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小柄な体から繰り出される切れ味鋭い一本背負いが得意技であることから、選手時代、「平成の三四郎」と呼ばれた古賀稔彦氏。1992年のバルセロナオリンピックでは、試合直前に左膝に大けがを負うも、見事、金メダルを獲得。畳の上で咆哮をあげる姿は日本中に感動を与えた。現役引退後は、全日本柔道女子強化コーチとして、愛弟子の谷本歩実選手をアテネ五輪(2004年)で金メダルへ導き、また、子どもの人間育成を目的とした町道場「古賀塾」を開塾。いまもなお指導者として“柔の道”を歩み続けている。選手としてだけでなく、指導者としても大変な成功を収めたように見えるキャリアだが、ここに至るまでの道は決して順風満帆ではなかった。――古賀稔彦氏の人生に訪れたターニングポイントとは……?
勝負に負けて「勝負師」としての道が拓けた
「幼い頃は、気管支炎ぜんそくを患っていたこともあり、今では考えられないくらい病弱な子供でした。二人兄弟の次男なのですが、両親は女の子が欲しかったんですね。ですから、私はまるで女の子のように、大事に育てられていました。わんぱくな兄が悪さをして母に叱られて逃げ回っている姿を、私は咳き込みながら見ていたことを覚えています。小学1年で柔道を始めたのは、本当に遊びのノリなんですよ。それまでいつも一緒に遊んでいた友達が、夕方になるとみんな柔道の道場に通い始めたんですね。聞けば「道場に行って練習が始まるまで遊べるんだ」という。それは楽しそうだと、兄と一緒に父にお願いして、二人で柔道を始めることになったんです。
きっかけは遊びの延長でしたが、道場に通いだして数カ月が経ち、受身と技を2つくらい覚えた頃、練習試合をする機会が訪れました。対戦相手は私よりも上級者。当然のことながら、あっけなく負けてしまいました。試合後、負けたことが想像以上に悔しくて、涙がこみ上げてきました。でも、泣くのは恥ずかしいのでぐっと耐える。自分はこれほどの負けず嫌いだったのかと、何かが自分の中で爆発しました。「もう絶対にこんな悔しい思いはしたくない」、「そのためにはどうすればいいのか」、「たくさん練習して、強くなるしかない」。この瞬間から、私の柔道に対する気持ちが変わりました。それからは本当に柔道一色の人生です。父が柔道経験者だったこともあり、一生懸命、兄と私の練習をバックアップしてくれました。古賀家の生活は、この頃から柔道を中心に回っていくことになりましたね」
不調な時ほど勝てる?―ピンチをチャンスに変えて獲得した金メダル
――――中学入学と同時に、柔道のエリート私塾「講道学舎」に入門するために上京。世田谷学園高校、日本体育大学で柔道を続け、国内外の大会で数々の栄冠を手にする。まさに柔道における「エリート街道」を進んできた中で、過去の勝負を振り返って見ると、自分が絶好調だと思っている時ほど勝率が悪いのだと言う。

大会直前の練習でひざを痛め、歩くのもままならない状態だったという。本番は痛み止めの注射を打って闘い、見事金メダル。日本中の感動を呼んだ。
「もちろん、心身共に最高のコンディションで試合に臨むことがベストですが、私の場合、調子が良い時ほど雑念や雑音を気にしてしまうんです。『対戦相手がお前のことをかなり研究しているらしい』とアドバイスされただけで不安になったり、小さなけがでも『なんでこのタイミングで…』と後ろ向きに考えたり。きっと欲が大きくなりすぎているのでしょう。金メダル確実と期待されながら、3回戦で敗退したソウルオリンピックがそうでしたが、好調時のちょっとした心のつまずきは本当に怖い。
逆に、調子が悪い時はそんなことを考えている余裕すらありません。今までの経験や、教え、技など、自分の頭の中にある引き出しをすべてひっくり返して、最悪の状態で勝つためにはどうすればいいのか、その組み合わせを導き出すことで必死になっています。そうすると、集中力、気力、精神力が非常に高まるんです。試合直前に大けがをしたバルセロナオリンピックの時が、まさにそんな状態でした。そして結果は金メダル。ですから、ピンチこそ最大のチャンス、逆に、好調時の油断はタブー。これが勝負師としていくつもの戦いを経験してきた私が考える、勝利への戒めといえますね。
最後まで攻めたからこそ満足できた現役引退
―――金メダルを獲得した4年後、次のアトランタオリンピック(1996年)に出場した古賀氏は決勝で敗退し銀メダル。結果よりも、自分の勝負の仕方に悔いを残したのだと言う。「次のシドニーオリンピック(2000年)でこの悔いを晴らすしかない」。そう考え、練習を積み重ねて、五輪代表最終選考会へ臨んだ。
「シドニーオリンピックへの挑戦を続ける過程で、『年齢的に厳しいのでは?』など、周囲からいろいろ揶揄されてへこむこともありました。しかしその一方で、トレーニングの最中に、まったく知らないトラック運転手のおじさん、自転車に乗ったおばさんが「古賀さん、頑張って!」と声をかけて頂くことがありました。若い頃は応援されて当然だと思っていましたが、本当はそうじゃないんですよね。世の中には自分の夢に向かって頑張っている人が星の数ほどいます。その中で、名前を呼ばれ、応援してもらえる人がどれだけいるのか。自分がその一人だと思えた瞬間、「応援してくれる人たちに対して感謝の気持ちだけを背負って頑張ればいいんだ、応援を力に変えていこう」と、心からそう思えたのです。
選考会では敗退という結果に終わりましたが、最後まで攻撃精神を持って戦い抜くことができました。引退を決意した時、選手としてできることはやったという達成感と、大きな幸福感で満たされていたことを覚えています」
【ターニングポイント】指導者としての壁を乗り越えた<思考の転換>
――――現役選手を引退した古賀氏だったが、死ぬまで“柔の道”と接していくことを決めていた。2000年、全日本柔道女子の強化コーチに就任したことで、指導者としてのキャリアがスタートした。
「それまで柔道教室などで教えることはあっても、本格的に指導することは初めてでした。ですから就任当初は、かなり戸惑いましたね。スポーツの世界では、選手は指導者に対して『はい』がすべて。振り返ってみると、私の場合も自分の成功体験をふまえて、こうしろ、ああしろと、選手に一方的なアドバイスをしていました。でも、なぜか伝わらないし、自分でも伝わっている手ごたえがありませんでした。もちろん結果も出ない。『これだけ一生懸命やっているのになぜだろう…』、『私の指導法が間違っているのだろうか…』と悩みました。私と選手たちの間に信頼の二文字が見えてこなかったのです。
そこで、自分の現役時代を振り返ってみました。私は『自分のことくらい自分で考える』というアクの強い選手でしたが(笑)、そんな中でも当時、一番信頼していたのは、自分の話をよく聞いてくれる先生でした。そこに気づいてから指導法を変えてみたのです。まず、『古賀先生にだったら何でも話せる』と思われる“聞き上手”になろうと思いました。
それから、選手が10人いれば、目指すものも、性格も、成長するスピードも、みんな違いますから、全員の話を聞いたうえで、一人ひとりへの対応方法も変えて接しました。それこそ、選手も女性ですから、柔道の話だけではなく彼氏の話からおしゃれの話まで、もう何でも聞きましたよ(笑)。聞く時は相手の言うことをいっさい否定しないことがポイントです。そうすると不思議なもので、人間って、すべての悩みを吐き出して、心が空っぽになると逆に不安になるんですね。その状態の相手にアドバイスをすると受け止めてもらいやすいんです。それに、自分の話を聞いてくれた人の話は聞こうという気持ちにもなりますしね。
さらに、一方的に「頑張れ」ではなく、「先生と一緒に頑張ろうな」というスタンスで接することも大切にしました。 『勝っても負けても、必ず俺が支えてやる』という気持ちです。こうして選手との間に信頼関係が生まれると、少しずつ結果もついてくるようになりました。普段の練習の中でも、とかく指導者の「指示待ち」になりがちだった選手たちが、目標を達成するために自分の頭で考え、課題解決までの道筋を立てるまでに成長してくれました。こうして指導者として悩み抜き、試行錯誤しながら指導し続けた谷本歩実選手が、アテネオリンピックで金メダルを獲った時は感激もひとしおでしたね。自分が金メダルを獲った時以上に本当に嬉しかったですよ」

上)子供たちの指導に熱が入る/(下)古賀塾の道場の畳には「礼」「心」「技」「体」の文字が
―――全日本のコーチと並行して、2003年からは自らの町道場「古賀塾」を開塾。今でも忙しい時間の合間を縫って地域の子供たちに柔道を教えている。
「手を抜いた指導をすると、子どもたちはすぐに『あ、これでいいんだ』と思ってしまうんですね。だから、うちのコーチたちには、いっさい手を抜くなということ、何かに気づいた瞬間、瞬時に修正して指導することを徹底してもらっています。そのやり方で1日5、6時間、何十人も指導しますから、私を含めみんなヘトヘトになりますが(苦笑)。でも、それを継続することで子どもたちは同じ間違いをしなくなりますし、『この子をなんとか成長させてやろう』と考えて指導したことで、変化がみられた瞬間が一番嬉しいです。
手を抜かず、情熱を持って接すれば、子どもでも大人でも人間は必ず変わることができるということを、日々実感しています。 ただし、先ほども話しましたが、人間は十人十色。ひとつのやり方ですべてがうまくいくとは限りません。だからそこには臨機応変さが求められます。自ら考え、工夫をし、変わり続けるからこそ、指導者として成長していけるのだと思っています」
古賀稔彦からのメッセージ
「人生の中で、大小さまざまな壁にぶつかることは避けられません。しかし、すべてのトラブルを“通過点”と捉えればいいのではないかと思います。たとえば現役時代の私は、けが、風邪などの病気、減量苦も、勝利するために必要なプロセスのひとつと考えるようにしていました。『俺はなぜ今こんなに苦しい思いをしているのか』と、疑問や迷いが頭をよぎった時、それらを乗り越えるためには、頑張り続けることができる理由が必要です。マラソンだってゴールがどこまでかがわからないと、ペース配分も、相手との駆け引きも、ラストスパートもできません。頑張るためにはまず明確なゴール=『夢』を設定することだと思います。
逆に言えば、夢があるからこそ『目標』が生まれ、『課題』が見えてくる。そして、日々の課題を克服すれば目標に近づき、目標をひとつずつクリアし続ければ、いつかきっと夢というゴールに到達できる。そう信じ抜くことが大切ではないかと思います。
もちろん、夢の実現までの道のりは遠く、苦しいです。途中で諦めそうになることもあるでしょう。でも、とりあえず今日は1歩だけ前に進んでみればいい。一日1歩、時にはちょっと頑張って2歩踏み出せる日もあるでしょう。それが積み重なって自信となり、3歩、4歩と繋がっていきます。どんなに逆境にあっても、まず前を向き、最初の1歩を踏み出す。この姿勢を忘れないで欲しいですね」
(了)
取材・文:菊池 徳行/写真:上原 深音
(2008年7月28日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
古賀稔彦
柔道家
1967年福岡県生まれ、佐賀県出身。 東京・世田谷の「講道学舎」に入門し、弦巻中学、世田谷学園高時代に数々の全国大会を個人・団体戦で制覇。日本体育大学進学後”平成の三四郎”の異名をとり、バルセロナ五輪で金メダルを獲得。
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