を取得して営業所を全国に配置し、ネツトワークを作り上げ、全国翌日配達を目指していた。ところが、ヤマトが持っていた免許の範囲は、関東地方の1都6県しかなかった。全国の47都道府県のうち、40の都道府県は道路運送免許がないために、トラックはその地域の道路を走行できず、営業所も認可されず、集荷・配達も出来なかった。市民は免許のことは知らないので、「なぜ長野県や石川県、四国、九州、北海道は出来ないのか。日本中、全て道路はつながっているのに、宅急便を利用できないのはおかしい。」と苦情だらけであった。

運輸省に対してヤマトは、市民の荷物を集荷・配達をしているので、全国の免許を認めるよう強く折衝したが、運輸省は新規事業である宅配についてなかなか理解できないようだった。始めのうちは、市民の荷物は郵便局の仕事だと思っていたのかもしれない。やむなく、運輸省に日参して、従来から扱っている大口商業貨物と市民荷物の小口集配の違いを説明した。新規事業であったので、なかなか分かってもらえなかった。時が経つにつれて、「クロネコ・ヤマトの宅急便」のネーミングが知られるようになり、運輸省は小刻みに免許するようになっていった。それだけでは遅々として免許範囲が広がらないので、同業者が持っている路線権を買収したりして、15年かけて念願の日本国中の免許を取得した。今では島の多い瀬戸内海、父島、母島、沖縄の石垣島、北海道の礼文島でも営業所を置き、4,000余の直営店を配置している。ただフェリーで海を渡らなくてはならない店は、3、4日後の配達になっているところもある。

3つ目の壁は郵政省だった。宅急便を始めたころは、将来郵便局の競争相手になるとは思っていなかったようだった。ところが、宅急便が7,000万個を超した1982年4月28日のことであった。1通の手紙がヤマトの小倉社長宛に届いた。差出人は郵政省大臣官房監察 第1部担当上席監察官であった。内容は「宅急便は郵便法違反である」との警告書であった。調査したところ、地方の監察局長からも、ヤマトの営業所長宛に郵便法違反の警告書が届いていた。営業所長は呼び出されて、謝罪文を書かされていた。私は本省の郵務局長をよく知っていたので、「こうした脅かしは、行き過ぎではないのか」と抗議した。関東郵政監察局をはじめ、各地の郵政監察局からも宅急便たたきの警告書がヤマトの営業所宛てに集中砲火を浴びせた。本社宛てにきた大臣官房からの内容は次の通りであった。

「ご承知のことと存じますが、郵便業務は国の独占となっているものでありまして、何人も他人の信書の送達を業としてはならないことはもとより、運送業者その代表者、又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならないことになっております。そしてこれに違反しますと運送営業者、依頼者の双方とも罰せられます。」

私は「郵便業務は国の独占でありまして・・・・・・」が頭にきて、対抗手段を取らざるをえなかった。まず関東郵政監察局の局長に会うべく面会を申し入れたが、暫く待たされた後、「局長は不在です」と言われた。局長の代わりに部長が出てきたので、1時間位にわたって議論した。「例えば、田舎の年寄りが孫宛に送った宅急便の荷物の中に『今年、うちの庭でとれた柿だから、甘くておいしいので食べなさい。』というメモ書きを入れた場合、運んだヤマトも荷物を出したお客も郵便法違反となり、罰金か懲役ですか。そのメモは80円切手を貼って、赤いポストに入れるのですか」と聞いてみた。「当然です。郵便法で決められているのですから。」との返事であった。私は思わず「へー」と答えた。「では、デパートに香典返しを頼んだ場合、香典返しの中に必ず入っている礼状も、郵便法違反になるから罰金か懲役になりますね。」と聞いたら、「当然です。印刷された礼状は、別に80円切手を貼ってポストに入れなければ違反です。」と言われたので「物と礼状が別々に着いたら、受け人は困りますね。」と言った。「郵政は、郵便法に違反すれば罰金か懲役になると、お客まで脅かしていますが、お客さんはそんなことまでは知っていませんよ。もっと社会に宣伝したらどうですか。」と、あきれて帰ってきた。

かっては、国が独占して郵便や小包を全国くまなく配達せざるを得なかった時代もあった。全国配達を行うにはネットワークがなくては出来ない。そのためにはヒト、モノ、カネが必要になるが、民間には限りがある。しかし、時代は変わった。かってのような「民間が出来ないから、国がやらざるを得ない」という140年前に前島密が考えた時代は、遠くに過ぎ去っている。

都築幹彦

都築幹彦

都築幹彦つづきみきひこ

ヤマト運輸株式会社 元・代表取締役社長

1929年東京都生まれ。1950年にヤマト運輸に入社。以後運輸畑ひと筋を歩む。1976年、2代目小倉社長の右腕として、当時の業界常識を破り、市民の小荷物を運ぶ「クロネコヤマトの宅急便」を発想し、開発。…

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