読む講演会Vol.12
2017年11月15日
No.12 佐々木常夫/“読む講演会”クローズアップパートナー
目次
長男が自閉症。妻はうつ病で自殺未遂、入退院を繰り返す
まずは経歴です。長く東レに務めていまして、定年退職しました。企画や管理の仕事が中心でしたが、普通のサラリーマンでした。2003年、東レ経営研究所の社長になりました。東レにいたときけっこう忙しかったんですが、社長になったらヒマになりました(笑)。社長はいいですよ。部下に仕事やらせたら、自分の時間を見つけられます(笑)。
それで、出版社の社長に頼まれて本を出しました。『ビッグツリー』という本です。これが、けっこう評判になって、テレビや新聞、雑誌の取材がたくさん来ました。
私には子どもが3人います。一番上の子が、自閉症という障害を持って生まれました。自分の関心あることはやるが、それ以外のことはやらない。まったく社会性がない。
学校では、トラブル続きでした。幼稚園は2カ月で退園。先生が面倒見切れない。小学校もトラブルが多発しました。しょっちゅう呼び出されて、PTAは毎月のように出ていました。
赤ちゃんのときは、普通でした。まったくわかりませんでした。3歳半になって、自閉症じゃないかという診断がなされました。子どもは長男、次男、長女と生まれたんですが、1歳違いの年子なんです。
自閉症の上の子が3歳のときは、下が2歳と1歳。ずっとこれが続いていくわけですね。家の中は戦場でした。妻だけでは、とても子育てはできず、私も当たり前のように手伝っていました。
長男の小6の運動会の写真が残っています。彼はよーいどんと言っても走りません。まわりの風景を眺めてゆっくり歩き出します。学校には障害のことも言っていましたが、それなりにみんな仲良くやっていくようになりました。
しかし、中学入ると、いろいろなことが起き始めました。イジメがあったり、不登校があったり。高校も、ひどい成績でした。ただ、彼は意味のないものを覚えていくクセがあるんですね。それで教科書を全部、暗記しちゃった。学校の成績は跳ね上がりました。 これで、なんとかなるかな、と思ったんですが、高3のときに幻聴が聞こえ出しました。けっこうきつい幻聴で、やっとの思いで高校を卒業しました。
いまだに幻聴があります。それで週に3回、施設に通っています。ずっと面倒をみないといけません。
続いて、パートナーの話をします。1984年に急性肝炎で3年ほど、ほとんど入院生活を送りました。1997年には、肝硬変とうつ病のために3回入院しています。以降、1998年から年に5回、4回、5回、8回、6回、5回。合計40回くらい入院しています。1回だいたい1カ月半ですから、一年の半分くらい入院していたこともあります。
うつ病とわかったのは、2000年頃でした。自殺未遂をしたんです。次の年にも、2回、自殺未遂をしました。最後の自殺は、普通なら死んでいました。たまたま娘が見つけて、私に電話をかけてきたんです。お母さんが大変なことになっているからすぐ帰ってきて、と。
奇跡的に助かりましたが、さすがに私も、これで人生半分終わったかという絶望感の中にいました。この人は、今日助かっても、また明日やるかもしれない。すでにもう3回、自殺未遂をしている。私は仕事があります。24時間、見張るわけにはいきません。いずれ、この人は死ぬと思いました。
毎日、会社から定時に帰ることができた理由
そもそも、なぜうつ病になってしまったのか。一つは、自分の責任で障害の子どもを作ってしまった、という思いです。彼女の血液型はA型、典型的なA型でした。完璧主義なんです。
家の中はいつもきれい。料理は手を抜かない。そこにプライドがあったわけですね。ところが、そういう人が何もしないでただ病院で寝ていなければならなかった。障害の子どもの面倒を見られない。自分なんて、いないほうがいい。離婚したほうがいい。死んだ方がいい。そんなふうに自分を責めたんです。
東レに入って最初は、大阪で18年間過ごしていました。ところが、1987年から東京、大阪としょっちゅう行ったり来たりするようになったんですね。
同じところに3年いたことがない。彼女は、ここでたくさん入院するんです。長男が入院していたこともありましたから、午前中も午後もお見舞い、なんてこともありました。
では、この苦境をどう乗り切ったのか。1984年から3年間、パートナーはほぼ病院生活だったわけです。子どもまだ小さかった。私は毎朝5時半に起きて、子どもたちの朝食と弁当を作りました。
この年、私は課長になっています。部下より1時間早く会社に来ていました。みんなが出てくる前に自分の仕事のダンドリを決め、あとは一直線に仕事をして、夕方6時には会社を出るんです。
家に着いて食事をさせ、宿題をさせて、食事をさせます。土曜日は病院に見舞いです。週1回だけですから、なるべく長い時間いてやりたかった。日曜日は1週間分の掃除洗濯、買い物です。
会社の仕事は、できるだけ徹底的に効率的にやるしかありませんでした。部下にいつも言っていたのは、ビジネスは予測のゲームだ、ということです。これが起こったら次に何が起こるかを予測して、先手先手で仕事をしなさい、と。私がこれを実践していました。
実際、毎日のように定時に帰れていました。どうしてか。その年に課長になっていたからです。組織の責任者は、どんな仕事をどうやるか、自分で決められます。これが責任者じゃなかったならそうはいかない。上司の指示に従わないといけないし、許可を得ないといけない。
だからよく言うんですが、ワークライフバランスとか、働き方改革をしようと思ったら、早く管理職になることです。そうすれば、ラクになります。
あれだけ入退院を繰り返した我がパートナーでしたが、実は2003年以降、一度も入院していません。私が東レ経営研究所の社長になった年です。社長になったとき、私は会社の仕事のやり方は私に従ってもらう、と宣言しました。
つまらない会議はやらない。極力短くする。資料は簡潔に。ビジネスは予測のゲーム、先手先手で仕事をやる。忙しいときの残業は仕方がありませんが、通常は全員定時で帰る。それを前提で仕事を組み立てる。
パートナーから1日3回、携帯に電話がかかってきました。不安を訴えるわけですね。東レにいたときは帰れませんでしたが、今度は社長です。やりくりして帰ることができました。それで3回続けて帰ったら、「もう帰ってこなくていい」と言われました。
彼女にしてみれば、もう7年も8年も一度も帰ってこなかった旦那が、3回も帰ってきたわけです。毎日、早く帰ってくる。
自分をサポートしてくれるという安心感が彼女のうつ病を治してくれたようです。
私は自分の家族のために自分の時間を確保しないといけなかった。みなさんも一緒ですよ。いい映画を観たい、本を読みたい、自己啓発の勉強をしたい。いろいろやりたいのにできない最大の障害のひとつは、長時間労働と非効率労働です。
仕事の成果と長時間労働とは必ずしも関係ありません。あるのは、一般の人は自分の脳の能力の6%しか使ってない、という事実です。94%の脳細胞は寝ている。この脳細胞を叩き起こして、戦略的効率的な仕事をしていかないといけないんです。
デッドラインを決めて自分を追い込んで、ダラダラ仕事をしない
最近、安倍内閣は働き方担当大臣を決めて、日本人の働き方を変えようという動きが出ています。電通事件を契機に働き方改革の機運が盛り上がっている。
ワークライフバランスとは、日本語訳で仕事と生活の調和と訳せます。しかし、自分の仕事を定時に終えて自分の生活を充実しよう、ということではありません。個人も会社も共に成長する経営戦略です。
8、9時まで残っていたのが定時に帰るようになったとしても、かつてと同じかそれ以上の結果を会社に残さないといけません。ワークライフバランスは、仕事の改革があって初めて実現できる経営戦略です。
課長になったとき、仕事の進め方の基本10箇条というのを部下に発信しました。毎日のように言い続けて、次の職場でも言い続けました。38歳で課長になってから、東レ経営研究所の社長をやめるまで20数年間、毎日同じ話をしてきました。
私は、よい習慣は才能を超えると思っています。少々能力がなくても、よい習慣を持っている人は毎日成長していって最後は人を抜いていきます。
仕事は絶対に計画的でなければなりません。私は一年の初めに部下全員と2日間くらい議論をして、今年やるべきことを決めます。例えば、プライオリティの高いものを10個決めたとしましょうか。決めたら、やらないといけない。
それについて上司に報告し、上司の意見を聞きます。上の方は違った考え方を持っていることもあります。計画を修正します。一年経ったらフォローアップします。どれだけできたか、なぜできなかったのか、どうしたらできたか。そして、次の年の計画を立てます。
1カ月の計画を立てる。1週間の計画を立てる。毎週です。私は会社に行く途中、電車の中で今日一日の計画を立てます。9時に何をやるか、10時に何をやるか、12時に何をやるか。
普通は会社に行くととりあえず仕事、です。気が付いたら夕方。できてないから残業しよう、となります。私は、デッドラインを決めて追い込め、と言っています。この仕事は午前中に片付ける。今日中に片付ける。自分でデッドラインを決めて自分を追い込んで、ダラダラ仕事をしない、ということです。
仕事は最短コースを選びます。重要な仕事はフォローアップを徹底することで次のレベルアップにつなげていきます。経験することが大事なのではありません。経験を振り返って内省することによって、経験は識見に変わっていきます。
仕事は、頑張りました、努力しました、では済みません。結果を出さないといけない。結果で評価されるんです。
シンプル主義。物事が分かっている人の話はわかりやすくて簡単ですが、わかってない人の話は長くて複雑です。社長になったとき、毎週月曜日に朝礼をしていました。2人ずつ3分間スピーチをする。最初は、なかなか3分で終わりません。6分、また次も6分。いずれも落第です。
ところが3カ月、全員3分で話せるようになっています。習慣とはそういうものです。6分話すのは簡単。でも、3分は難しい。資料も短くするのは難しい。でも、会社の事務処理、管理、制度、資料、会話、メール、シンプルを持って秀とする、と言いました。
整理整頓する。整理整頓は仕事のスピードアップにつながります。
常に上位者の視点を持つ。課長には課長教育をするのではなく、部長教育をします。その人がその立場になったとき、すぐその仕事ができるようにするためです。一つ上の視点で仕事を見ると、風景が変わってきます。
自分の考え方をきちんと持つ。自己研鑽につとめる。自分を大切にする。自分を大切にすることは、人を大切にすることにつながります。
タイムマネジメントは時間の管理ではない。仕事の管理である
『ビックツリー』を書いたとき、これは最初で最後の本だと思っていました。ところが、4年経ったら出版社の社長がまた来て、仕事術の本を書いてくれ、と言いました。
私は、ウイークデーは仕事をしていますので、土日に書きます。そうなると本も読めないし、映画も見られないから、いやだと言ったんですが、土日を使って6週間で書きました。ビッグツリーは6か月かかったのに、です。
ビッグツリーは、何年何月何やったか、調べないといけませんでした。しかし、仕事術の本は20数年間、会社でやってきたことを書くだけです。あっという間にできあがりました。これならもっと早く書けば良かった、と思いました。『部下を定時に帰す仕事術』です。
これが15万部出ました。ビジネス書というのは、コンサルタント、大学の先生が書くケースが多い。しかし、実際のビジネスパーソンが書いたものでないと、役に立たないものも少なくない。
タイムマネジメントで最も大事なことは、「大事なことは何か」を正しくつかむことです。会社の仕事はピンからキリまであって、雑用もたくさんある。大事じゃない仕事は拙速にやって、肝心要の仕事を完璧にやる。タイムマネジメントは時間の管理ではありません。仕事の管理です。
新聞を読んでいたら、学校の先生の労働時間が出ていました。8割くらいの人が1日11時間を超えていました。OECD平均の3割くらい多いんですね。
ある方が、どうして日本の学校の先生の労働時間が長いか分析しました。結果、部活と会議と資料づくりだということがわかりました。子どもと向き合う時間はOECDの平均より短いんです。
教育で最も大事な仕事をないがしろにしていて、それほど重要でない仕事に忙殺されて、疲労困憊している。これが日本の先生の姿です。
私は企画の仕事をしてきました。仕事のやり方は、会社によって、職種によって違います。ですから、誰にでも当てはまることとして考えないでいただきたいと思います。あくまで、私がやってきたこと。それを、咀嚼して聞いてください。
この本『部下を定時に帰す仕事術』の3本柱は、計画、効率、時間を増やしなさい、なんです。まずは、計画を先行させる。戦略的計画立案は仕事を半分にすると思っています。同じ仕事をやっても、2週間かかる人と1週間で済ます人がいます。それは能力の差ではない。能力が2倍違うわけがないんです。その仕事の重要度をどう評価しているか、ということとダンドリの差です。
私が課長になったとき、最初にやったことは、部下13人、過去1年間にどんな仕事にどのくらいの時間をかけたかを分析することでした。
私の課は1週間経つと、今週何と何をやりました、と業務報告をする習慣がありました。それを1か月単位で、だいたいでいいから書いてごらん、と言いました。そうやって、抱えた仕事の重要度ランキングを作りました。5段階評価で、大きな紙に書き出していった。長い時間をかけているものほど、大事な仕事になるはずです。
ところが、例えばAくん。私から見たら重要度ランキング2か3の仕事を2週間かけてやっていました。こんなの5日の仕事だろう、と思うわけです。部下は反論します。でも、会社の仕事というものをわかっていないんです。
社員はものすごく大事な仕事をやっていると思っている。上の人はそれを指摘しません。モチベーションが下がるからです。すると、過剰スペックの仕事になる。本当は手書きでさっと書いたものを渡せばいいのに、パワポにしてしまったりする。その瞬間、5倍の時間がいります。
すべての仕事にかけるべき日数で計算してみたら、実績の40%でした。この仕事を何日間でやると決めて、その通りやったとすれば、4割で済んだということです。会社の仕事は、やってみないとわかりませんが、だいたい半分になると思います。適切な計画さえつくれば。
私の課はそれまで、月平均一人60数時間残業していました。私は言いました。君たち、残業どころか毎日4時に帰れたよ、と。そのために、私に業務計画書を出しなさい、と言いました。この仕事は重要度ランキングいくらだから何日間でやります、と。
私は、その計画書を承認するか、修正指示を出します。そうすると、これ、やらんでいい、というのが2割くらいありました。3週間というが1週間でやりなさい、と命じることもありました。部下に仕事を発注するわけです。部下は受注する。
こういうやり方に切り替えたら、60数時間の残業は、0にはなりませんでしたが、ヒトケタになりました。一人平均60時間のカットです。
立ち止まって戦略を練っていれば、残業することなかった
30代の始めに、つぶれかかった会社の再建に行ったことがあります。ワークライフバランスどころか、当時はウイークデーは最終電車 土日もほとんど出勤でした。残業時間は100時間を超えました。
会社がつぶれそうだったわけですから、仕方がなかった。3年経って、黒字になって企画部署に戻りました。それで、3年間の仕事を振り返りました。恐ろしいほど無駄なことをやっていたことに気づきました。
仕事は次から次に出てくるわけです。それを、片っ端からやってしまった。ちょっと立ち止まって戦略を練っていれば、何もあんなに残業することなかったんです。
東レに戻って最初にやったのは、書庫の整理です。企画の仕事は書類を作るのが仕事。書類が大事なんですが、先輩が作ったたくさんの書類が入った書庫に、経営会議の資料、開発会議の資料があった。作業着に着替えて書庫に入って朝から晩まですべての書類を読みました。1カ月かかりました。
半分、書類を捨てました。残すべき書類はカテゴリー別に、重要度のランキングをつけてファイルリストを作りました。
机に戻りました。仕事が来ます。会社の仕事というのは、同じことの繰り返しなんです。誰かがどこかで同じようなことをやっている。仕事を言われたら、あのファイルとあのファイルとあのファイル、3つを取り出してきて、考え方、フォーマット、着眼点をいただく、ということができるようになりました。
最新のデータに置き換えて自分のアイディアを載せる。こうすれば、仕事が速くできるに決まっています。経営会議の仕事にしても、途中で落第したような資料は残っていません。最後の一番優れた作品を使う。
それを使っているわけですから、仕事ができるのは当たり前です。しょうもない頭なんて使わず、先輩の優れた作品を盗めばいいんです。優れたイノベーションより、優れたイミテーションです。これを繰り返すことによって、優れたイノベーションになるんです。
他にも、いろんな自分なりの取り組みをしていました。仕事は発生したその場で片付ける。ニューヨークからの出張レポートは、帰りの飛行機で書いてしまう。
やらなくていい仕事はやらない。国際会議のトップの挨拶を頼まれたら、過去にどんな挨拶があったか調べてみる。いいものは、いただいてしまえばいい。 詳しい人に聞きに行く。営業経験がないのに営業課長になったとき、私がやったのが、社内の営業の神様と言われている人たちに会いに行ったことです。いろいろ教えてもらえたばかりでなく、メンターにもなってもらえました。
会議に出ない、人に会わない、書類を読まない。後で議事録でも読めばいい会議は出ない。どうしても出ないといけない会議は、早く言って目立たない席を選んで内職をする。人から会いたいと言われても簡単に会わない。時間を取られるからです。電話で済むものは済ませる。
上司との付き合い方は最重要課題。ビジネスマンにとって大事なのは上司。自分の評価、異動を決める人とは丁寧につきあわないといけない。上司のスケジュールを詳細にチェックにして、2週間に1回、一番上司が暇な時間帯に30分のアポイントを入れるようにしていました。
必ず事前に文書で出します。報告事件3件、相談したいこと2件。人間、予告編が来ると落ち着くんです。これ繰り返すとどうなるか。30分が20分、15分になっていく。上司は私の仕事の内容をよく理解し、私が持って行きたい方向に上司を誘導できる。自分の仕事が、やりやすくなる。
2段上の上司にも、これをやる。課長なら部門長、局長、取締役。上司の役割は、評価と異動ですが、2段上の上司は、それをひっくり返してくれる人。嫌な上司を飛ばしてくれる人。こことうまくやらないといけない。どうやるか。ぜひ、私の本を読んでください。
効率化の一方、部下とのコミュニケーションには時間をかけていた
仕事術の話のあと、課長の本を書いてくれ、と言われました。こっちのほうが売れました。20万部売れました。『そうか、君は課長になったのか。』。もう1冊書いてくださいと言われて書いたのが、『働く君に贈る25の言葉』。人は自分を磨くために働く、なんて第1章の本。売れない本だと思ったら、もっと売れた。
私のリーダーの定義は、その人と一緒に仕事をしていると、勇気と希望をもらえる、ということだと思っています。そういう人は、若い人でも、女性でも、どこにでもいるんです。
自分は何物であるか、どういう生き方をしたいのか、どういう働き方をしたいのか。それをしっかり決めないといけない。まわりもそうだから自分も染まるとどこかで後悔する。自分の人生ですから。
なので、節目節目に、例えば30歳になったとき、課長に昇進したとき、自分に問う必要があります。私は、40歳のときから毎年1回、自分に問うことに決めたんです。
一年で一番暇な時期、年末年始。今年はこういう考え方でこういう仕事をするぞ、という業務方針を立てるんです。
1枚の紙に書きます。A4にちょうど入るくらい。これを1月4日に出社したら、部下全員に発信します、上司にも出します。
一緒に仕事をする仲間ですから、私の考え方を理解し、共有してもらわないといけない。自分の考え方を人に伝えるというのは、責任が生じることです。これ、毎年やったらどうなるか。去年何を考えたか、わかるんです。3年前、5年前もわかる。成長の軌跡がよくわかるんです。
ビジネスマン時代を通じて最も自分が成長したのは40代でした。20代、30代は、成長角度は高いんですが、経験が足りない、知識も少ない。まわり道もするし、ミスもする。40代は管理職。自分でやる必要はない。部下を使えばいい(笑)。
40代はしなやかに生きなさい、と言っています。なるべく部下に仕事をやらせ、自分の時間を見つけ、人に会ったり、本を読んだりするのも大事です。
ただ、私が異動すると、その組織はあっという間に元の木阿弥になります。次のリーダーがやらないから。異動するたびに元の木阿弥。会社は変われないんです。一人や二人が動いても。
私は仕事の効率化の話をしますが、むしろ時間をかけることを意識していたことがあります。課長をやっていたとき、春と秋に部下と面談を持っていました。会社は年1回でいいと言いましたが、2回やっていました。
一人2時間かけました。最初はプライベートなことを聞く。お父さんお母さん、家族はどうしてる。彼氏はどうした……。部下は自分の家族みたいなものです。家族のために何かできないかという気持ちが相手に伝わり、かつ彼らが私に言った言葉はどこにも漏れない。そういう信頼関係があったら、いくらでも話をしてくれます。
その話を聞いてから、仕事の話です。部下は仕事をする前にいろいろ事情を抱えています。それを理解してやらないといけない。50代半ばのとき、昔の部下の女性から年賀状をもらったことがあります。その中に、あの頃の佐々木課長との面談が待ち遠しくて、楽しくて、懐かしくて、と書いてありました。
仕事の効率化は大事ですが、効率化との両輪はコミュニケーションと信頼関係なんです。信頼関係があれば、私が変なことをしようとするとすぐ部下が止めてくれます。
50歳からの人生を充実させていくために大切なこと
50歳からの生き方を考えるときには、自分の人生を振り返ってみることが必要だと思います。東レには48歳でリフレッシュ研修があります。3日間、カンヅメで研修を受ける。退職金がいくら出るか、老後に何が待っているか。受ける人たちは、それまでそんなことを考えたこともない。年金制度はこうなっているのか、と初めて知る。本当はもっと早くやっていいと思います。45歳くらいでもいい。思うのは、人生を一度、棚卸ししてみたらどうか、ということです。
40代の後半からは、仕事を楽しむ境地を得る、ということが必要です。20代、30代は、プロになるために懸命に働かないといけない。40代からちょっと余裕を持たないといけない。余裕をもつことで仕事を楽しむんです。
いいところを見せたい、という気持ちを捨てる。自然体で行く。肩に力を入れず、かっこつけない。己の信頼残高を確認する。相手にどのくらい信頼されているか評価する。自分の性格を冷静かつ客観的に把握する。自分の性格は意外にわかっていないんです。だから、まわりに聞く。
何が起きてもあっそうと笑う。人生、いろんなことがある。だから、いちいち驚かない。そういう習慣をつける。
タテではなく、ヨコで生きる。タテは上司と部下、親と子。これをヨコで考える。私は30代から、部下もさんづけで呼んでいました。子どもも、中学からは大人として扱いました。これが人間関係を良くする。相手を認めて評価するんです。
戦略的ライフスタイルとして、健康第一。酒の付き合いはやめる、減らすこと。無駄な酒の会は山ほどあります。間引かないといけない。
日本経済を知るためにも投資をしてみる。株を買う。ちょっとだけやる。私も30歳くらいからやっていました。慣れてきて儲かったりしました。
新聞は読むなと言っています。眺める。経済誌も同様。じっくり読む時間などありません。まず、どんな記事があるとざっと見ていく。読む場所を2、3カ所決める。あとはタイトルを見るだけ。大見出し、小見出しを見るだけで、世間で何が起こっているかがわかります。読む必要はありません。本も気をつけて読みます。多読派に仕事ができる人はいない、とはいつも言っていることです。
100歳に向かって夢を持つことです。ちょっと手を伸ばせば届く、ちょっと上の夢を具体的に描くことが大事です。囲碁で初段を取る。日本の名城100カ所、全部行く。四国巡礼88カ所のうち半分は行く。何でもいい。
若い世代の流行に関心を持つことも若干は、必要です。おしゃれ、身だしなみ。
それから、座右の書を持つ。持つというより、持ってしまう。私の場合、10冊くらいある。人生の書です。
人知を超えたものを見に行く。かつて仕えた社長は私に、人生で驚いたこと3つを教えてくれました。エジプトのルクソール、ヒマラヤ、即神仏。生きながらにして埋められたお坊さん。お前も一度、見てこい、と。背筋が寒くなるくらい驚きました。
絵でも、彫刻でも、音楽でも。人知を超えたような素晴らしいものを経験することは大事です。
そして、運命を引き受けること。パートナーが何度入院しても、私は離婚する気はありませんでした。私は6歳で父を亡くしています。母は19歳でお嫁に来て、4人の男の子をもうけ、27歳で未亡人になりました。
父の代わりに働きに出て、子ども4人を大学まで出しました。でも、彼女は一度たりとも愚痴を言ったりすることはなかった。いつもニコニコ笑っていろんなことを語ってくれました。そんな彼女がいつも言っていたのが、この言葉です。
「運命を引き受けよう」
頑張っても結果は出ないかもしれない。でも、頑張らないと結果は出ないよ、と。私にも、いろいろなことが起きました。でも、とても幸せです。
(文:上阪徹)
佐々木常夫
株式会社佐々木常夫マネージメント・リサーチ代表
秋田市生まれ。6歳で父を亡くし4人兄弟の次男として母の手ひとつで育つ。自閉症の長男とうつ病の妻を持つ。肝臓病をも患う妻は20年の間に43回もの入院、3回の自殺未遂を起こす。育児、家事、介護に追いかけられる状況の中で、破綻会社の再建やさまざまな事業改革に取り組む。2001年、同期のトップで取締役就任。2003年東レ経営研究所社長に就任。その著書『ビッグツリー 私は仕事も家族も決してあきらめない』が反響を呼び、さまざまなメディアに取り上げられ、2011年ビジネス書最優秀著者賞を受賞。
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