「神の左」と呼ばれた左ストレートで数多くのノックアウト勝ちを収め、相手を倒さなければ生き残れないボクシングの世界で、勝ち続けた男がいます。元WBC世界チャンピオンの山中慎介さんです。
06年にプロデビューし、14戦目で日本バンタム級王座を獲得。その翌年にはWBC世界バンタム級のチャンピオンに輝き、12回の防衛を果たして、日本人男子ボクサーとしては最多となる13連続の世界王座防衛記録にあと一歩まで迫りました。プロとしての通算成績は、30戦27勝(19KO)1敗2分。2018年に正式に引退を表明し、現在はボクシング解説者として、またタレントとして各種メディアで活躍しています。
今回のインタビューでは、ボクシングという過酷な試合にどんな準備を整えていたのか、手強いチャンレンジャーを迎え撃つ際のメンタルをどう作っていたのか、「神の左」はいかにして生まれたのか。山中氏の強さの秘密に迫るお話をお伺いしました。
14歳で描いた「世界チャンピオンになりたい」という夢
どうして、ボクシングを始めたのですか?
中学2年の頃に、テレビで辰吉(丈一郎)さんや、畑中(清詞)さんがリングで活躍する姿を見てとにかくかっこ良くて、自分もやりたいと思ったんです。中学の卒業文集に『WBC世界チャンピオンになる』って書きました。まだボクシングを始める前でしたけど(笑)。
14歳なんて怖いもの知らず。若かったので不安よりも希望のほうが強かったんです。小・中6年間、野球をやっていて、自分は運動能力に長けていると思っていましたし、絶対にボクシングは合うと感じていました。進学先として選んだのはボクシングの強豪、南京都高校です。ボクシング雑誌のアマチュアのページにインターハイの団体優勝の記事が載っていました。僕の地元は隣の滋賀県だったので、京都なら通えると思ったんです。実際に、片道2時間以上かけて毎日通いました。
実際にボクシングを始めてみて、いかがでしたか?
想像していたよりも、ずっと厳しかった。まず走ったり、基礎体力をつけるための地味な練習時間が長いんです。いざパンチの練習に入っても、構え方やフォームなんか分からないわけです。それでも、最初は打てなかったジャブが、反復練習をしていくうちに、上手くなっていく。カッコよく出せるわけですよ。段々と、ひとつひとつの技を身につけていって。素人から始める1年間はなかなか勝てずに苦労して、悩んだ時期もありました。
ようやく3年生でインターハイに出ることができて、一気に準優勝までいけた。最後の国体では、インターハイで負けた相手にリベンジして優勝もできたんです。高校生活の最後の大会で、やっと日本一になれた。嬉しかったですね。頑張った甲斐があったなあって、思わずリング上で泣いてしまいました。
高校日本一のボクサーとして専修大学に推薦入学されました。
実は高校の日本一で燃え尽きたというか、もう完全燃焼したみたいな気持ちになってしまったんです。恥ずかしい話ですが、大学4年間は正直、練習をこなしているだけ。大学には申し訳ないですけど、練習に参加しても、高校時代のようにボクシングに対しての情熱がどうしても湧いてこなくて。当然、全国大会でいい結果は出ませんでした。リーグ戦では勝ったり負けたり…。そんな成績なのに強くなろうという思いが不足していて、練習に身が入らなかった。
そのまま大学最後の国体を迎えました。集大成になるはずが、力も発揮できず、初戦負けです。自業自得ですけど、でもいざ試合が終わってみると、これが僕のボクシングの最後だなんて、考えられなかった。このまま辞めたら絶対に後悔すると強く感じたんです。それでプロに行こうと決めました。中学時代の「世界チャンピオンになりたい」という思いが、また蘇ってきたんです。
プロデビューしてからは無敗のまま、日本王者に上り詰めましたね。
決して順風満帆ではありません。アマチュア時代に華々しい活躍をした選手なら、すぐに後援会ができたり、スポンサーがついてくれるんです。でも、僕は大学でまったく成績を残していませんからね。デビュー当初はジムからも期待されてなかったと思います。実際、10戦目までの試合を見て、僕が世界チャンピオンになれると思った関係者はいなかったんじゃないかな。内容がいまひとつの試合が多かったんです。強さを発揮した試合が少ない。一念発起して練習に打ち込んでも、すぐには結果に結びつかないですよね。
ファイトマネーだけでは生活ができないので、日本チャンピオンに挑戦するまでは、ずっとアルバイトを続けていました。僕のバイト先は飲食店。多かったのはラーメン屋さんの厨房です。4年以上は夕方までバイトして、それからジムに行って練習する日々でした。あの頃は世界王座どころか、日本タイトルまでも遠く感じて……。キツかったですね。
11戦目から3試合連続、1RKOで勝って、自分の持ち味が出てきた感じです。とくに12戦目は豪快なKO勝ちができて、ジムでもこれはいけそうと思ってくれたんでしょうか。14戦目で、念願の日本王座のタイトルマッチです。勢いに乗っていたので自信満々ですよ。7Rで王者をKOできて、日本チャンピオンになって、翌年にはWBC世界バンタム級チャンピオンになれました。
夢だったWBC世界バンタム級チャンピオンになれた時はどんなお気持ちでしたか?
実はなかなか実感が湧かなくて(笑)。世界タイトルを取った瞬間でさえ信じられなかったですね。あの辰吉さんがシリモンコンから獲ったWBC世界バンタム級王座ですよ。15年間も憧れていたベルトです。11RでKOできて、最高の勝ち方でした。リングでトレーナーが僕を肩車してくれたんですが、それでも、まだ信じられなかった。ホンマにチャンピオンになったのかなって(笑)。不思議ですね。初防衛戦が決まった記者会見の時ぐらいですかね。隣に挑戦者が座っていて、ようやく僕がチャンピオンなんだと実感しました。
相手に勝つ前に、まずは自分に勝つ
世界王者になって、それまでと何が変わりましたか?
試合前の準備が全く違います。若い頃は良くも悪くもガムシャラに練習を頑張るだけでした。綿密なスケジュールを組み立てたりはしてなかったんです。でも、世界タイトルマッチはそうはいきません。試合日から逆算して、減量も含めてプランを立てて、対戦相手に備えてやるべきことをトレーナーと話し合って、しっかりと準備しました。1ヶ月半前からは苦しい毎日が続きます。敵より前に、まず自分に勝たなければなりません。それだけの練習を積んだからこそ、試合当日は自信を持ってリングに上れたんです。防衛戦を重ねるごとに調整も上手くなりましたね。
もちろん、僕も人間ですから、スケジュールをこなす中にも、波はあります。練習が順調に進む日もあれば、調子が悪くて「休みたいな」と思ってしまう日もありますよ。つねにうまくはいかないですよね。でも、僕は不調でも、性格的に一晩寝たら切り替えられます。翌日に引きずらないタイプなんですよ。
試合に勝てるかなって不安にかられる時もありましたよ。そうなったら、相手のことを考えない。メンタルが悪い時に考えちゃうと、相手の強い部分が目につくんですよ。さらに不安になってしまうんです。だから、相手の試合映像なんか絶対に見ない。精神的に余裕がある時にだけ見るようにしていました。自分がすごくいい状態なら、相手の強さを見ても、自信があるので、対策が閃いたりもするんです。
試合前の準備として、ルーティーンのようなものはありましたか?
あまり決め過ぎないようにしていたのですが、一つあるとしたら、計量後の食事メニューです。計量は試合の前日。それが済めば、自由に食べられる。まず「水抜き」と呼ばれる減量で、絞りに絞った身体から、さらに水分を抜くという状況なので、計量後はまずは水を飲みます。次にスッポンのスープ。そして100%ジュースを飲む。昼ごはんはパスタで、夕飯はうな重を食べるんです。世界戦は全部同じ。このメニューなら日本のどこでも用意してもらえますからね。
新人の頃はうどんや、餅がいいって言われて、そうしていたんです。蕎麦を食べたり、いろいろ試した結果、やっぱり自分の好きな物を食べるのが一番だって落ち着いたんです。だから、大好きなパスタにしました。美味しく感じるからこそ、量も食べられるし、栄養もつけられるんでしょうね。美味しく食べるための僕なりのルールがあります。例えば、パスタの種類は決めていません。そこまでガチガチに固めちゃうと義務みたいになって、美味しさが半減してしまう。その日の気分で、自分が食べたいパスタを選ぶのを計量後の楽しみにしていました。
数々のKOシーンを生んだ“神の左”はどのように生まれたのですか?
元々、僕はスポーツに関して左利きではなく、野球をやっていた頃は“右投げ、右打ち”。ただ字は左手で書きますし、左手を器用に使うことはできたんです。それで、高校でボクシングを始めた際に、顧問の先生から「サウスポーにしろ」と言われました。当時は、サウスポーの選手は少なかった。大多数の右構えの選手は慣れていないので、左構えの選手のほうが少し有利だったんです。実際に、左で構えてみたら、バランスが良かったそうです。それでも自分では納得いかない部分がありました。慣れとか自然な感覚って自分にはあるじゃないですか。翌日にはまた右構えに戻したりして、先生からしつこく「左に変えろ」と何回か叱られたんですよ。今では先生に感謝しています(笑)。
左構えにチェンジして、すぐに左ストレートが僕の武器になりました。早い段階で、しっかりしたストレートが打てたんです。これが自分の一番の武器やなって実感しましたね。
いいタイミングでパンチを打てるのは、器用な左だからこそ。右手は力がありますけど、器用さでは劣るため、「今だ」という場面で、的確には打てなかったかもしれません。サウスポーになったことで、僕のボクシングスタイルが生まれました。
山中さんのタイトルマッチの挑戦者はランキング1位や、デビュー以来無敗の選手など強敵揃いです。王者として、あえて防衛戦に強い相手を選んできたのはなぜですか?
「僕が勝って当たり前」というレベルの相手を選ばれるほうが、嫌なプレッシャーがかかるんです。お客さんから勝敗よりも、どういう風に倒すんだって見方をされるわけじゃないですか。それは結構嫌でした。だからこそ、どちらが勝つかわからないレベルの相手を選んでほしいって願いましたね。
王者としてベルトを守るというよりも、僕自身が防衛に“挑戦”する意識で戦っていました。あえて苦手な相手や、負けるかもしれない相手を選ぶことで、まず自分に勝ちたい。強い相手と戦うからこそ、上のレベルに行けるんだと思います。だから、あえて僕のスタイルに対して、やりづらいタイプも対戦相手として用意してもらいました。簡単に超えられる目標ばかりじゃ成長はありません。上を目指し挑戦するからこそ、成長につながるんです。
防衛を重ね、メディアでは具志堅用高さんが持つ世界戦の連続防衛記録13回を抜くかどうかに注目が集まりましたが、ご自身のお気持ちはどうでしたか?
具志堅さんの防衛記録に対する意識は全くありませんでした。公の場では「記録にこだわっていません」と言い続けましたね。でも10回目の防衛を越えたあたりから、ファンの方々が期待してくださる声が伝わってきて、皆さんが楽しんでくれていると思えば、その意味では自分の励みになりました。ただやっぱり、僕自身は未来の記録より、目の前の試合が大事だったんです。
もし当時の僕が20代であれば、記録に対してもっと意識していたかもしれませんけど、世界タイトルを獲得したのが29歳。プロボクサーとしては決して若くない。これから何試合できるか分からないし、常に後がないという思いで戦わっていたんです。記録を作ることよりも、目の前の一戦一戦を大切に集中して取り組んでいたからこそ、結果的に12回の防衛ができたんだと思います。
目標を立ててこそ、継続が力になる
日本記録に並ぶ13回目の防衛戦で、ルイス・ネリ選手に敗れ、ついに王座を失ってしまいました。再起のモチベーションをどう高めたのですか?
しばらくは現役を続けるかどうかも考えられませんでした。試合から数日後、家族4人でタクシーに乗っていた時に、急に息子から「今回は負けたけどさ。次にやったら勝てると思う」と言われたんです。思わず、嫁と目が合いましたね(笑)。
考えた末に現役続行を宣言しました。ネリとの試合しか頭にありませんでした。これが最後になるという気持ちで練習に打ち込み、とくに減量が辛かったです。年齢的なものが原因かもしれません。落とせましたが、今までで一番苦しみました。ところが、いざ計量になったら、ネリは2.3キロもオーバー。頭にきて、関係者の方に「絶対に落とさせてください」と強い口調で言ったのを今でも覚えています。あの時は申し訳なかったと思っています。とにかく悔しかった。
再計量でもクリアできなかったので、ネリの王座ははく奪。僕が勝った場合のみ王者になれるタイトルマッチになりました。翌日の試合のために、万全の状態でリングに上がれるようにコンディションを整えるんだと気持ちを切り替えようとしました。でも、どうしても考えてしまう。スマホにはいろんな方から激励の連絡が届きます。メッセージを見て、また1人で考える。そのくり返しでしたね。…今だから話せますが、悔しくて試合の前日は泣きました。
翌日、ネリに2RでTKO負け。試合後に山中さんは引退を宣言されます。
あの日の会場の空気は今でも忘れません。僕が入場した際に、お客さんが過去最高レベルの声援を送ってくれました。反対にネリの入場時のブーイングが凄かった。地元からも過去最大の人数で東京に応援に来てくれましたし。もちろん東京で応援してくださる方々も来てくださいました。「ありがとうございます」という感謝しかありません。
結果は2Rで終わりました。早いですよね。もうちょっと戦いたかったですが…。
引退に関しては悔いがないです。一番の理由は自分の気持ちです。あの世界戦以上の状態を作るのは、もう難しいと思いました。これだけ応援してもらうのに、完璧な状態にできないのはファンの方にも失礼ですからね。最後の試合で結果は負けましたけど、“過去最高の自分”が作れたんです。
前年の8月にネリに負けた後、自分の悪い部分を全部直そうと決めて取り組みました。初めてそういう気持ちになれたんです。今までは防衛を重ねても、試合の中に悪い動きはありました。正直言うと、あまり人の意見を聞かない面もあり、反省しながらも、結果勝ち続けていたので、なんとかいけるやろ、と放置もしていた。でも、あの時は一生懸命に準備して、いろんなことを自分で考えながら調整して、最高の状態でリングに上れたんです。
引退後に受けた取材で「試合には負けたけど、自分に勝つことはできた」と言いました。そう思えたんですよ。大学生の時には自分に負けっぱなしでした。練習をこなすだけでリングに上がっていたことを後悔しましたから……。世界戦では、常に自分に勝つように心がけてきました。そう言えるだけの練習を積んできた。それ以前の試合では、あの場面でもっと勇気を出してパンチを出したらKOできたんじゃないかとか。勝っていたけど後悔もあったんです。でも、すべての世界タイトルの防衛戦に関しては、反省はあっても、後悔はなかったですね。やれることは全部やったという思いがあります。
山中さんのお子さんにとっても、常に真剣勝負で一生懸命な父親の姿を近くで見られる事は、とても誇らしいことでしょうね。
息子は10回、娘も5回ぐらいは、試合後のリングに上げました。お父さんが一生懸命に仕事をしている姿なんて、なかなか見せられないじゃないですか。僕の場合はプロボクサーなので、試合を見せられるのは大きかったなと思います。ネリとの最後の試合前、正月にジムへ家族で挨拶に行ったんですね。その時に初めて、僕の練習を子供達に見せました。それまで1回も見せたことはありません。最初は駆けまわっていた彼らが、僕のミット打ちが始まったら、リングサイドに来て、食い入るように見続けていました。パパが頑張っている姿が、なにかしら心に響いたかなって嬉しかったですね。
現役時代は、練習後に疲れて帰宅しても、子供2人の顔を見た瞬間に元気になりました。それだけで疲れが吹き飛ぶ気がします。時間ができれば、家族と一緒に過ごしたいと思っていますが、練習は休むことも大事。だから、子供をかまってあげられない時があったり、お父さんならではの“力を使う系”の遊びができなかったのは申し訳なかったですね。
僕はボクシングだけはやりきったと思っています。だから将来、子供たちがどんな道に進むにしても、やりたいことを自分が納得するまで「やりきる」事を親としては伝えたいです。
講演で伝えたいことは?
目標を持つことの大切さです。「継続は力なり」という言葉も大事に思っていますが、でも、目標が無かったら、努力を継続できません。夢が無かったら、毎日をなんとなくしか過ごせない。僕の場合は、大学生の時に目標を見失って、後からすごく後悔したんです。その後一念発起して、世界チャンピオンになるという強い思いでしっかりと目標を立てたからこそ、頑張り続けられた自分がいました。
まず小さな目標でいいから立ててみる。それを実現するための努力を継続してほしい。目標達成することは自分に勝つことでもあります。自分に勝てば自信につながって、より大きな目標をめざすことができるはずです。僕の体験を通して、目標に向けて頑張ってみよう、と多くの方に思ってもらえるような、講演ができたらと思います。
――取材・文:佐野裕/写真:若松俊之/編集:鈴木 ちづる
山中慎介やまなかしんすけ
ボクシング解説者
「神の左」と言われる左ストレートを武器に戦ってきた元プロボクサー。元世界ボクシング評議会(WBC)バンタム級王者で日本歴代2位となる12度の世界戦防衛を達成し、2018年3月に引退。 元WBC世界バ…
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