目次
銀座で双子の妹と共に会員制クラブ「ふたご屋」を経営するますい志保さん。15年目を迎えた今や4店舗にまで拡大。メディアにも多数登場し、作家としても著書『いい男の条件』が30万部を超えるなど華やかな活躍で知られている。しかしここにたどり着くまでの道のりはまさに「波乱万丈」の一言。家族の“解散”、夜学から名門大学へ進学、そして首席卒業、銀座デビュー、ギリギリの状態からの独立・開業…さらに突然つきつけられた子宮体がんによる「余命半年」の宣告…。一体、「ターニングポイント」がいくつあったのか…というほどの人生を送られてきたますいさん。凛としたたたずまいに隠された、どん底からの成功哲学、ターニングポイントとは…?
ドヤ街からの大学受験。昼間の学校で学ぶ夢
「父は神奈川県の県会議員でした。議員というのは選挙に落ちればただの人なんですね。私も子どもの頃から選挙運動を手伝うのが当たり前でした。3歳でマイクを持ち、5歳で土下座して、7歳で選挙対策本部に入って。でも、父親はあまり家庭的な人ではなかった。結果的に家庭は壊れていくんです。私は鎌倉生まれで地元の名門女子中に通っていました。13歳でタレントのスカウトを受けたんですが、厳しい学校でしたので、男性誌のグラビアに出たことが大きな問題になってしまって。結局、同じ系列の女子高には進めませんでした。その頃は兄の家庭内暴力もひどく、結局、父が選んだのが、家族の“解散”でした。私は15歳で家を出て自活することになりました。タレントとして、CMにも出ましたし、テレビや映画にも出ました。でも結局、芸能界では泣かず飛ばす。だんだん仕事が減り、18歳で事務所をやめることになります。とはいえ、生活をしていかないといけませんから、ドヤ街(※)に住みながら、エスカイヤクラブでバニーガールの仕事をしていました。そして仕事をしながら、法政大学の夜間部に通うんです。

【明治大学文学部を首席で卒業。母校が発行する雑誌にはOGとして巻頭インタビューで登場している(08年10月号)】
授業が終わるのは夜遅いんですね。法政のあった市ヶ谷近辺は桜がきれいだったんですが、私たちには夜桜しか見られないんです。明るい陽の光の下で桜が見られる学生になりたい。それが夢でしたね。それから、大学ではどうしてもフランス文学を学んでみたいと思っていました。サン・テグジュペリの『星の王子さま』から始まり、子どもの頃から文学が好きで、サルトルやカミュを好んで読んでいましたから。授業が終わると、教壇に駆け上がって、いつも先生に質問をしていました。法政の二部で首席になると、一部に転部できるというお話を頂いたんですが、法政にはフランス語が学べる学科が無かった。そこで二年次から明治大学への編入を選ぶんです。後で聞いた話ですが、ドヤ街からの編入受験の申し込みには大学内でも驚きの声があったそうですよ。そして試験の小論文を私は独学で学んだフランス語で書いたんです。面接では『夜学にこんな優秀な生徒がいるなんて考えられない』と言われました。合格したときは本当にうれしかったですね」
[※「ドヤ街」…日雇労働者向けの簡易宿泊施設(ドヤ)が集まった場所の俗称。横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎(あいりん地区)、東京の山谷が有名)]
「自分にはできない」と思ったホステスの仕事
――――大学に入学した18歳から、夜の銀座で働き始めていた。きっかけはスカウトだったが、意外にも当初は「自分にはできない」と思ったという。だが、生活費と学費を稼がなければいけない。昼間、授業がある明治大学に通い始めてからは、土日の昼間も別の仕事をして働いた。生きていくために必死の一方で、勉強にも全力投球した。
「街を歩いていると声を掛けられたんです。銀座で働いてみませんか、と。でも、男の人の横に座ってお話するなんて絶対にできないと思っていました。バニーガールは飲み物などを届けるだけでしたからね。でも、座るだけだから、と言われて。ちょうど直木賞作家でもある山口洋子さんが店を持たれていて、働くなら彼女のところで、と思いました。面接で『何ができるの』と聞かれて『語学ができます』と言ったら、その場で採用でした。私は英語とフランス語ができましたから。ただ、始めてみるとやっぱり大変なんです。今はもうありませんが、昔は先輩との上下関係もとても厳しかった。私が先に帰るなんてありえないわけです。初日にお客さまから、『終わった後に何が食べたい?』と聞いていただいて、私の頭に浮かんだのは『カレーライスと焼きそば』(笑)。そういう生活を送っていたわけです。でも足元で先輩からゾウリキックが飛んできて(笑)。やっと出たのが『おでん』。銀座の有名な店で先輩と一緒におでんをいただくと、帰り際に先輩に叱られまして。どうして寿司と言わないのか、と(笑)。でも当時の私には寿司なんて夢の食べ物だったんです。
そうやって、お店が終わるとお姉さんたちの鞄持ちをして食事についていって、全員を家に送り届けると私の仕事は終わりました。いつも朝4時、5時でした。そこから家に帰ってしまっては、大学の授業が始まる時間にはとてもじゃないけれど起きられない。だから、そのまま朝6時頃に大学に行っていました。授業が行われる場所が張り出される掲示板の前で、よく眠りこけていましたね。その後は、お客さまで銀行から独立して不動産会社を興された方がいらして、私は宅地建物取引主任者の資格を取って土日はそこでも仕事をしました。当時、映画『マルサの女』がはやっていて、国税専門官に憧れたりした時期もあったんですが、結局、銀座に就職することを決めるんです。6年も経験を積んでいたし、バブルがはじけて独立のチャンスが出てくるかもしれない、と思ったからでした」
銀座から激しくバッシングを浴びた独立
―――銀座に“就職”して2年、それまで商社に勤めていた双子の妹・さくら氏と共に「ふたご屋」を開店、念願の独立を果たす。バブル期には出店に億単位の費用が必要だったが、バブルは崩壊。銀座にも厳しい時代が押し寄せ、差し押さえられた物件が安値で出始める。開業資金は、何かのためにと18歳からコツコツ貯めていた500万円。とはいえ、ギリギリの開業だった。
「物件は12坪の小さな店。でも、ベランダがあって、“気”の流れがよくて、ここにしようと決めました。スタッフは私と妹の2人だけ。現金とクレジットカードだけが使えて、売り掛け、いわゆるツケはなし。それまでの銀座にはなかったスタイルでしたが、ギリギリの資金での開店でしたから、そうするしかなかったんですね。そもそも、この世界で自分が嫌だと思っていたことは全部やめました。同伴、ノルマ、強制、罰金、そして売り掛け…。ホステスのリスクを減らせば、かわいい女の子が集まってくれると思いました。そして価格帯をちょっと抑えた。それまでの銀座にはないような店にしようと思いました。でも、銀座じゅうからは大バッシングでしたよ。しかも、クレジットカード会社の審査がおりない。私は全カード会社の社長宛に手紙を書きました。すると、大手カード会社の社長が目に留めてくださって。父の湘南高校時代の同級生だったんです。父は3人兄弟だったんですが、全員が苦労をしながら東大を出て、父の兄は2人とも官僚になりました。この家の娘なら大丈夫だろうと。1社が決まるとすべてOKに。それがなんとオープン当日でした。
私は銀座に骨を埋めるつもりで店を始めました。なんとなくこの世界で生きている人も多い中で、覚悟があったし、真剣でした。それにお客さまも応えてくださったのだと思います。しかも店のスタッフもすばらしかった。幸運にもマスコミにたくさん取りあげてもらえて。もちろん努力はしましたが、実力以上のものが出たと思います。当初は店が狭くて、通路や廊下か外のベランダ、非常階段までお客さまに座っていただいたこともありました。本当にみんなに大きくしてもらったと、そう思っています。ずっと苦しい時代を生き抜いてきましたから、多少つらいことがあっても、苦しいとは思いませんでした。むしろピンチはチャンスに転換できると思ってやってきました。ドヤ街から出てきましたから、根性が違うんです(笑)。ただ、唯一揺らいだのは、あの病気のときだけでした」
【ターニングポイント】余命半年と言われたガンとの戦いで気づいたこと
――――2003年、テレビの収録中に倒れ、病院に運ばれる。医者からの宣告は衝撃的なものだった。「子宮体ガン」で余命半年。それまでも、体調がすぐれない日が続いては病院で検査を受けていた。だが、病巣はなかなか見つけられない場所にあったのだ。
「それがどういう病気なのか、自分でもインターネットで調べました。生存率も厳しい状況でしたが、リハビリも厳しいと書かれていて。『一生懸命に生きてきたのにどうして?』という思いもありました。でも、自暴自棄にはならずに済んだのは、毎週の闘病記の連載があったからかもしれません。自分の生い立ちから、生きてきた考え方、こんなことはたぶん普通は書いたりしないだろうということも、包み隠さずに書きました。もう最後かもしれないんだから、何を書いてもいいだろうと。
連載が掲載されていたのは女性誌。読者は普通の女性です。どんな反応が来るのか予想できませんでした。私はドヤ街から出てきて、ずっと夜の世界で生きてきた人間です。彼女たちとはまったく違う。ところが、中高年の女性読者から、たくさんの支援と共感をいただいたんです。甲子園に出られるんじゃないかと思うほどの千羽鶴も病室に届きました。銀座のママも、普通の一人の女性として認めてもらえたことが本当にうれしかった。。女性として、みんなと変わらないんだ、と自分で思うことができたんです。
診断は、ガンのステージでいうと『3期のC』。末期の手前という厳しい状況でした。ガンの場合、詳しい状況は、手術で患部を開けてみないとわからないんです。私の場合もそう言われました。腹水に血が混じっていたら、転移している。開いてみると、混じっていました。それで手術の後半は摘出に移って。一か八かの手術でした。術後は6回の抗ガン剤治療。さらにホルモン治療とリハビリが続きました。
私自身、それまでの人生が逆境の連続です。勝てる可能性が残されているのなら、前向きにベストを尽くすしかないと思っていましたね。たとえ全力を尽くして負けたとしても、『明日に繋がる負け方』をしていれば、実は勝ち続けることと同じだと思うんです。それは病気も人生も同じではないでしょうか。
それから、真っ白な病室は何もなかった。だから、『退院したら、あれをやろう』、『これをやりたい』という事ばかりを考えていました。そのおかげで気持ちが前に向きましたし、元気になっている自分のイメージが膨らみましたから。どんな状況にあっても夢を描くことは大切だと改めて実感しましたね。そうしてまた、この銀座へ戻ってくることができたんです」
ますい志保からのメッセージ
「まず一歩を踏み出してみてください、ということです。夢に対して、あるいは目標に対して。もちろん思い描くことも大事。自分が思わなかったら、それが叶うはずはないんです。ましてや第一歩を踏み出さなかったら、それが現実化することはない。夢や目標を描き、それを行動に移してみることが大事なことだと思います。もしかするとその夢や目標の達成は、とんでもなく遠いところにあるもののように思えるかもしれません。とんでもなく高い壁に思えるかもしれません。でも、だからといってあきらめたとしたら、夢や目標はそこで終わりです。何もしないままにあきらめて終わりです。やる前からあきらめてしまう。それは、あまりにも寂しいことだと思います。
私は15歳で家を出て自活をしました。ご飯を食べられないというあの苦しみを、今もよく覚えています。ご飯に困った子どもたちは、ご飯が食べられることに対する妥協は絶対にしないんです。だから目の前に何かがあったとき、必死に物事に対処しようとする。私自身は、本当にたくさんの人に育てていただいたと思っています。でも、自分でも勉強はしてきたつもりです。
私は病気になってから、生きている、というより、『生かされている』という感覚を以前よりも強く持つようになりました。今、自分がここにいられて、お店をやっていること。それは、多くの人に支えられて、生かされているんだと思っています。ですから、お客さまに、スタッフに、たくさんの人たちに心から感謝しています。当たり前のように思っている毎日を見つめ直してみると、生きることに対して謙虚になりますし、一日一日を悔いのないように真剣に過ごそうと思えるんです。どんな苦しいことも、辛く悲しい経験も、必ず何かの役に立つはず。意味があるはずだと私は信じています」(了)
取材・文:上阪 徹/写真:上原 深音
(2009年2月24日 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
ますい志保 ますいしほ
作家
神奈川県北鎌倉生まれ。夜学から編入試験を受け、明治大学文学部を主席で卒業する。卒業後は、プロのホステスとなり、1993年には双子の妹・さくらとともに、銀座に会員制クラブ「ふたご屋」をオープン。順調な経…
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