今や当たり前のようにあちこちの街角に店を構えるコンビニエンスストア。しかし、この「コンビニ」がアメリカからやってきた新しい業態としてまだまだ珍しい時代がありました。当時の事業の担い手たちは、試行錯誤しながら、この新しい業態を日本に定着させてきたのです。その一人が、元ローソン・ジャパン社長の都築冨士男さんです。
大学を卒業後、スーパーマーケット・ダイエーに入社。37歳で、ダイエーが展開していたコンビニ「ローソン」のチェーン本部のトップを務めることになりました。当時、店舗数は80店舗。会社は大苦戦を強いられていました。売り上げがなかなか上がらない、店舗数がなかなか増えない中、倒産寸前とも言えるほどの状況にあったのです。その再建を委ねられたのが、都築さんでした。関係が悪化していた加盟店オーナーとの関係構築に挑みながら、経営課題を分析。新たな仕組みを作り、コンビニらしい商品を開発し、新しい業態へとローソンを生まれ変わらせました。その結果、10年間の社長在任中に、わずか80店舗だったローソンは、全国3000店舗にまで拡大したのです。
その後、上場会社の社長にも就任。さまざまな経験をベースに、コンサルティング、企業顧問、講演活動などを行われています。そんな都築さんに、ローソン再建の事例と企業経営をテーマにたっぷりとお話をお聞きしました。
会社を清算するか、再建するか、お前に任せる
――大学卒業後にダイエーに入社されたきっかけとは、どのようなものだったのでしょうか?
学生時代は学費を稼ぐためにスーパーでアルバイトをしていたんです。朝は青果の仕入れ、昼間は商品陳列。魚をさばいて刺身にしたりもしました。大袋で仕入れた乾物を小分けにして袋に詰めたり。おかげでなかなか学校には行けませんでした(笑)。就職するときに考えたのは、小さくても将来伸びそうな会社がいいな、と。そんなときに、ダイエーを知ったんですね。当時はまだ「主婦の店ダイエー」という名前でした。1964年のことです。
スーパーといえば、スーっと出てきてパッと消えていく、と言われていた時代。それくらい生き残るのが難しい世界だったわけですが、ある新聞でこんな記事を見ました。ダイエーが安売りをしていた商品のメーカーに、安く売ってはならない、と圧力をかけたデパートがあったんですが、そのデパートにメーカーが通告した、というんです。おたくは年末のギフトでしか売れないじゃないか。でも、ダイエーは毎日売れる。しかも大量に売れる。どちらが大切な小売店か、と。そんなスーパーがあるんだ、と思いました。もしかしたら大きく化けるかもしれない。この会社に賭けてみよう、と思ったんです。
入社後は、長く商品の仕入れを担当しました。メーカーや問屋の商品を独断と偏見で仕入れる。店舗に展開していく。面白かったですね。輸入品も手がけましたし、新しい取り組みも進めました。例えば、ブラジルに出張に行ってコーヒーを買い付けて来て、日本のコーヒーメーカーの工場やガラス工場を巻き込んで、ダイエーのブランドで売る。当時は原料の調達から商品の企画、販売まで一気通貫で手がけることは珍しかった。今でいうプライベートブランドを当時からやっていたんです。
――どうしてダイエーは、あれほどの安売りができて、成長できたのでしょうか?
土地神話をうまく使った、ということが言えるでしょうね。昔は、土地価格は永遠に上がるものだと言われていました。だから、出店計画があれば、早い段階で広い土地を買ってしまう。そうすると、出店する頃には土地の値段が上がっていて、買った広い土地の一部を切り売りすると、出店費用くらいは簡単にまかなえてしまうほどでした。アメリカでは銀行は事業の収益性に対して融資をしますが、日本では担保となる土地に対して融資します。この考え方もダイエーに味方しました。土地を買うなら、とどんどんお金を貸してくれた。おかげで、ダイエーはどんどん出店を進めることができたわけです。
新規出店では、土地を買って切り売りした不動産の利益がありますから、余裕を持って事業ができる。だから、安く売れた。たくさん売れるから、たくさん仕入れると、ここでスケールメリットが生まれて、また安くできる。こうして好循環が生まれていったんです。
――どのような経緯で、ローソン再建を委ねられることになったのでしょうか?
仕入れ担当を経て、企画室や店舗を指導するスーパーバイザー制度を作り、食品を統括する責任者もやったりしました。そうやって10年ほど勤務した後、ハワイに駐在することになりましてね。ハワイは日系人がたくさん住んでいますから、日本の商品を売る専門店はよく売れたんです。そこで店舗の拡大をしたんですが、フロアの一部にテナントとしてアメリカ企業に入ってもらうことになった。その企業との交渉役を命じられたんです。といっても、やることがそれほどたくさんあるわけではない。一番大変だったのは、日本にやってくる幹部や社員の接待でした(笑)。島を一周したり、ゴルフをやったり。それはもう天国のような仕事でした。ところが2年経ったある日、ハワイに東京から電話がかかってきまして、帰国命令が出たんです。
ダイエーの競合スーパーが、コンビニエンスストアという新しい業態を手がけることになり、ダイエーも乗り遅れてはいけないと、当時の経営者達がアメリカに視察に行っていました。そこで見つけたのが、シカゴ郊外にあったローソンミルク社という大手食品メーカーの子会社でした。言ってみれば、自社の商品を売るための店舗。それがローソンでした。しかし、すべて直営ということで、コンビニ展開に必須のフランチャイズのノウハウがなかったんです。そこで、フランチャイズがわかるダイエーの担当者が初代の責任者になったんですが、事業は簡単ではありませんでした。まずは40店ほど出店をしますが、加盟店に対する不良再建問題に直面してしまいます。初期投資が大きいためにキャッシュが回らなくなり、商品代金が払えなくなってしまう事態が続出したんです。
2年後、2代目の責任者がダイエーの役員から送り込まれたんですが、根本問題を解決せずに、2年で新たに40店舗を作ってしまった。問題は拡大してしまったんです。80店の加盟店はオーナー会を作って、団体交渉にやってくるようになりました。このままでは社会問題化して、ダイエー全体のアキレス腱になりかねない、ということでダイエー創業者の中内功オーナーを中心にローソン委員会が作られ、私に3代目の責任者が命じられました。出店は1年ほどストップしていました。会社を清算するか、再建するか、お前に任せる、と言われました。毎日、アロハシャツを着ていたハワイの天国のような仕事から、いきなり、です。まさに、天国と地獄でした。
コンビニの業態を理解せず、小さなスーパーを作ろうとしていた
――なぜ再建の道を選ばれたのですか?再建のポイントはどこにあったのでしょうか?
当時、ダイエーの競合だったスーパーがすでに400店近いコンビニの出店をしていました。他の競合も苦戦しながらも出店を再開させていました。もしダイエーだけコンビニを放棄したら、これは将来に禍根を残すと思いました。しんどいけれど、再建させるしかないと思ったんです。
やらなければいけないことは、大きく2つだと思っていました。加盟店が儲からないからお金をめぐって揉め事が起きる。収益性が高く、しかも全国に展開できるような新しい業態に考え直さないといけない、ということ。もうひとつ、商品供給型のフランチャイズシステムではうまくいかない、とわかりましたから、経営指導型のFCシステムにしなければいけない、と。加盟店の経営実態が把握できる仕組みです。そうやって、新生ローソンを作ることを考えたんです。 1年かけて課題を解決し、次の5年で1000店舗、さらに次の5年で2000店舗、合計で3000店舗の出店をすることになります。
――具体的に、課題をどのように洗い出し、解決されたのですか?
儲からない端的な理由は、初期投資が大きすぎた、ということです。もともとアメリカ視察の段階で、当時の経営者達は生鮮食品がなく、加工食品中心で展開する小売り店は成り立つのか、という疑問があって、生鮮に代わるコアなものを求めてアメリカ本土を回ったんですね。そこで見つけたのが、総菜の量り売りをしたり、ハムのオーダースライスをしたりしていた当時のローソンだったんです。デリカテッセンを生鮮に代わるコアにしよう、と。しかし、デリカテッセンを手がけるためには店づくりで大きな投資をしなければいけなかった。コンビニというよりも、スペシャリティコンビニのようなコンセプトです。もしかしたら今これをやったらウケたかもしれないですが、当時では難しかった。出店立地が限定される、相当ハイレベルの消費者でなければ受け入れられないような業態だったんです。ところが、まだみんな魚肉ソーセージが当たり前だったようなエリアに、次々に出店してしまった。結果的に、不振店になってしまったんです。
だから必要だったのは、難しい立地でも成り立つ業態であり、大きな投資をしなくてもできる仕組みを作り上げることでした。デリカテッセンをやめ、おにぎり、弁当の開発をしてコアにあてることにしました。バックヤードを合わせて70坪を要していたスペースも、配送頻度を高めたり、商品を小分けすることによって30坪程度にできるようにしました。さらに、本部がまず直営をして、その後、経営を委託するなど、出店スタイルをたくさん用意しました。キャッシュフローを圧迫する期首在庫の一括支払いを7年の分割でできるようにもしました。
それこそ、失敗の事例はたくさんありましたから、そこから課題を抽出すればよかった。経営者の仕事は、経営課題を明確にして、課題を解決する仕組みを作ることなんです。それを放置すると、時代の変化に乗り遅れ、取り残される。そのときそのときの経営課題を解決することで、企業は時代の変化に適応し、発展、成長していくことができるんです。
――すでにオープンしていて、関係が悪化していた既存店舗はどう対応されたのですか?
新生ローソンを立ち上げようとしていると、「我々はモルモットだったのか」という反発を受けました。しかも、群集心理でたくさん集まると、反発はヒートアップしていくんです。だから、とにかく耳を傾ける、ということを意識しました。できることは解決する。できるなら、仕組みを変える。要望を聞いて、できる限りのことはしました。それこそ当初は毎週のように週末になるとオーナー会に呼ばれ、厳しく攻められました。私の自宅にまで押しかけられたこともあります。逃げ出したくなるような思いを持たなかったか、と言えば嘘になります。いっそのこと、交通事故でケガでもしてしまえば、ここから逃れて入院できるんじゃないか、なんて思ったこともある。
でも、逃げなかったのは、私がダイエーのプロパー社員だった、ということが大きかったと思っています。逃げていった人たちもいましたが、そういう人たちはみんな転職組だった。転職に慣れていたんですね。ところが、私はそうではなかった。新卒の定期採用で入った、というプライドがありました。同僚みんなも見ている。あいつは途中で投げ出したヤツだ、なんて思われたくなかったですから。
――新しい業態を開発される上で、意識されたのは、どんなことでしたか?
失敗の原因のひとつは、コンビニでありながら、コンビニという業態を理解していなかったことでした。小さなスーパーを作ろうとしていたんです。だから、コンビニを代表する商品を売る必要があると思いました。アメリカでは、スーパーは60分ストアと呼ばれていました。行くのに20分、買い物に20分、帰るのに20分。一方で、コンビニは15分ストアと呼ばれていた。行くのに5分、買い物に5分、帰るのに5分。これに見合った商品を開発するということです。
最初に手がけたのは、ローソンアイスという「氷」でした。透明度が高く、とけにくい氷を袋で売る。今でこそ当たり前ですが、当時はコンビニでも氷なんて売っていなかった。でも、氷は15分ストアのコンセプトにぴったりなわけです。行き帰りが長いと溶けてしまいますから。スーパーに対して競争優位性がある。ハワイ勤務がヒントを与えてくれました。これが当たりました。やがて、近所の飲食店が「ローソンの氷はとけにくい」ということで、買いに来てくれるようにもなった。新しい市場を作ったんです。
次が「水」です。私は大阪に住んでいた時代がありましたが、水道水はカルキ臭がひどく、時には白く濁ったりしました。おいしくなかった。ところが、山のわき水はおいしい。いつか水はビジネスになると思っていました。大手飲料水メーカーが水をペットボトルで出す5、6年前のことです。これも当たりました。灘のお酒を造る水源の水を使って「宮水」として売り出したんですが、おめでたいときに使う、と言ってもらえたりしました。私は頻繁にお店に行って、お客さんの声を集めていましたので。
そして三つ目が「カラアゲくん」です。デリカを展開している頃、揚げる前のコロッケを売っていました。あるとき直営店で、フライヤーで揚げて売ってみたら、これが大人気になりました。そこで、フライヤーを使ってできる新商品開発を命じて生まれたのが、カラアゲくんです。トータルで300億円を超える売り上げを作る大ヒットになりました。
いい物件が出たらローソンに持っていこう、という流れを作る
――どうして10年で3000もの出店が可能になったのでしょうか?
ひとつは初期投資をおさえる業態にしたことで、オーナーが出店しやすくなった、ということです。しかも、オーナーが見つかるまで出店を待っていては、いい物件が出てきたときに出店ができない、という事態が起きていることがわかり、積極的に直営店を出していくことにしました。初期の加盟店とのもめ事は思うように売り上げが行かなかったことにありました。
そこで、直営でまず本部がお店を経営し、実績ができてからオーナーに委ねていく、という出店方法も導入しました。こうした仕組みを作れば、オーナーがいなくても、いい条件の物件があればローソンを出せる。
実際、店舗の開発担当者には500万円の決裁権を渡していまして、いい物件があれば500万円で手付けを打ってきていい、と伝えました。そうすれば、不動産業者やビルのオーナーから「ローソンに行けば、すぐに決めてくれる」と認識してもらえるようになると思いました。みんな早く決めてほしいわけです。そうすれば、いい条件の物件が出れば、ローソンに持って来てくれる。この流れができて、多いときには直営で数百店舗が動きました。
いい店はフランチャイズに委ね、厳しい店は閉じる。ならば、オーナーの満足度も高まります。それを繰り返していったんです。
――今の時代をご覧になられて、企業経営には何が求められるとお考えですか?
3つキーワードがあると思っています。まずは、マーケティング。今は、いかにモノを売るか、ではなく、いかに顧客の満足を高めるか、の勝負になっています。典型例はリッツ・カールトンでしょう。ノーと言わないホテル。満室でもノーとは言いません。「30分いただいたら周辺のホテルを当たってみましょうか」という声が返ってくる。スタッフには10万円の決裁権が与えられていて、「枕をそば殻に」とお願いすれば変えてもらえる。しかも、次の世界の別のリッツ・カールトンに泊まっても、そば殻の枕が出てくる。そこまでやってくれる。資本の競争ではなく、顧客満足度競争なんです。花王がなぜクイックル・ワイパーという大ヒット商品を出せたか。カーペットからフローリングへ、という変化は住宅メーカーはわかっていたはず。しかし、マーケティングの意識がなければ、変化がわかっても、求められる商品は出せないんです。
次が、コラボレーション。中小企業は大手企業に比べて経営資源が少ないのが一般的です。自力で解決できる経営課題は少ない。だから、他の企業とコラボレーションで解決することが大切です。介護事業を展開するある企業は現場のヘルパーから「糖尿病の患者のための弁当を届けてほしい」という患者のニーズを知ったそうです。しかし、自社で弁当工場を作ったり、物流を担うことにはリスクがある。しかし、「できません」では満足度は高められない。そこで、機能をもっている企業と組んで課題解決をしました。それが、全国に弁当工場と物流網を持っているコンビニでした。弁当は最寄りのコンビニで受け取ることができる仕組みです。介護事業者だけでも、コンビニだけでも、この事業は成立できなかった。コラボレーションだからこそ、生まれたビジネスです。
三つ目がベンチマーキングです。優れた事例をスタディする。模倣することで、レベルを高めていく。百貨店だってもともとフランスのビジネスでした。スーパーやコンビニはアメリカ生まれ。みんな見に行ってスタディしたわけです。これは事業に限らず、業務改善でも同じです。アメリカのサウスウエスト航空は、新しい路線に出るための資金がなかった。そこで、給油時間を短縮することで飛行機を効率運用することを目指しました。ベンチマークにしたのが、カーレース。ピットの技術を模倣したんです。結果的に45分の給油が15分になった。飛行機をやりくりして、新路線を飛ばすことができたんです。
そしてベンチマーキングで重要になるのが、「3つのI」です。イミテーション、インプルーブメント、イノベーション。いいところを知り、欠点を見つけ、改善する。アメリカの典型的な事例が、マクドナルドとバーガーキングの2強の中で、10年遅れて参入したウェンディーズです。先駆者の優れたところは見習いつつ、顧客の不満を探りました。例えば、固定式の椅子。セルフサービスの片付け。ウェンディーズは自由に動かせる椅子やフロア係を導入します。また、フレッシュ&ジューシーをテーマに、冷凍ではないハンバーガーや自由にトッピングできる仕組みを作りました。
もう効率だけでは成長できない時代。どこまで顧客満足を追求できるか、なんです。ただ、そのためのヒントは実はたくさん転がっている。それを見つけられるかどうか、が問われるんです。
――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。
取材・文:上阪徹 /写真:三宅詩朗 /編集:鈴木ちづる
(2014年9月 株式会社ペルソン 無断転載禁止)
都築冨士男つづきふじお
株式会社都築経営研究所代表取締役
スーパーマーケット・ダイエーに入社。 米国勤務を経てローソン再建のために帰国。 当時80店舗しかなかった店舗数を、在籍中3000店舗にまで拡大し、 倒産寸前だったローソンを再建。 全国展開の日本を代表…
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