2015年02月27日

天国から地獄の底へ、そして死の恐怖

――1987年、アマチュアスポーツ実績のない身から20歳で全日本プロレスに入門。翌年2月にリングにデビュー。90年代半ばから数々のタイトルを獲得し、2000年に所属を「プロレスリング・ノア」に移してからは、GHCヘビー級チャンピオンの座を2年間に渡り13度防衛。強さ・人気ともまさに破竹の勢いだった時、「絶対王者」の“小橋建太”にまさかの「腎臓がん」が発覚。選手生命を断たれても仕方がない悲劇に襲われたのですね。

 はい、あれは2006年の6月。札幌で本田多聞と組んだタッグマッチで第12代GHCタッグ王者となって意気揚々と帰京した、その直後の健康診断だったんです。 当時僕は39歳だったのですが、たまたま40歳代と同じ検査項目を受けることになりまして。40歳代は新たにエコー検査が加わるんですね。そこで腫瘍が見つかり、数日後病院で精密検査を受けた結果、「がん」と判明したのです。 まさに「天国から地獄に墜ちた」悪夢の展開でした。 けれど今から思い返すと、40歳代扱いされてよかったんです。 エコー検査がもっと後だったらどうなっていたことか…不幸中の幸いでしょうか。

――しかし39歳という若さ、しかも絶頂期に。想像を絶するショックだったと…

iv_64_02 ええ。さすがに僕にも「腫瘍=がん」という知識はありましたし、健康診断の場での看護士さんの慌てようが尋常ではなかったので、うすうす察してはいたんです。 精密検査の結果報告を受けるその席。意を決して自分の方から「先生、僕はがんなんですか?」と問い詰めました。

重苦しい沈黙がすこしあり、「はい、そうです…」と。半ば覚悟していたのに、実際にお医者さんの口から宣告されると、文字どおり「頭の中が真っ白」になるものなんですね。 僕らの世代だと「がん=死」とすぐに結びつけて考えてしまいます。 「ああ、もうプロレスはできないんだ」「俺、死んじゃうのか」… 放心状態のまま時は過ぎていきました。

「プロレスを続けたい」という心の奥底の願望だけは消え失せることはなかったんですが それはすべてが終わってしまうかもしれない現実を、受け入れようにも受け入れられなかっただけなんです。

――手術が無事成功して本当によかったです。しかし、臓器をひとつ失くした身となった闘病生活にはチャンピオンといえども、いえ、勝ち抜き続けてきた王者だからこそ、言い知れぬ葛藤があったと思います。

 そうですね。まず、手術がうまくいっても完治には10年かかると告げられ 腫瘍の大きさは4~5センチ、がんのステージとしては1~2という危険な状態でした。 わずかな可能性を求めて、複数の医療機関からセカンドオピニオンを受診しました。 そんな中で、2つある腎臓の働きや、手術すれば命が助かる可能性があること、部分切除より全摘出した方が生存率が高いこと、腎臓ひとつでも生きていけること、などがわかってきて。「大事な試合が1ヵ月後に控えているんです。手術はその後にお願いします!」という 僕に対し、主治医の先生は「とんでもない!今すぐにでも手術をしないと危ない」という 状態だったのです。 その判断のおかげで、5時間半にもおよぶ右腎臓摘出手術は無事成功し、僕は命をつなぎとめることができたのです。

しかし…ここからが本当の地獄のはじまりでした。歩くどころか、立つことすらできない。物を食べることも用を足すこともできない。それまでもヒザやヒジなどケガの手術なら何度も経験してきましたが…臓器をひとつ失うことは、重ねてきた肉体の鍛錬に関係なく、あまりにも大きなダメージだったんです。「小橋さん、この手術はあなたをリングに復帰させるものではありませんからね。あくまで生き続けるための最大限の処置であると理解してください」…先生の言葉は重過ぎました。

もうプロレスラーという職業を、ここまで築いてきたキャリアをあきらめる以外にないのか それはもう味わったことのない絶望感です。 「プロレスをやめたら、俺には一体何ができるというのか。どうやって生きていけばいいんだろうか」次から次へとネガティブなことしか考えられず、精神的にどんどん追いつめられていき、体だけでなく、病魔は心までも蝕んでいきました。 心を病んでいる人の苦悩、もっているものを失うことがどれだけ辛いか、はじめてリアルに わかりましたね。

生きていれば何とかなる!?…絶望の底に残っていた希望

――退院後、小橋さんはリング復帰を目標とするわけですが、生きていられるだけでも 幸運なのに、再び闘おうとは常人ではとても考えられません

iv_64_03 入院は1ヵ月に及びました。退院後もほとんど一日中ベッドの上で過ごし、喪失感にふさぎ込む日々。しかし「このままではいけない」と。まずは普通の日常生活ができるよう、プールでの水中歩行からリハビリをはじめることにしました。もちろん、先生から「そのくらいならやってもいいでしょう」というやっとの許可をもらって。練習が大好きでずっとやってきた僕でも、さすがにこの時は「トレーニング」という感覚ではなかったですね。

けれども、少し歩けるようになって、自然と足が向いてしまったんですね、道場に。 退院して1ヵ月ほど経った頃でした。 久しぶりに吸う道場の空気。僕はリングに上がり大の字に寝っころがってみました。 その瞬間、強いインスピレーションを全身で感じたのです。 「ここなんだ! 自分がこれから向かうゴール、そして帰るべき場所は!」と。 重く垂れこめていた黒雲が途切れ、少し光が射してきた。 そんな思いです。

ここから気持ちががらりと変わったのだと思います。 リハビリと称して、先生に叱られない程度にトレーニング的なメニューを加え 「俺はまだ終わらない」と自分に言い聞かせていったんです。 もちろん、やっと身体を動かせるようになったばかりですから、復帰できるかどうかは二の次で、自分を苦しみから解放するための行為として。

――安静にしなければいけないはずが、ずいぶんと先生を泣かせたようですね(笑)

 自分ではむちゃしたつもりはないんです。 支えてくれている妻や、有志の方々が立ち上げてくれた「小橋建太を復帰させる会」の皆様に報いるためにも「残された腎臓を大切にしてまず生きよう、生きていれば希望が見えてくるはずだ」という気持ちでした。 毎月1回の定期検診では、そこで身体の諸々の数値の推移を確認し、先生との問診があります。ケガや傷ならどのくらい治っているか見てわかりますが、内臓の回復はわからない。 しかし僕は「先生、僕はもうリングに復帰できないんですよね」とか「復帰はムリなんですよね」とか、毎月の検査のたびに「復帰」という言葉を口にするようにしていました。

もちろん、復帰できる根拠も身体の兆候もない。 先生がそのつど強くダメ出しをするのは言うまでもありません。 ただ、頭のすみに残っていたひとつのアドバイスがあったんです。 それは手術を受けるとき、友人の医師に言われたことなのですが、「手術の後、半年無事に 経過すれば、ひとつになった腎臓が落ち着いてくる可能性があるから」と。

そして、手術から189日目の2006年12月10日、僕はファンに現状報告とあいさつをするために、武道館のリングに上がりました。しかし僕の口から出た言葉は 「いつになるかわからないですけど、必ずこのリングに帰ってきます!!」 もちろん医師からGOサインなど出ているわけがありません。 ところが不思議なことが起こったんです。この翌々日に検査があり、何とその結果 腎臓の数値が回復していたのです。 超満員のファンのみなさんからの熱列な声援、激励の言葉。ファンの人たちから僕は見えないエネルギーをもらったんです!

――命をかけた究極の有言実行!しかしあの復帰宣言が診断の根拠なくされていたなんてファンも想像だにしなかったでしょう。それから約1年でカムバックすることになるのですが、強靭な肉体もさることながら その不屈の精神力をどうして保てたのか、もし言葉にして伝授していただけるとしたら…

 人並みはずれた強い精神力 うーん、そんな立派なものではなくて、僕は単に「プロレスバカ」なんです(笑)。 けれど、いい意味でバカにならないと突破できないことが人生にはあると思うんですね。 もちろん、腎臓を片方取ったら完治するのに10年かかるという診断をいっときも忘れたことはありません。 なのに「復帰、復帰」としつこく口にして、先生を困らせ、自分も本気になってしまう。 バカですよね(笑)。けれども、命をかけた闘病生活だったゆえに、そこから這い上がる中で掴んだことが2つあります。

まず1つ。打ちのめされた自分。周りにどんなに支援者がいてくれたとしても、最初に立ち上がることは自分の力でしなければならない。 そうしないと何もはじまらないということです。 必至になって自分で起き上がろうとすれば、きっと誰かが手をさしのべて支えてくれます。 逆に言えば、自分で立ち上がろうとさえしない者を助けてくれる人などいないんです。 それほど世の中は甘くはありません。

それから2つ目。自分に対して絶対に「ダメだ」と断言してはいけない、ということ。 ひとつだけになった腎臓に負担をかけないために、僕の身体はタンパク質の摂取を極端に抑えなければならなくなりました。 つまり筋肉を作るための食事、トレーニングの道がすべて断たれたことになる。 プロレスラーにとっては致命的です。 正直何度も「ダメかもしれない」とは思ったけれど、「ダメだ」と断言はしなかった。 そんな僕を、整形外科の先生や理学療法士、それにサプリメントメーカーの人たち(前出の「小橋健太を復帰させる会」)が協力・支援してくれて、腎臓に負担をかけずにできる トレーニングメニューや、タンパク質を摂れる食事メニューを考えてくれたのです。 「ダメだ」は、まだ捨ててはいけない可能性や希望をゼロにしてしまいます。 どんな状況でも、先にあきらめを決めつけてはいけないのです。

前例がないなら、自分が第一号!

――腎臓を失ったアスリートが現役に復活した例は、世界中、あらゆる競技においてもほとんど前例がないと聞きます。 そこまで現役にこだわっていた姿勢には、何か特別な理由があるのでしょうか?

iv_64_04 カムバック宣言から約1年、欠場から実に546日ぶりの2007年12月2日、僕はついにリングに戻ってくることができました。 復帰戦は手術によって流れてしまった対戦カードをそのまま実現するかたちで行いました。 ファンの前で復帰宣言して以降の1年間、僕はハンディを負った身体でできる範囲のトレーニング方法を新たに取り入れながら、少しづつですが食事で摂取するタンパク質を増やし、復帰という目標に向かっていきました。

途中、ドクターストップをかけられたことがありました。 当然ですよね、世界中に前例などないのですから(笑)。 その時点では、どんなに頑張っても実現は無理だったのかもしれない。 けれども、最初から努力を放棄していては、いつまで経っても目標に近づくことはできない。「とにかく正面からぶつかってみて、白黒を自分でつけないと納得できない」。 これが僕の生き方なんですね。

たとえ目標に到達できなかったとしても、そこまで重ねてきた努力はいつか違う場面で必ずプラスに作用する。 僕はそう確信しますし、何度も身をもって経験してきましたから、惜しまず努力する。 それから「前例がない」ということに恐れを感じていたらダメです。前に進めなくなります。

がん以前にも、僕は2001年にヒザを大ケガして「現役のアスリートでこの手術を施した人はいない」という手術を受けたことがあるんです。そして今回の腎臓がんからの復帰。「もし前例がないなら、自分が第一号になればいい」そう発想して難関を乗り越えてきました。現役にこだわっていたのは、別に崇高な目標があるわけではないんです。単にプロレスが大好きで続けたかったからなんです。(笑)。復帰戦は負けてしまったのですが、日本テレビの実況アナウンサーが「小橋が勝ちました! 腎臓がんに勝ちました!」と絶叫してくれたのは嬉しかったです。

――その後もリングで活躍されましたが、いよいよ引退を決意されます。

 リングに生還したとはいっても度重なるケガで全身はボロボロでした。 そして忘れもしない2012年2月19日、仙台での東日本大震災復興チャリティー大会でのこと。僕の必殺技であるムールプレスサルトがうまく決まらず、両ヒザに大きなダメージを受けてしまったのです。

帰京して検査を受けると、ヒザはもちろんですが、「首」にも大きなダメージがあることが分かりました。 首が相当に悪化していて、緊急に手術をする必要があると告げられました。 2009年に急逝した三沢光晴選手よりも悪い、本当に歩けなくなると医者に言われて。 手術は成功しましたが、やはり歩くことに不自由を感じるようになり、「無理のきかない身体になってしまったか」と、ついに現実を受け入れざるを得ない状態になったのです。

すでに45歳。「引退」をはじめて意識、あれこれ思いをめぐらせましたが、決断しました。しかし、このケガでフェイドアウトするような引退だけはぜったいにイヤだった。 もう一度だけ絶対リングに立つ! 僕はプロレスラーとしての最後の目標を自分に誓いました。

今「第二の青春」

――ほんとうに危険な状態だったんですね。 そんなギリギリの身体で引退試合を実現させるなんて、小橋さんにしかできない 男の美学を 越えた境地です!

小橋建太は2013年5月11日限りでプロレスラーではなくなる、「ちゃんと引退する」けじめをつける意味で、僕には引退試合が絶対に必要だった。 やるべきことをやりきれば、自分で自分を納得させられる。 でなければ後悔することになる。 さっきも言った、僕の性分のせいなんですね。 それと最大の理由は「ファンに恩返したい」ということ。 最後に「最高の小橋建太」を見せることがファンへの感謝、メッセージを伝えることになると思ったんです。 ファンへのメッセージには、引退後も「応援していてよかった」と思ってもらえる小橋建太であり続けるぞ、という使命感も伝えたつもりなんです。

引退を意識してからは、これからの第二の人生の方が長いことを悟りました。 僕自身がポジティブな気持ちで、プロレスから切り替えて別の新しい分野を歩んでいくために「プロレスラー最後の日」が不可欠だったんです。 そうじゃないと、第二の人生に進めなかった。 言い換えれば、もしプロレスに未練が残るような退き方をしたら、次の世界では中途半端な 生き方をしてしまうかもしれない、という「怖れ」があったんですね。 「小橋建太は引退して落ちぶれてしまった」なんて印象を与えたら、それこそファンや後輩のレスラーたちに申し訳が立たないですから。 先の自分のこと、ファンへの感謝、後輩の目標意識を考えての引退試合。 この日、26年間の僕のプロレス人生が幕を閉じました。

――何事にも真っ向からぶつかり手を抜くことをしない小橋さんの生き方を、これからどのような活動で発揮していかれるのでしょうか。

僕はこうして今でも生きています。 復帰した前例のない手術と治療をかなえてくれ、プロレスを続けさせてくれた医師の先生や協力してくれた方々に感謝しながら、「生きる意味」をもっともっと考えながら生き続けていかなければと強く感じているところです。 墜ちても、墜ちても、生きていれば何度でもやり直しがきいて希望につながり、希望を捨て ないことで夢がかなう。

だから、引退してからの時間は僕にとっての「第二の青春」であって、今また新たな希望で いっぱいです。さっそく僕が代表となって「株式会社Fortune KK」という会社を立ち上げました。 事業の一つに「Fortune Dream」という僕がプロデュースするプロレスの大会があります。 「Fortune Dream」はすでにあるようなプロレス団体とは少し違います。 所属選手はいないけれど、各団体のワクを越えて、僕が見てみたいと感じ、ファンにも見てもらいたい選手、対戦カードを組んで興業するという、今までにないイベントを実現しているつもりです。

もちろん、これからのプロレス界を担っていく若い選手たちに華々しい場を設けてあげると いうことも大きな目的です。 それから、僕の生き方やガン、ケガを乗り越えた体験やメンタルのコントロールについて、一般の方々に少しでも参考にしてもらえたらと、トークライブや講演活動にもどんどんチャレンジしています。

幸せは「やるべきこと」に全力を尽くしたその先に

――では最後に チャレンジをし続けている小橋さんから 新たな道に踏み出したばかりの人へ、 または自分の実現したいビジョンがあるのに躊躇 してしまっている人に、メッセージをお願いします!

iv_64_05 人生、紆余曲折 山あり谷あり じゃないですか。 不安を持ったり、躊躇したり それは誰でもあることだと思いますが、それでも進んでいかないことには、先はないんです。

ノウハウと言えるようなものではありませんが、自分を振り返ってみると 【想像する】【言葉にする】【行動する】この3つのサイクルをいつも意識していました。 この3つの行為を繰り返しながら、悔しさをエネルギーに変えて、ひとつずつ壁を乗り越え 強くなっていけたのだと思っています。 近道や楽な道はないと思います。 まずは「今 やるべきこと」に懸命に全力で取り組むべきです。

そして【想像する】【言葉にする】【行動する】を習慣にできれば、その過程において 本当の「やるべきこと」が見えてくるはずです。 「今 やるべきこと」に全力を傾けていれば、必ずや “これだ!” と、思えるチャンスや 希望が訪れます。 その時こそ即実行です! そして、実行に移したその先には「幸せ」が待っています!

――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。

編集:竜田直樹
(2015年2月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)