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20年目を迎えた「サンデープロジェクト」、22年目を迎えた「朝まで生テレビ」など、テレビではすっかりお馴染みの顔だ。また、ジャーナリストとして数多くの雑誌に連載を持ち、次々に著書を上梓してきた。その数はすでに150冊を超えている。まさに日本を代表するテレビ人であり、ジャーナリストである。だが、そんな田原氏だが、今の姿を目指してキャリアを積み上げてきたわけでは実はなかった。政治家や知識人に次々と鋭く斬り込んでいく、華やかな活躍からは想像もできないような時代が、かつてあったのである。田原氏自身が、著書でもこう書いている。その人生は、挫折とコンプレックスの連続だった、と。彼はどのようにして、今を築いたのか。その間に何があったのか。ターニングポイントとは……?
次々と落ちたマスコミの就職試験
「実は高校生の頃は小説家になりたいと思っていたんです。大学で早稲田を選んだのは、作家をたくさん輩出していた大学だったから。でも家が豊かじゃなかった。それで昼間はJTBに勤めて、夜学の第二文学部に行くことにしたんですね。ただ、目的は小説家になることですから卒業する気はありませんでした。それでいくつかの同人誌に入るんです。ところが、どこに行っても一度も小説を褒めてもらえなかった。それどころか、こんなことまで言われた。『文才のある人間が努力することを“努力”という。君みたいな文才のない人間が努力するのは“徒労”というんだ』と。そんなある日、JTBで定期券を配る仕事をしていて、東京の地下鉄の茅場町駅近くの書店で雑誌に短冊がかかっているのを見たんです。そこにはこう書かれていました。“石原慎太郎『太陽の季節』文学界新人賞”。読んで衝撃を受けましてね。僕より2歳年上の石原さんは、弟を題材に新しい時代の小説を書いていた。これが現代の小説なんだな、と僕は大きなショックを受けました。これで半分挫折をするんです。
さらにその後に出たのが、芥川賞を受賞した大江健三郎さんの『飼育』。これがまた衝撃で。当時僕はよくフランスの小説の翻訳本を読んでいたんですが、大江さんの小説は、まるで訳文のような小説だった。これでまた挫折ですよ。この2つでもう小説家はダメだ、と考えたんです。そして、そのときにこう思いついたわけです。『ものを書くのに近いところはマスコミだ、マスコミに入ろう』と。でも学校はちゃんと行っていない。これではダメだと、もう一度、勉強し直して第一文学部に入り直しました。それで1年からまた始めたんです。アルバイトをしながら大学生活を送って、やがて就職活動の時期がやってきて、僕は当然、マスコミを次から次へと受けたわけですね。ところが、次から次へと落ちてしまうんです。新聞社にテレビ局、出版社にラジオ局…10社は落ちましたかね。友人は受かるのに、『なんでオレだけが』と気落ちしましたよ。それでようやく受かったのが、岩波映画製作会社。岩波書店の映画部門が独立してできた会社でした」
いきなり干されてしまった初仕事
――――ようやく見つけたマスコミへの就職。だが、ここで思わぬ問題が起きる。面接で「撮影をやるか」と聞かれ、「はい」と答えたのだが、それはディレクター的な動きをするものだと思っていた。ところが、岩波映画は映画会社。撮影といえば、撮影部を意味していた。入社後、与えられた仕事は撮影部のカメラ助手の仕事だったのである。
「僕は機械がものすごく苦手なんですよ。そんな機械オンチの人間にカメラ助手なんて務まるはずがない。最初の仕事で『お前は使い物にならない』と降ろされましてね。いきなり仕事を干されちゃったんです。ちょうど60年安保の年だったから、僕は仕事をせずに毎日朝からデモに行っていました。『安保反対!岸(信介首相)辞めろ!』って、大声上げてね(笑)。そのうち、岩波映画で親切なカメラマンがいて、あるテレビ番組でカメラ兼監督をやるからアシスタントに付かないか、と誘ってくれて。それで、テレビ番組制作のアシスタントをやり始めるんです。テレビ番組は毎週ですから、そのうち脚本が足りなくなってきて。自分も書いてみたら採用されるようになって。それで年配の監督さんのもと、そのカメラマンと撮影助手兼演出助手の僕と2人で、当時流行っていたヌーベルバーグ風に凝って撮ったりしてみたんですね。
ところが、それを見た監督が怒りまして。こんなものが使えるか、撮り直してこい、と。しかも、お金も出せないという。僕は頭にきてね。辞めるしかない、と辞表も用意してた。ところが別の脚本家に言われたんです。『辞めるなら、一度はまともにやってみてから辞めたらどうだ』と。ちゃんと編集してみろ、ということです。それで生まれて初めて編集をやるんです。ゴダール(※ジャン=リュック・ゴダール:ヌーベルバーグを代表するスイスの映画監督)のドキュメンタリーなんかを参考にしてね。もう懸命ですよ。でも、それで編集してみたら、本当にまるでヌーベルバーグみたいなものができて。しかも周りの評判もいい。プロデューサーは、これを番組にしよう、と言ってくれて、いきなり1本決まっちゃったんですよ、撮影助手のできそこないが、いきなりの出世です。それから映画を作りたい、なんて思うようになって。このあたりからようやくちょっと風向きが変わってきたんですよね」
迫られた「連載を辞めるか、会社を辞めるか」
―――そんなあるとき、テレビ局のディレクターから番組構成を頼まれる。いつまでに台本が必要かと聞いてみると、「今晩までに書いてほしい」という。しかも放映は明後日だと。驚いた。こんないい加減な世界があるのかと。この仕事がきっかけでテレビの世界に入る。
「映画は1本の作品を企画するのに20回も30回も会議をやります。それにも関わらず一向に前に進まないことが多い。僕はいつもそこに悶々としていました。そんな折、テレビの世界の、良い意味でのいい加減さ(笑)に触れまして。『これは面白そうだぞ』と興味を持ったんです。ちょうどテレビ東京が立ち上がるときで、僕はそちらへ転職しました。ディレクターとしてドキュメンタリーをはじめ、いろいろやりましたね。何度もケンカして干されながら(笑)、結局13年間いました。在職しながら会社に無許可で映画も撮った。これが『あらかじめ失われた恋人たちよ」です。僕が映画を撮る間は、仲間たちがみんな僕の代わりに番組を何本か作ってくれました。ところが映画が当たらず借金をたくさん作っちゃったんです。そんなときにまた会社とケンカして干されて。でも借金は返さなきゃいけない。それで僕はものを書き始めるんです。ちょうど当時、原子力船むつが社会問題になっていて、原子力戦争というテーマで月刊誌に連載して。この連載の記事で大手広告代理店の問題に触れたら怒らせちゃってね。連載を辞めるか、会社を辞めるか、と迫られて、僕は会社を辞めた。それで、ノンフィクションをフリーで書くようになったんです。ラッキーなことに文藝春秋や中央公論、現代などいろんなところに書かせてもらった。
当時はパソコンが出始めた頃。マイコンやバイオテクノロジーの記事の連載を始めました。それがテレビ朝日の深夜番組のディレクターの目に留まったんです。科学ジャーナリストとして出演して、パソコンやバイオについて説明してくれ、と。それでテレビに登場するわけです。初めての民放出演でした。このとき、割に面白い男だと思ってもらえて、番組の企画ブレーンに入ったんです。笹川良一や児玉誉士夫といった日本の陰のリーダーにインタビューする番組を担当させられたりもして。こうやって、テレビ界を干されて、ものを書く世界へ入ったのですが、思わぬ形でテレビに“復活”するわけです。そして『朝まで生テレビ』の始まりへとつながり、さらに2年遅れて『サンデープロジェクト』が始まるんです」
【ターニングポイント】毎日が転機 ―逆境にいたからこそ生まれた“攻める”姿勢
――――まさに、失敗と挫折が連続する人生。だが、逆境にあるたびに、その後の展開を大きく変える出来事があった。そんな田原氏が考える自身の「転機」とは。
「転機は毎日ですよ。昨日とは決して同じ事を繰り返さないように、日々いろいろなことを試していました。ただ、そういう姿勢は、特にテレビ東京での経験がとても大きかったように思いますね。当時のテレビ東京というのは、“テレビ番外地”なんて言われていまして。映らない地域も多くて、同業者は誰も問題にしないテレビ局だったんですよ。他のキー局には、有名ディレクターがたくさんいましたが、そうした環境の中でどう勝負するか、が僕にはいつも問われたんです。
そこで考えたのが企画力。とはいえ製作費は他の民放は10倍、NHKならもっとあるわけです。企画内容で勝負するだけじゃなくて、向こうが企画できても『できないもの』をやる必要があった。つまり『ヤバイ』企画です。それを心がけたんですね。そうしなきゃ勝てなかったから。実際、僕は2度、警察に逮捕もされています。今のテレビじゃ考えられないような危ない企画をたくさんやっているんです。逮捕されても番組はそのままオンエアしましたけどね(笑)。周りから相手にされないテレビ局にいるのだから、どうやったら相手にされるかを常に考えないといけなかったわけです。そのためには、刑務所の塀の上を歩いて内側には落ちないくらいギリギリのことをやる。そういうことばかり考えていました。
実はその気持ちは今も変わりはないんですよ。『朝まで生テレビ』も『サンデープロジェクト』も、20年続いていますが、僕は毎回、違う番組を作ろうと思ってやっています。そのためには、相当考えますし、悩みもします。でも相手が誰であろうと、社会にとってマイナスになっている原因を追究するためには、どんどん攻めていかなきゃならない。だから結果的に、二人の首相を退陣に追い込むことができるような番組を作ることができたわけです」
田原総一朗からのメッセージ
「僕が大事にしてきたもののひとつに、友だちがあります。僕なんて放っておけば本当にいい加減な人間です。だから、自分を支えてくれる何かがなきゃいけないと思った。それが、友人たちの目線でした。『田原、何やってるんだ』、『こんなことを、やってていいのか』、『そんなことやっちゃダメだ』…。そういう周囲の視線の重さに僕は支えられてきた。だから多少、耳が痛くても、そう言ってくれる友だちを大事にしたほうが良い。
人生は思い通りにならないことばかりです。僕だって、挫折の繰り返しだった。でも、だからこそ若い人には、“しなやかさ”と“したたかさ”を持っていてほしい。つまり、柔軟性と強さですね。以前は、しなやかさと“たくましさ”と言っていたのですが、それだと単純に打たれ強いだけの印象なので(笑)。もう少し戦略的な強さをイメージして“したたかさ”と言うようにしています。そして一方で、謙虚さを忘れないことですね。僕も若い頃、テレビの賞を何度か受けて、『オレがいなければ番組は成立しない』なんて思い上がったことがあった。でも、干されてみると僕がいなくても成立するんですよ、ちゃんと(笑)。
誰でも悩みはあります。でも悩むことはいいことだ、と僕は伝えたい。悩むから、それがパワーになるんです。悩まないというのは、同じことをし続けるということでしょう。それではマンネリ化してしまう。悩むから新しいことを思いつくんです。新しいことをやろうとするんです。若い人に特に言いたいのは、失敗を恐れるな、ということです。失敗はいくらでもすればいい。失敗は肥やしになるんです。一番やってはいけないのは、新しい挑戦をせず、同じ毎日をただ繰り返すことです。ちょっとでも前進しようと常に考え続けてほしい。人間は一回しか生きられない。同じことの繰り返しでは人生はもったいないですからね」(了)
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取材・文:上阪 徹/写真:上原 深音
(2008年12月22日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
田原総一朗 たはらそういちろう
ジャーナリスト
「朝まで生テレビ!」などの討論番組で政治家や評論家、アナリストたちから、本音を引き出す名司会者としておなじみ。あらゆる時事問題を対象にマスメディアの最前線で精力的な活動を展開し日々、テレビジャーナリズ…
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