1939年生まれ。東京都出身。日本映画界を代表するキャメラマン。
1958年、東宝撮影部に撮影助手として映画界入りし、黒澤明監督の下で映画づくりに関わる。1973年、「野獣狩り」で初めて撮影監督に。撮影監督としての実績は、「八甲田山」、「復活の日」、「駅STATION」、「火宅の人」、「鉄道員」など多数。
2003年には、日本映画界における功績が認められ、紫綬褒章を受章。2010年には旭日小綬章を受章しました。2009年、初めて映画監督を務めた「劔岳 点の記」は、日本アカデミー賞最優秀監督賞、最優秀撮影賞をはじめ数々の賞を受賞。長年にわたって映画界の最前線で活躍し続けています。
67歳にして初めて映画監督を務めた「劔岳 点の記」では、監督の職務範疇を超えて、企画やスポンサー探しも自ら手がけ、CG技術に頼らず、過酷な自然環境の下で「本物」にこだわった作品づくりを行っています。
今回は、現在も映画づくりの最前線で走り続ける木村氏に、映画づくりに対する思い、そして「本物」をつくる上でのこだわりについてお話を伺いました。
「一筋の道を求めようと」生きる過程にある「徒労」を信じること
――木村さんは数々の名作映画の制作に関わっていらっしゃいますが、そもそもなぜ映画の世界に足を踏み入れることになったのでしょうか。
名のある映画作品にキャメラマンとして関わり、映画監督を務めた経歴を見て、たくさんの人が「映画に関わることは夢だったのですか」と聞くけれど、実際はそんなにかっこいいものじゃないよ。
高校を卒業するときに、11社くらい就職試験を受けたけれど、態度がデカいし、成績も悪かったからすべて落ちた。でも、現実的に生活しなきゃならない。映画は好きではあったけれど、たまたま映画会社の求人を見つけて受けてみたら、人手不足だからという理由で採用してもらうことができた。そして、体が大きく、工業高校卒で機械に詳しいからという理由で、撮影助手という仕事を与えられたんだ。でも実際のところ機械には何も詳しくない。
当時はいまと違ってキャメラの性能も高くないから、撮った映像をその場で確認なんてできないし、確認できるのは撮影後何日か経ってから。そのときピントが合ってないことが分かれば、もう一度撮影を組み直さないといけない。それには時間もかかるし、お金だってかかるんだよね。
俺は撮影助手として、絶対にピントは外さないという気持ちでキャメラと向き合って、試行錯誤を重ねた。でも、それは会社のためとか、人によく思われるためじゃない。あくまでも自分のためだった。明確な目標に向かって何かをやるわけではなく、無駄かもしれないと思っても地道に努力する。当時からそういう人間になりたいと思ってたんだ。
結果として、大作はピント合わせに秀でているという評価を受けるようになった。黒澤明監督の映画制作では望遠レンズを使うし、助手としてはとても難しい撮影環境だったから、なおさら技量が必要とされた。そんな中で自分の仕事の手応えを感じ始めて、映画づくりにのめり込んでいった。
――生活のためにやっていたことが、結果的に夢につながっていったということでしょうか。いまの社会には、夢が見つからないと悩んでいる若い人がたくさんいます。
俺は未だに、夢のために映画づくりをやっているなんて考えてないよ。その場その場で、いま何をやるべきかと考えて生きている。 いまの人たちは、夢を持たなきゃいけないと言われて育って、なんとか夢を探そうとしたり、成功した人たちをうらやんだりする。でも、そんなことより大事なことは、いま目の前にある人生をどう生き抜いていくかだと思うんだ。
よく、「一筋の道を求めて」と言うけれど、そんな道は72歳になったいまになっても見えやしない。本当の意味でそんな生き方ができるのは、キリストや御釈迦さまだけだろうな。凡人の俺たちができるのは、「一筋の道を求めようと」して、もがき苦しみながら生きていくことだけだ。
最近思うのは、人生というのは徒労の積み重ねなのではないかということ。 映画「劔岳 点の記」を撮り終えるまでは、歳も歳だし、この作品を最後に引退してもいいと思っていたし、これが最後ですと明言もしていた。でも結局、また次の作品をつくろうとしている。かっこ悪いよね。次のことを考えてしまったら、それまでのことというのは徒労だよ。大リーグで活躍するイチローだって、ワールドカップで優勝した全日本女子サッカーの澤だって、若くして夢を実現して成功したと言えるわけだけど、その人生はこれからも続いていく。夢を実現したほんの数パーセントの人間である彼らだって、もしかしたら徒労を重ねているのかもしれないよね。
ときには、理想とのギャップに気づいて、「なんでこんなことやってるんだ?」とか、「ほかの道でもっと輝けるんじゃないか」と迷うこともあるだろう。やっていることが徒労と分かっていながらも、そこに向き合って必死で努力する。人生は選択の連続で、無駄なことなしで賢く生きようとしても出来ないし、無駄なことの積み重ねが大切なときもある。だからこそ、その徒労を信じられないと人生はないよ。
――徒労を信じられれば、夢は叶えられるのでしょうか?
「夢は、頑張れば実現するもの」と教えられている人が多いと思うけれど、俺はそうは考えていない。本当に夢を実現できるのは、1億数千万の人口の中で、ほんの数パーセントの人間だけだ。試しに、周りの大人たちに「あなたの“いま”は、夢を叶えた結果ですか」と聞いてみるといい。恐らく、イエスと答えられる人は稀だろう。
俺はむしろ、夢は挫折するためにあるものだと思っている。だから夢は何個も持っていた方がいい。最初からこれだというものを見つけて、その夢を追いかけ、成功させる人間は一握りだろ。 ひとつの夢を3年、5年と真剣に追いかけていると、自分より才能を持ったやつにたくさん出会ったり、やっていてなんか違うなと思ったり、いろんな問題に直面するだろう。そしていつしか、人はその夢の前に挫折する。でも、何個も夢を持っていれば、ひとつの夢がだめだったなら、別の夢に方向転換すればいい。夢を捨てることに悩むだろうし、新しい夢にだって難題はある。さっきも言った通り、人生はもがき苦しむことに意味があるんだ。
講演で学生たちにそんなことを言うと、「先生が言うこととは違うけれど、ほっとした」って言われることが多いよ。何年も先の人生を考えて、自分の進むべき道を今の時点でひとつに決めろと言われても大変だよ。しかも、挫折したら努力が足りなかったって言われる。挫折イコール社会からの脱落だって思ってるんだろうな。
「気」が入っていなければ「本物」の仕事はできない
――「劔岳 点の記」で、初めて監督を務めることになった経緯はなんだったのでしょうか。
仕事がなくて暇だったときに、ふらりと一人で35mmの映画用フィルムのキャメラを持って能登半島に出かけて撮影をしていた。10日くらい粘ったけど、いい画が撮れなくて諦めて帰る途中で、ついでに剣岳を拝んで帰ろうと思い付いたんだ。不思議なものだよね。意図しなくても、人間というのは行動していれば何かが生まれてくる。その場に立ったときに、これを映画にしたいと強く思ったんだ。
原作は新田次郎の「劔岳 点の記」。明治時代の測量隊の話で、日本地図の中で空白になっていた前人未踏の剣岳の頂を目指す過程を描いている。この映画制作では、本物の自然に徹底的にこだわろうと思った。そうなると、撮影には最低でも2年間。200日は山に入らなければならない。自然というのは思い通りにならないからね。さらに、過酷な撮影環境や、ギャラもさほど出せないだろうと考えたら、引き受けてくれる監督が思いつかなかった。だったら自分が本物にこだわってやるしかないと覚悟を決めた。
企画を持って自らいろんな映画配給会社を回ったけど、軒並み断られた。会社は当てにならないと思って、一緒にやってきた仲間に声をかけていたら、「木村大作が命をかけてやると言うのなら」と共感してくれるプロデューサーがいて、その紹介でスポンサーも見つかった。ありがたいことだよね。
――今回は、映画監督という立場でありながら、資金集めからキャスティング、PR活動まで、幅広くご活躍されたと伺いました。
映画のキャスティングというのは、大半はスポンサーの要望で決まるんだ。興行的に成功させなければならないから、大衆に人気のある俳優でやりたいというのが一般的な考え方。
でも、自然に合わせて動く必要がある以上、この映画はこちらのスケジュールに合わせてくれる俳優とやりたかった。だから自分でキャスティングをして、自分で交渉しに行った。そして、「この映画は志がないとできません。なぜなら過酷だから。長期間山にこもる必要があるし、山の中ではスタッフとともに雑魚寝です。それでもやるという俳優さんと仕事がしたい」とお願いした。
制作スタッフも、本当はプロデューサーが決めるものなのだけど、ほぼすべて自分で面接したね。 とにかく、監督をやる以上は、すべてやりたいようにやると決めていたから。
――映像を観ていて、とても過酷な環境下での撮影であっただろうと想像できました。撮影にあたってご苦労されたことは?
大人数だと動きが悪くなることもあって、スタッフの数は20人程度と最低限の人数に絞った。だから、撮影、照明、美術とそれぞれの役割はあるけれど、役割を越えて全員で物事に対応する必要があった。機材の運び込みだって、スタッフ全員でやる。過酷な自然環境の中で命を落とす危険もあるかもしれないという状況下で、生半可な気持ちの人間とは一緒にやれない。結果的に、何人かのスタッフには辞めてもらうことになった。
「一生懸命やります」と言われても、それじゃ足りないんだ。一生懸命っていうのはゼロ地点であって、当たり前のこと。あの現場に必要なのはそれ以上の思いと、そこから自然に生まれる行動なんだ。キャメラに映る画を考えて、邪魔な石があるとする。この大きな石をひとつどかすというときに、嫌々やるのか、いい映像を撮るために絶対どかさなきゃいけないと思ってやるのか。そういう「気持ち」は、態度や表情に出てくるものなんだ。
俺は「気」という言葉が好きでね。気の向くままに、気合を入れる、気持ちを込める…。「気」が入っていないと何も伝えられないし、伝わらない。だから、俺はどんな作品にも「気」を込めてるよ。
「経験」と「体現」という言葉があるけれど、この二つには大きな違いがあると思っている。「経験」はただその場や環境を過ごすことで、「体現」には実感や気持ちが伴う。経験はただ過ぎていくものだけど、体現は自分が実感を持って経験したことだから、その人自身を育てるんだよ。本物をつくるためには、「体現」することが大事なんだ。
通常は効率を考えて、背景や俳優のスケジュールに合わせてシーンごとに撮影していくことが多いけれど、この映画はストーリーに合わせて順番に撮っていった。そうすると、あるシーンを撮るのに、天候のせいでままならないということも起こる。1カット撮るのに10日間待ったこともあるよ。それでも、明治時代の測量隊が歩んだ通りに進めて、俳優さんたちには、「この役は理屈で考える必要はありません。いまここで感じた通り演じてくれればいい」と言っていた。セリフも、状況に応じてどんどん変えていったね。映画を観た人たちから、自然そのものの迫力もさることながら、役者の顔から温度感や過酷さが伝わってくると言われるけど、あれは実際に「体現」しているからこそできる表現。CGとか、つくりものの中では絶対にできない。
準備期間を含めると、この映画をつくるのに4年間もかけたことになるのだけど、スタッフからは、「この映画に関わって、映画づくりを学ぶ以上に、人はどのように生きていくべきかについて学んだ」という言葉をもらった。それを最初に言ってくれたのが、主演を務めた浅野忠信さん。うれしかったね。
やりたいことを貫けば周囲の95%は敵。たった5%の味方がいればいい
――長いキャリアの中で、数々の映画づくりに関わってきた木村さんですが、これからやりたい作品などはありますか?
すでに手がけている作品もあるけど、基本的な姿勢は何も変えるつもりはない。「一筋の道を求めようと、風の吹くまま、気の向くままに」だね。
俺は言いたいことを言うし、やりたいことしかやらない。これまでその姿勢でやってきて、仕事のオファーもたくさん断ってきた。その中には、話題になった作品だってあるよ。でも、キャメラマンの木村大作を信じて任せてくれない仕事は、どんなにいい企画であっても受けないと決めている。
おのずと、関わる作品選びは、相手と「仲間」になれるかどうかで決めることが多くなった。それでも、ここまで生き抜いてきたんだ。
――自分の言いたいことを言って、やりたいようにやれば、当然周囲との摩擦も出てきますよね。
俺はがさつだし、相手に合わせて言うことも言い方も変えたりしない。当然、嫌われる人には嫌われる。映画界に関わる人間の95%以上は敵だと思うね。相手に合わせていちいち自分を変えたり、やりたいことを曲げたりするのは大変なことだよ。そもそも、全員から好かれるなんて、不可能なことだと思わないか。たった5%かもしれないけど、本当に信頼できる仲間とは、ぐちゃぐちゃ話す必要もないし、お互いに向き合う姿勢も誠実だ。その少ない仲間さえいれば、十分にいい映画がつくれるんだ。
たくさんの人たちが思う、こうすればうまくいくだろうという方法論を「常識」と呼ぶんだろうけど、常識に収まっていては、事は成せないと思っている。そもそも、常識が正しいことだとは限らない。ときには非常識を信じる勇気、敵をつくる勇気だって必要なんじゃないかな。
――「空気を読め」と言われ、周囲と協調することを求められながら仕事をしてきた世代には、新鮮なメッセージですね。でも、実際には実行するのはなかなか難しい…。
別にやりたいことだけをやれているわけじゃないよ。仕事を選り好みして食べていけるほど裕福なわけじゃない。
去年は家計簿を付けて、預金と照らし合わせてあとどれくらい生きていけるかって計算してね。数カ月しかもたないと分かって、慌てて出費を削ったり、アルバイトを探したりした。映画の仕事でも、いつ仕事を下りると決めるか分からないから、すべてが終わるまで支払を要求しない。
映画界では絶対に頭は下げないと決めているけど、それ以外のところではいくらでも頭を下げる。そういうところは、ちゃんと覚悟しているつもりだ。
――木村さんの講演は、マイクを使わず豪快にお話されることで有名です。 これから講演で伝えていきたいこと、メッセージをお願いします。
この通りの人間で、相手に合わせて言い方を変えたりはしません。学生相手でも子ども扱いはしないし、会社の偉い方たちを相手にへりくだることもないでしょう。まして、講師だからといって、先生のような立場で何かを教えようとはまったく思いません。
講演で話すときにマイクを使わないんだが、マイクを使わず怒鳴るように話すとびっくりする人もいるけど、自分に何かを求めてくれるのならば、相手の顔を見て直球でしっかり伝えたいと思っています。
講演は聴衆の反応がダイレクトに伝わってくるから、おのずと話に気持ちも込もります。聴衆の顔や反応を見て話すことを変えることもあるね。伝わらなければ意味がないと思うから。
ただ、俺の経験から何かを学ぼうと思ったとしても、話を鵜呑みにして真似てほしいとは思いません。そんなことをしたら、大変なことになります(笑)自分自身の人生において、実際に何をすべきかということは本人が考えること。ただ、俺の体現や言葉から、皆さん自身が人生をどう生きていくかを考えるきっかけになればと思います。
――「大きな夢を持て」と言われて育ち、「空気を読め」と言われながら仕事をしてきた世代にとって、新鮮で勇気の出るメッセージがたくさんありました。本日は貴重なお話をいただき、ありがとうございました。
取材・文:宮坂方子 /写真:三宅詩朗 /編集:丑久保美妃
(2012年3月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
木村大作きむらだいさく
映画監督
1939年生まれ。東京都出身。日本映画界を代表する監督・キャメラマン。1958年東宝撮影部にキャメラ助手として映画界入り。代表作には「八甲田山」、「復活の日」、「駅STATION」、「火宅の人」、「鉄…
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