No.06 菅賢治 / 読む講演会 クローズアップパートナーNo.06 菅賢治 /“読む講演会”クローズアップパートナー

あの番組はどうやって生まれたか、教えます No.6 テレビプロデューサー 菅賢治

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プロデューサーは全責任を負う

No.06 菅賢治

今年で62歳になります。テレビの現場は、それほど長く仕事ができるほど甘くはありません。できる限りのことをやりたいと思って、日本テレビを辞めさせてもらいました。今は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』と『踊る!さんま御殿!!』の2つの総監督をしています。他は今はやりのいわゆる配信事業でドラマのプロデューサーをやったり、日本テレビ系列の中京テレビで『太田上田』という、爆笑問題の太田光さんとくりぃむしちゅーの上田晋也さん2人だけのトーク番組をやっています。Huluでも配信していますので、ただで、いつでも見られます。

テレビ番組にはプロデューサーやディレクターなど、いろんな役職がありますが、うちの母親は結局、最後まで私が何をやっているか、よくわかっていないと思います。子供も今年で28歳と25歳の息子がいますが、たぶんわかってないと思うんですね。ディレクターとか演出家っていうのは、基本的には一緒です。映画やドラマでいったら監督ですね。カメラで画を撮って、最終的には放送できるように編集をして、音をつけたり、音楽をつけたりして、納品するのがディレクター。プロデューサーは特に編集はしません。

台本も基本的にはプロデューサーじゃなくディレクターと放送作家のみなさんでつくっていきます。では、プロデューサーは何をやるのかというと企画です。こういう人とこういう番組をやりたいという企画を一生懸命、考える。それからメインの司会者や出演者は自分で口説きに行かなければいけません。これがそろった時点で、今度は編成が枠を空けなければいけません。それがある程度、決まったら、今度はお金の交渉です。大きなグロスの中から出演者のギャラを決めて払ったり、制作会社の人たちと一緒にやらないと番組はつくれないので、契約書を交わし、スタジオはどこでやるのか、セットはどうやってつくるのか、という話になります。

ですから事前の地ならしみたいなのがプロデューサーの仕事で、編集したり納品するのはディレクターの仕事ですが、その内容の全責任はプロデューサーにあります。多少もめたりなんかするとディレクターは一切、行かず、われわれが謝りに行くんです。プロデューサーって結局、下準備と後処理といいますか、結局、番組の品質管理も含めて全責任はプロデューサーが負わなきゃいけない。それが仕事ですね。

番組づくりで大事なのは、コンセプトです。僕が部下によく言ってたのは、編成が企画募集してどれにしようかっていうときに何通、見てるか知ってるか、ということです。少なくても500通ぐらい見てる。下手すれば1000通ぐらい。だから1週間ぐらい、みんな徹夜しながらやるんですが、そのとき企画書を何十ページにわたって書かれても、分厚い、こまごま書いてあるものは疲れ切った頭には入ってこないし「もう、いいよ。うんざりだからやめようぜ、これ」となる。だから1、2行でわかることを書かないといけない。企画書って本来は丁寧に書いたほうがいいに決まってるんですが、通すためのツールだと考えると、2行でわかりやすければ、それが一番いいわけです。

『恋のから騒ぎ』はいかにして生まれたか

No.06 菅賢治

20年前に始めて3、4年ぐらい前に終わった『恋のから騒ぎ』という番組があります。きっかけは、さんまさんとたけしさんでスペシャル番組をやったことです。日本テレビ系列のネット局の若いきれいな30人近い女性のアナウンサーをスタジオに呼んで、たけしさんとさんまさんが司会でいて、間抜けな泥棒の話とか、笑える話をアナウンサー独特の語り口で読んで、それをきっかけにさんまさんとたけしさんが話をするというバラエティ番組でした。

番組の放送時間は2時間。だいたいCMを抜くと94分、95分。なのに、7時間ぐらいカメラが回っていたんです。2人でワイワイ、ワイワイしゃべって。これはもったいないな、おもしろいのになと思っていて。そのエンディングのコーナーで、せっかく30人ぐらいの若い女性がいるから、みんな独身の女の子たちだし、例えばアンケートを恋のアンケートみたいにして答を出してもらって遊ぼうぜっていうコーナーを40分くらいですか、撮って。そのとき、きれいな女子アナの方が「こういう男とつきあいたくない」っていうアンケートで「新車のBMWで迎えに来る男とはつきあいたくない」と答えたんです。それが明石家さんまさんの逆鱗に触れたんですね。これが、まさしく『から騒ぎ』の原型になるんです。

「それはお前とつきあいたいがために、ものすごいローン、組んで、買うたんちゃうんかい」と、すごく盛り上がったんですが、どうやったって編集には入らない。番組の最後に「この番組は何々の提供でお送りしました」っていうクレジットが流れるのが30秒ぐらいあるんですけど、そこの下の画にしかならなかった。その収録後に、さんまさんの楽屋で2人で話してたら「いや、今の若い女たちは説教せなあかんな」「いや、俺、これから日本中、説教して回るわ。番組関係なしに説教したいのやけど、お前も来るだろう」と言われて。

それから2年ぐらいたったときに編成局長に呼ばれて「菅、トヨタさんの一社提供で土曜日の11時から、さんまちゃんで番組をやりたい。口説いて何か、つくれ」と言われるんです。うーん。待てよ。どうしようかな、と思ってたとき、これ「説教」があるんじゃないかって、思い出したんですね。当時は、さんまさんは次の年の番組のオファーが7本ぐらいあって、そのうちの2本しか無理だから受けられないよと言われていた。何人かで、さんまさんのマンションに行って「何やりたいの、4月から」って言われたとき「いや、説教です」「なるほど。説教ね」と。そのとき、企画書なんて何もないですよ。

あっ、それはおもしろいかもね。じゃあ、やろうっていうことになって、会社には企画書は出さなきゃいけないんで、とにかく「明石家さんまが説教する番組です」みたいなことを書いて持っていきました。番組タイトルは候補で5つぐらいあったんですが、3番目ぐらいに『から騒ぎ』とだけ書いてあった。それこそシェイクスピアそのもの、パクリですよね。そうしたら専務が「『から騒ぎ』っていいじゃないか、シェイクスピアみたいで」「さすがですよね。じゃあ、『から騒ぎ』にさせていただきます」と。それで、できたのが『恋のから騒ぎ』です。

そもそも説教するための番組って言って始めたので、まずは美術の打ち合わせをやるんですね、美術のデザイナーと。番組のセットって僕はタイトルより、はるかに大事だと思っていました。ポンッて番組が始まったとき、セットが映るわけで、そのときセットがちゃんとわかってないと、お客さんをそこで混乱させる。「とにかく説教したいんだよ」とデザイナーに言って、最初に上がってきたのが説教部屋のセットだったんです。

西洋の城の中の拷問部屋みたいなセットで「あっ、これ、いいじゃん。じゃあ、説教部屋は、まず、これで決まり」と言って、エンディングのたかだか1分半とか2分のコーナーが、まず先にセットができたんですね。「じゃあ、本編のセットも西洋のお城にしようよ」と、お城の大広間に20人の女性を集めてワイワイ、トークをする、と決めました。見ていらっしゃった方は、ちょっと覚えていらっしゃるかもしれませんけど、オープニングタイトルは西洋のお城に『恋のから騒ぎ』って出てるのは、そういうことなんです。

さんまちゃんをなんとかして口説け

『から騒ぎ』が6、7年続いたころに、また例によって編成局長に呼ばれて「火曜日の8時、毎週、お前とさんまちゃんに枠をやるから番組つくれ、レギュラー番組やれ」と言われて。さんまさんはゴールデンはもうやらないと言ってたんですね。「だからお前に頼んで口説けって言ってんじゃん」と。テレビって新番組をやるっていうときは、だいたい3カ月前に発注が来て、3カ月でつくって、やるのが多いんですけど、そのときは1年前だったんです。僕、40年近く、こういうテレビの商売をやってますけど、1年前に発注があるって、あとにも先にもそれだけでした。ただ。さんまさん本人は、やらないっていうのを公言しているから、やりたくないわけです。「もう、いっぱいいっぱいで、ちゃんと丁寧な仕事したいから、もうやらないよ」と。

当時、僕はさんまさんと年間200日ぐらい一緒にいました。ゴルフにもよく行きました。1番のティーグラウンドから構えたままずっと「ゴールデンやりたいな。番組やりたいよな」と僕が言うわけです。「やらへん言うとるやろ。早く打て」「はい」。それを18ホール、ずっとやる。ごはんを食べに行っても「乾杯」を言う前に「ゴールデンやりたい。番組やりたいな」「うるさいな、お前」と言われて。それで10月、11月、12月に。年が明けても、ずっと。

それで3月の頭ぐらいですかね。またゴルフに行ったんですが、相変わらず「ゴールデンやりたいな、新番組やりたいな」と言って全然、打たなかったんです。そうすると、「いや、わかった、わかった。もう、やるから打てよ、早く」と言われて。「えっ、今、やるって言いました? ちょっと電話していいですか」と言ったら「それはハーフタイムで昼飯のときでいいんじゃない」「あっ、それもそうですよね」と楽しくゴルフをやって、それこそ編成局長に「いや、やっと、やるって言っていただけました」と電話したら「ああ、よかった。ありがとね。それで、何やるの」と。

企画、まったく考えてなかったんです。まず口説くことが先決で。テレビというのは全国ネットの場合は6月の上旬に、ネット局全部の編成の人たちを東京にお呼びして、全国編成会議をやるんです。それまでに、さんまさんに、この企画で行こうってOKをとっておかなきゃいけない。どんなに遅くてもゴールデンウィーク前の4月の中旬から下旬にちょっとかかるぐらいには絶対に必要なんです。やるよって言ってくれたのが3月中旬ですから、もう1カ月ぐらいしかないわけですよ。

僕は会議は嫌いなんですが、1週間とか2週間、ずっと毎日毎日、企画会議をやってました。それこそホワイトボードにタイトルだけ書いただけでも300から400は軽くあったと思います。みんなが書いた企画書も自分で書いたのもずっと回し読みして。4月の下旬だったと思います。いよいよさんまさんに見せてOKをとらなきゃいけないというタイムリミットが来たんです。とりあえずこの3つ、持っていこうということになって。僕は基本的には大事なことを決めるときは、2人きりで決めるんです。そのときも六本木の飲食店でお待ちしますと伝えて。そこは、けっこう大事な話をするとき、個室があるんで、よく使っていました。

会議室で「じゃあ、これ、3つ持っていってきます」と言ったとき、企画会議をずっと一緒にやってくれていた大御所の作家の人が「菅ちゃん、その3つって気に入ってないでしょ」と言うんです。「うーん、まあ、気に入るも気に入らないも、みんなが1カ月、本当に考えて振り絞りましたから」と言ったら、その大御所の作家の先生が「みんなさ、1カ月、がんばったけど、これ、最後、菅ちゃんに任せない? いいよ、菅ちゃん。タクシーの中で何か考えて決めて」と。「ありがとうございます」と出たはいいけど、15分ぐらいで着いちゃうんですよね。

タクシーの中で決めた『踊る!さんま御殿!!』

No.06 菅賢治

ちょっと待てよ。それ、ありがとうございますじゃないよ、そもそも、と思って。何をすればいいんだろう。その3つの企画の内容は忘れました。実は僕も気に入ってなかったんでしょうね。だから言われた瞬間、これ、なしっていうふうに自分で判断しました。さて、どうしようと思って、すっからかんで行かざるを得ないのか、それでも、そうはいかないっていうことで、タクシーの中で、待てよ。『から騒ぎ』でスペシャルをやったときに女性の素人じゃなくて、それこそ男性の芸能人とか俳優さんで二〇人、呼んでやったことあったよな。それこそ、今、考えてみたら神田正輝さんとか、俳優さんが、あの形のまんまスペシャルでトークをやって、それがすごくおもしろかったんですよ。

あれはできるんじゃないかなと思って、「明石家さんまと芸能人、文化人20人が、ただただしゃべる1時間です」という、本当に2行ぐらい書いたんです。5分後ぐらいにさんまさんが来て「決めた?」と言って「はい、決めました」「見せてみ」と言われて、「これ、やりたいんですけど」と、それこそ駄目だった企画書の裏にぐちゃぐちゃって書いて「また汚い字やな」って言われて「うーん」って言ってるから、さすがに、こりゃ駄目だろうな、字面も汚いし、と思ってたら「うん。おもしろいね。やろうか」と言って『さんま御殿!!』が始まるんです。

『から騒ぎ』のときとは違って今度はゴールデンタイムだから『さんま』っていうのは入れなきゃ、と今度はタイトルの話になって、それもずっと決まらなかったですが、『さんま』というのは決まってるけど、何がいいかねということになって、やっぱりみんなでタイトルの会議をやっていて。でも最終的には「あんた、一人で決めなさい」と言うしか、もうないんですよね、こういうのって。

それで、ずっとみんなでいろんな意見を出し合って、どれがいいかねなんて言っているときに僕が「『踊る』ってどう?」と言ったんです。「『踊る』って躍動感があっておもしろくない?」って言ったら「えっ、踊るんですか」と言うから「いや、踊らないけどさ。何か、いいじゃない。踊ってる感じって」「ああ、いいですね」とみんなが賛同してくれて『踊るさんま』までは決まったんです。『踊るさんま』じゃ、これはまとまりもよくないし、字面もちょっとドシッとした土台がないよねって思いながら、みんなで飯を食ったりなんかして夜中に自宅に帰って、いろんな衛星チャンネルをみてたら、古い時代劇をやっていて。それが『歌ふ狸御殿』っていうタイトルだったんです。

ふーん『歌ふ狸御殿』ね、とそのときはまったく考えないで会社へ行って、またタイトル会議になったとき「『踊るさんま』でしょ。『踊る!さんま御殿!!』ってどう?」「御殿? 何か古くさいですよね」「いや、何か、ドシッとしていいじゃん、『さんま御殿!!』って」って言って、さすがにきのう見た『歌ふ狸御殿』のパクリだとは言えないので、「『踊る!さんま御殿!!』でやろうよ」と言って決まったのが『さんま御殿!!』なんです。

専務に会いに行くときも「『踊る!さんま御殿!!』でやりたい」と言って、のちのち『踊る!さんま御殿!!』がみなさんに知られるようになって、テレビ雑誌の記者さんから「『踊る大捜査線』のパクリですか」と聞かれたんですけどね。「いや、違う。『踊る大捜査線』の脚本家の君塚良一さんは昔からの友達だし、実は俺たちのほうが早いんだよ。君塚さんは、もちろん『踊る!さんま御殿!!』の『踊る』をパクリはしないだろうし、たまたま、そういうのがぶつかっただけだよ」という話をしました。

30年前に、ダウンタウンの面白さを知る

もう30年ぐらいになるのが『ガキの使い』です。これは日本テレビの同僚だった土屋敏男という男がいまして。『電波少年』をつくった、その当時のT部長と言って『ダースベイダーのテーマ』で現れる男ですね。彼が、ダウンタウンの存在を1番最初に教えてくれたんです。もう30年も前に「菅ちゃん、ダウンタウンって知ってる?」と聞かれて、「いや、俺、知らない。何、それ?」と言ったら「いや、関西で20歳ちょいぐらいの若い漫才なんだけど、めちゃめちゃおもしろいよ」と。

当時ですから「VHS、これ、あげるから見てよ」と言われて我慢できずに会社のモニターで見て、こりゃ、おもしろいわと思いました。「いいね。あの2人」って言ったら「会いに行く?」と。「えっ、大丈夫なの?」「いや、吉本興業には全部、もう当たりつけてあるし、行こうよ」と。三重県か何かで、コンサートをやることになっていたんです。

コンサートを終えて、土屋敏男が「このままマイクロバスみたいなのに乗って大阪の本社に帰るみたいだよ」と。「ああ、そうなんだ。じゃあ、お見送りしようか」というと、「いや、そうじゃなくて大阪本社まで行こうよ」「えーっ、どうやって?」「マイクロバスに乗りゃ、いいんだよ」「できるのかね?」「大丈夫、大丈夫」と、土屋敏男はタッタ、タッタ乗り込んでいって、2人掛けのところの松本人志さん、松ちゃんの隣にポンって座ったんです。

ああ、そうなんだと思うから、僕はなんとなく浜田雅功さん、浜ちゃんの隣にポンと座って。2人は、たぶんグースカ寝ながら帰りたかったと思うんですけど、僕と土屋敏男は、あなた方の漫才を見て、いかに僕らが感動して、いかにあなたがたがおもしろいかっていうのをものすごく滔々と語って。バックステージパスとか入構証を持ってる変質者みたいな、一番たちの悪い、会社が認めたストーカーのようなものですね(笑)。

2人は迷惑だったと思うんですけど、僕と土屋敏男、ツッチーは、その当時、制作局の人間でしたから「2人、一緒に番組、やろうよ、やろうよ」と言って。  それでツッチーと僕で考えて、渡辺徹さんが司会者で、彼らがサブ司会をやって、素人の男女の出会いをプロデュースするみたいな番組をつくるんです。でも、日曜日の12時は、日本テレビにとって鬼門中の鬼門だったんですよ。案の定、半年で「はい、打ち切り」ってやられて。

でも半年、2人としゃべる機会がいっぱいあったんで、「僕ら、2人きりで何か深夜でもいいですから番組やりたいですよね」と耳にするわけですね。「いいね。やりたいね」と言ってたときに土屋敏男が編成に異動になって。編成企画部というのは企画を募集してOKするかどうか、決める部署だったんです。ツッチーが制作局に来て「菅ちゃん、深夜の企画、ダウンタウンで書いてよ。何か、俺、通すからさ」と。「あっ、そうなの」と書いて、すぐ通って。

30年も続くとは思わなかった『ガキの使い』

その当時の企画書はもう見つかりません。でも、ダウンタウンを知ってる人って日本テレビでは僕と土屋敏男しかいなかったんです。だれも知らない。「だれなの、これ」っていう感じでした。 当時は知らない漫才師が漫才やりますなんて100%通らなかった。でも、土屋敏男が通してくれることはわかってました。ただ、企画書ではまったく違うことを書いていて、見つかったら絶対処分されるよなと思ったんですね。でも、終わると夜中でしたし、日本テレビの偉いさんも寝てるだろうと。真面目な話でいうと、仮に見ても彼らの本職の漫才をずっとやってた番組だったんですね、最初。

それを見たら、おもしろいっていうのは何歳でも絶対分かってくれるはずだっていう、僕らが言うのも変ですけど自信があって、要は僕と土屋敏男が彼らの漫才を生で見たいっていうだけの話で始めただけの番組なんです。今、30年近く続いてますけど、そのとき、もちろん続くなんて思ってもないですし、それこそ2クールっていう半年だろうねと思ってやっていました。

彼らの漫才オリジナルを7週ぐらいやって、ある日「菅さん、僕ら、もう漫才のネタないですけど」って言われて、ああ、そうか、と。「じゃあ、大阪時代にコントやってたじゃん。コントやろうよ、コント」と。それも7週ぐらいですね。「いよいよないですよ」って言われて「そうか。漫才もコントもないか。でもさ、今、漫才終わったあと、ちょっと舞台で、そのままトークをやるのが、すごくおもしろいから、あれをメーンにして。オープニングは何か必要だったら、近所の公園で、いい年こいた大人が三輪車のレースするとか、そんなのでいいんじゃないの、3分ぐらいあったら」と言って始めたのが、「第1回チキチキ ガキの使いやあらへんで」なんです。そのときにADが横断幕に「チキチキマシン猛レース」をもじって「チキチキ」と書いたんですね。

そのときに浜ちゃんが食いついて「本当、ここのスタッフってばかだよな。こんなこと、やるために『チキチキ』って、どういうことだよ」と言って、うちのスタッフをばかだ何だって言って、こきおろした。そのままオンエアして「いいか。何やるときも『第1回チキチキ』ってつけろよ」ということになって、30年後の今でも「第1回チキチキ」でやっているんです。「チキチキ」の原型なんて、どこにもないですよ、レースなんて知らないですから。

『ガキ』は大晦日も含めて、他の番組ではちょっとあり得ないぐらい、スタッフが出ています。でも、それもスタッフだったら、だれでもできるわけじゃなくて、スタッフが出ていても、まったく笑える空気を持ってないやつもいるんです。ポッと、そいつが立ってるだけで、つまんないっていう。これ、不思議なんですよね。立ち姿がつまらないってバラエティやってる人間としては致命傷です。一言もしゃべってない。ただ立ってるだけで寒い感じがして、二度と出してませんけど。何で『ガキ』ってスタッフが出るのか。もちろんダウンタウンの2人が、「俺たち、これ、やったんだから、お前たち、これ、やれよ」みたいな中学の男子クラス乗りで、ずっとやってきたんです。

でも僕自身、たまたまですけど、そうやって長く番組に携わらせていただいて。自分で企画書を書いた番組が30年近くたっても続いているし、日本テレビとか、テレビ局の中でも企画書を書いた人が最後までいるとか、ずっと30年近くもやるなんてことは、これは、もう奇跡ですから。ほとんどが、やっぱり業務ローテーションで「企画書、書いた人、実はあの人なんだよ」って言って「へーっ」てなもんで、その人は全然、関係ない部署にいたりしますし。僕は、そういう意味では、すごく幸せだって心底、思います。勝手言って退職するときも、僕が『さんま御殿!!』とか、ガキの使いとか、自分で企画書を書いて、今の『おしゃれカンケイ』なんかもそうですけど、もうまったく何もやれないんだろうなと思って退職したんで、それをやらせていただいているというのは本当に幸せだなと思います。

同じような番組は、ちっとも怖くない

No.06 菅賢治

テレビって「今もう駄目だ。テレビ、おもしろくない」と言われて、もう、ずいぶんたちますけど、バラエティに限っては、そうだと思います。どの局、チャネルをひねっても、昔みたいに、いかにもフジテレビさんだなとか、これが日本テレビだよねとか、これ、テレビ朝日だよねっていうのは今、まったくわからなくなりました。僕らが見ていても、これ、どの局なの、と思う。もう一回、チャンネルのボタンを押すと今、出るじゃないですか。えっ、こんなの、やってんだ、と。でも、まったく一緒だよね、とか、えっ、これ、『イッテQ!』の完璧パクリじゃん、とかもある。でも昔は、そんなことなく、深夜だろうか何だろうが個性がいっぱいだったんで、僕らも楽しかったんです。そういう意味で言うと、バラエティに限っては、確かにおもしろくなくなったし、たまに家に早く帰れて7時ぐらいからビールとか飲みながら、まずテレビ見ようかと思っても、地上波というか民放は一切、見るものがなくて、何やってんだよと思いますよね。

僕がつくり手だから、むかつく。ふざけんなよって思うことの前に、これ、視聴者が見てうれしいのかなと思って、どんどん、どんどんチャンネルを変えてくと、結局、BSのスポーツを見てたり、映画を見てたり。今、衛星チャンネル以外でもいっぱいありますよね。こんなゆるいので、いいんだっていうのが何か、和むのは釣りチャンネルで、釣るまで10分ぐらい、仕掛けがどうした、こうしたとか、そのおっさんの話をずっと聞いてるんです。僕の中でのゴルフチャンネルと釣りチャンネルは絶対欠かせないものなんですよね。何も見るものがないときは、これを見ています。

ただバラエティ以外のことを考えると例えばニュースとか、新鮮度でいったら、新聞に絶対負けない。僕も大好きですけどスポーツの番組とかワールドカップにしてもオリンピックにしても全世界の何十億人っていう人が同じ時間帯にリアルタイムで試合をあれだけの大画面で見られるっていうのは、ネットのこととか何とかってテレビ以外にないわけで、そういう意味でのテレビっていうのは絶対に衰退しないと思いますし、やっぱり僕は最大のメディアだと思っています。

インターネットが何だかんだって言ったところで、ヤフーの目次のトップニュースってテレビでやったことばかりですから、テレビを見た連中がヤフーのトップニュースを書いているだけのことで、結局、その意味ではニュースとスポーツということだけでいうと、テレビというのは絶対に衰退しないと思います。でも、ことバラエティに関して言うと、僕はとても危機感を持っています。それぞれの個性がなくなっている。今こういうのが、はやってるから、とりあえず同じような空気として、パクリとまではいかないけど同じような雰囲気の番組をつくっておけば、という空気が見える。僕らは10%とれりゃいいやっていう番組のつくり方を置きに行くって言うんですけど、どうせ3%、4%しかとれないんだったら、振り切ったことをやられたほうが裏でやってる、われわれとしては怖いんですよね。よく、これで腹くくったな、という。

置きに行かれると全然、怖くない、それは本家が勝つに決まってるんで。だから、それを改善していくというか、改革していくというのはテレビ局の経営陣が考え方を変えない限りは当分、無理だと思います。日本テレビがすべての視聴率で1番なんですね、この何年か。それは正直言って、もとの古巣だっていうわけじゃなくて僕は当たり前だと思ってるんです。今の日本テレビって、われわれの後輩たちで10人ぐらい、ものづくりの天才たちがいて、そいつらはみんな仲がいいんですけど、お互いライバル意識を持って「絶対に人のまねしたくない」ってやっていますから。

まあ、こいつらがいる限りは日本テレビって当分、無敵なんだろうなと思うんですけど、商店街と同じように1軒だけが売れていたってシャッター通りになっていったらテレビそのものが衰退していくと思います。それは避けたい。いつまでやれるかわかりませんけど、その一助となればなと思って僕も、今まで経験しなかったドラマも準備しています。ドラマの台本づくりは、こんなに大変で、こんなに楽しいんだ、と今、新しい体験をさせてもらっていますね。

(文:上阪徹)

プロフィール

菅賢治/  テレビプロデューサー

1954年、長崎県生まれ。1975年、日大芸術学部放送学科後、アメリカ放浪の旅に出る。帰国後、日本テレビエンタープライズに契約社員として入社。渡辺徹と榊原郁恵の結婚式の総合演出を担当し、視聴率40.1%を叩き出す。それを機に日本テレビ入社。その後、「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」、「踊る!さんま御殿!!」など数多くの人気番組を手がける。そんな名物プロデューサー“ガースー”こと菅賢治氏がこれまでの経験を余すとこなく語り尽くす。

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