2013年12月01日

フリーになってから、9年間、食えなかった

――今の小倉さんからは想像できないのですが、子どもの頃は吃音症、いわゆるどもりに悩まされていたそうですね?

そうなんです。でも、それがアナウンサーを目指したきっかけでもあるんです。今でも普段の生活ではよくどもっているんですよ。お金をもらってしゃべる場では、どもらなくなるんです(笑)。僕自身、どもりは治らないと思っています。でも、どうやったらどもらないように話せるか、その方法はありますね。例えば、緊張感を持って話す。発音や発声を自分で気にしていかないと、言葉はよどみなく出てこないんです。

物心ついたときから、どもっていました。僕は秋田に生まれ、ずっと秋田弁で育ったんですが、父親の仕事の関係で、小学校2、3年だけ東京の小学校に通ったことがあったんです。環境や言葉がまったく違ったこともあって、転校して最初の自己紹介で自分の名前すら言えませんでした。 今も覚えているのが、全員参加の劇。演目は「マッチ売りの少女」。しゃべれない僕にはセリフの少ない役が与えられて、それがマッチを買う客でした。「このマッチいくらですか」というセリフを、それこそ何度も何度も登下校時に練習したんですが、本番で言葉が出てこなかった。それが悔しくて悔しくて。泣きべそをかきながら家に帰りましてね。

心配した母親は、赤面や対人恐怖症の病院に連れて行こうとしたんですが、僕は嫌でした。自分で治したい、と子ども心に思って。ではどうやったら治るのか、いろいろ考えて思いついたのが、将来しゃべる職業に就こう、ということだったんです。 当時はアナウンサーというのはまだ出ていなくて、落語家や俳優、それから総理大臣なんてのも入ってた(笑)。

――苦手なものを将来の夢にするとは、面白い発想ですね。

iv61_02ひとつ面白い話がありましてね。小学校2年生くらいから、なんとかどもりを治したくて、七夕の願いごとの短冊にも書いたりしていたんです。でも、治らない。それで、小学校5年生のとき、父親にぶつけたことがあったんです。「七夕なんか、嘘だ。夢なんか叶わないじゃないか」と。そうしたら父親が、こんなことを言ってくれて。「智昭、夢は持つな。夢は夢で終わってしまうこともある。だから、目標を持て」と。実際、自分でつかめるような目標にするから、努力ができるわけです。単なる夢じゃダメなんだと。これで、しゃべる職業に就くことが目標になった。

東京から秋田に戻ってからは、いろいろ自分でやってみました。犬の散歩をするときに、大声を出してみたり、歌を歌ってみたり、一人でしゃべってみたり。そういうときは、どもらないわけです。そこにヒントがあると思って。家で声を出して本を読むようになったら、担任の先生が「小倉は本を読むのがうまいから、NHKの児童劇団はどうだ」と言ってくれて。これが、演劇を始めるきっかけになりました。

中学、高校ではスポーツで陸上もやりながら、演劇や弁論で賞を取ったりできるようになり、大学に入ってからはバンド活動もして司会をやったり、大勢の人の前で話すことが大丈夫になっていったんです。その頃にはバンドで食べて行きたい、なんていう気持ちもあったんですが、たまたま大学の就職室の前に、フジテレビのアナウンサー募集の貼り紙がしてありましてね。僕の出身大学は当時、創立4年目。当時は大学に受験枠というものがあって、フジテレビの受験枠は10人しかないと言われたんですが、バンドをやったり、ラジオのDJコンクールに出たこともある、とPRして受けさせてもらったんです。
フジテレビの受験者数は1万数千人。僕はそこで7次試験まで受けて、最後の6人まで残りました。ところが、最後の最後で落ちてしまった。そんなときに、東京12チャンネル(現テレビ東京)が新聞で一般公募を始めたことを知って。面接で大好きな競馬をめぐるフリートークもあったりして、運良く合格することができたんです。

――テレビ東京に5年半在籍され、フリーになりますが、当初は苦労されたそうですね?

アナウンサーになればなったで不安材料はありました。どもりは完全には治っていませんでしたし。面白いんですが、季節によって、どもる言葉が変わるんですよね。タ行がダメなときがあったり、ア行がダメなときがあったり。メンタルなものなんだと思いますが。競馬中継も任せてもらったんですが、カ行がダメなときにカ行の馬もいたりする。そこで考えたのが、自分で修飾語をつけてしまうことでした。「逃げるとうるさいカネリノブ」とか(笑)。もちろん、当時はそんな実況をする人はいなかった。でも、小倉の実況は面白い、競馬をよく知っている、と言われるようになって。それで、競馬好きだった大橋巨泉さんの目に留まり、彼の事務所に入るんです。

でも、フリーになって9年間は、本当に食えませんでした。巨泉さんも、引き抜いたからといって仕事を紹介してくれるわけではない。実力がないと使わない、という人ですからね。仕事の本数も少なく、事情で事務所にお金を借りて入っていたこともあって、毎月ギャラをもらうとすぐにお金がなくなってしまいました。前借りが日常化してしまって、「バンスの小倉」とあだ名もつけられて(笑)。タレントなのに、事務所に机があって、巨泉さんの競馬の資料作りのアルバイトをしたり(笑)。

9年間、苦しかったですが、それでも後悔することはありませんでした。僕は基本的に前しか見ないんです。キツイことがあっても、キツイと思わないようなところもある。高校で中央大学の附属高校に行ったときも、大学に入ったときも、補欠だったんです。フジテレビの新卒アナウンサー試験も落ちて、合格番号が掲示板に貼ってあるのも見たことがない人生だった。ただ、なんとかなると思っていたんですよね。妙な自信があった。

あとは、やっぱりいろんなことをするようにしていましたね。気になることは、とことん勉強する。だから、あまりゆったりとする時間はありませんでした。何かしらやっています。そういえば、テレビ東京で、先輩に教わった、こんな言葉を今もよく覚えています。「マイクの前に立つときは、世界一上手いアナウンサーだと思え。マイクを離れたら、世界で一番下手なアナウンサーだと思え」。すばらしい教えでした。

フジテレビ 朝のワイドショーの司会は夢だった

――大きな転機になったのが、「世界まるごとHOWマッチ」のナレーターの仕事ですよね。

最初はナレーターが5、6人いたんですよ。面白い話し方をする声優さんがいるということで、僕の役割はきちんとしたナレーションをすること。ところが、今も覚えているんですが、こんなことがありましてね。

iv61_04リオのカーニバルでダンサーが紙のビキニを着ていて、それがいくらか、というナレーションだったんですが、放送作家さんからもらった台本にこう書いてあったんです。「このあと、画面見ながら、小倉アドリブ」。なんだこれは、と思いましたよ(笑)。それで、とっさに頭から甲高い声を出して、みんなを笑わせてやろうと思ったら、スタジオで大ウケしましてね。これは面白い、と。それからは、作家さんの要望がエスカレートしていって。「ここで石坂浩二のシルクロード風に」とか「フーテンの寅さんのような感じで」とか。対応しているうちに七色の声を持つ、なんて言われるようになって。

 スタジオでの収録は、ナレーターがリハーサルを何度もしたりすると、ものすごく時間がかかるんです。ところが僕の場合は、一度打ち合わせをしたら、すぐに本番ができた。だから、収録時間が短くなって。その分、スタジオを使う費用も少なくて済むわけです。安くなった分、小倉のギャラに乗せてやれ、なんてことまでいわれて、ギャラは結局、当初からの10倍になりましたね。

――それから、ラジオやテレビで本格的に活躍が始まっていかれるんですね?

あの声がいい、と他のナレーターの仕事やCMの仕事が次々に来るようになっていきました。それまで、ワイドショーのレポーターの仕事で、事件や芸能もやっていたり、自分なりに興味を持って勉強していたことが、ここから一気につながっていくんです。ギャラクシー賞も取った文化放送の「とことん気になる11時」は、「世界まるごとHOWマッチ」を見て、文化放送のプロデューサーが声を掛けてくれたんです。実はオーディションがあって、後で聞いたら超大御所が2人。でも、どうしても、僕にやらせたいと彼が言ってくれて。

 最初は、番組のパイロット版を作ったんですね。でも、パイロットだからと適当にやっていたら、また「小倉で本当に大丈夫なのか」と声が周囲から出て。ところが、本番の日、とにかく大ウケでスタジオも大爆笑になるんです。プロデューサーに「いや、小倉ちゃん、本番になると、なんでそんなに変わるの」と聞かれて、「お金もらわないと変われないんですよ」と答えたのを覚えています(笑)。もちろん冗談ですよ(笑)「世界まるごとHOWマッチ」でもそうでしたけど、もともと瞬発力はあったんですよね。

  その場で機転がよく利く、というのかな。競馬中継をやって鍛えられていたのも大きかったと思う。ラジオでも、アシスタントとの掛け合いや、視聴者からのハガキも、事前に準備するんじゃなくて、とっさに何を言うか決めていましたから。何が飛び出してくるかわからない面白さがあったんだと思いますね。

――そして、10年を超える長寿番組「情報プレゼンター とくダネ!」に出会われます。

振り返ってみると、ひとつ仕事をすると、次の大きな仕事につながっていったんですよね。日本テレビのワイドショーを3年ほどやって、局の事情で終わりになったとき、フジテレビから声がかかって。「どうーなってるの?!」も、あの時間帯というのは、フジテレビにとっては、ぺんぺん草も生えないくらいの厳しい時間帯だったんです。ところが、圧倒的な数字を取ったんですね。それで、朝のワイドショーをやりませんか、と声をかけてもらって。

フジテレビのアナウンサー試験を受けたとき、将来やりたいと言っていたのが、朝のワイドショーだったんです。小川宏さんみたいに、8時からの枠でやりたい、と。それが、28年ぶりに叶ったわけです。ただ、「どうーなってるの?!」も捨てがたかった。あのときわかったのですが、僕は、テレビ通販でモノを売るのがすごくうまかったんですよ。いろんなものをたくさん売りましたね。最高売上は、7分20秒で7億円、というのがありましたから。それまでは3000万円売れていれば、大入り袋が出たくらいでしたが、僕がやるようになってどんどん売れるので、1億円売らないと大入り袋が出なくなってしまった(笑)

そんなこともあって、「どうーなってるの?!」を続けたくてね。8時から11時30分までずっと通しでやるのはどうかな、と提案をしたんですが、それは無理で(笑)。それで一年目は断る形になった。でも翌年、またご依頼をいただいて。そこまで請われるなら、プロとしてこれほどありがたいことはない、と引き受けることにしたんです。

――視聴率で民放4位だったワイドショー枠が、あっという間にトップを独走していきます。

普通のワイドショーみたいなものをやるのは、嫌だったんですよね。事件が起こったら、VTRで20分くらいまでスタジオが出てこない、なんてものはもういいでしょう、と。それよりもレポーターとの丁々発止があったり、冒頭で司会者が好きなことをしゃべる、みたいな新しいスタイルをやってみたかった。それで、「とくダネ!」ができあがったんです。 勢いが出てきたのは半年くらい経ってからでした。年の後半には視聴率1位になって、それから14年間、牙城は崩れませんでした。

支持を得られたのは、やっぱりそれまでのワイドショーとは違ったからでしょう。司会をやっている僕が、「このVTRつまんない」「どうしてこんなVTRを作ったの」「これじゃわかんないでしょう、こんなんじゃ」なんてことを言ってしまうわけです(笑)。でも、僕が感じたことを見ている人も感じていると僕は思っているんです。そういう感覚が、とても新鮮だったんじゃないでしょうか。

フジテレビも、いろいろ言ってくるかと思ったんですが、ほとんどなかった。自由に泳がせてくれた。どうぞ好きにやってください、という感じでね。でも、責任はこちらで取りますから、と。これは、ありがたかった。

――「とくダネ!」の司会をする上で、心がけていることはありますか?

右から見たら、左からも見る、というのかな。そういうバランス感覚は大事にしています。だから、番組の中でかなりキツイことを言うことにもなるわけですが。でも、みんなで右ばかり向いていたら、やっぱり怖いと思うんです。ニュースを通じて視聴者にも考えてもらえるように、時には皆が黒と言っても白という発言をします。

 実はレポーターとの丁々発止も台本にはありません。VTRも事前に見ません。見たら新鮮味が薄れてしまいますから。自分が自由に泳げればいい。そのときに大事なことが、能力のある人が周りにいることです。コメンテーターはその象徴的な存在ですが、普通にはしたくないんです。国際政治や経済には強いけれど、芸能には強くないですから、と聞いていた専門家に、芸能の話しか振らなかった、ということもありました(笑)。でも、これが、ものすごく面白いコメントが返ってくるんですよ。思いも寄らないところに、です。

  僕は怖そうに見えますけど、実際には怒ったりはしないんです(笑)。番組を盛り上げようという意識はいつも持っています。僕が仕掛けたゴルフコンペも年2回やっています。視聴率が1%上がるといくら、と報奨金も出していて、それをプールしてみんなで温泉に行ったりしています。それこそ最初の2、3年は年間200、300万円になりましたが、自腹を切って、みんなに喜んでもらえたら、と。番組を作るのもチームワーク。いろんな人が関わって良い番組が出来る。今では、ゴルフレッスンを1度習っただけの初心者さえもコンペに参加してますよ(笑)。

スポーツへの思い、糖尿病との付き合い、大好きな音楽

――これまでお会いしてきた方々の中で、「この人はプロだなぁ」と感じた方はいますか?

たくさんいますよ。講演でお話をさせていただくこともあります。ツイッターでつぶやいちゃダメですよ、と事前に言っておいてから、ですけど(笑)。最初にプロだと感じたのは、やはり大橋巨泉さんでしょう。見ている人を、自分の世界に引き込むのが、本当にうまい。プロですよね。でも、それだけの努力をしているんです。海外に行っても、日本の新聞を数紙、必ず読んでいます。それこそ衛星放送がまだない時代に、伊東の自宅に大きなパラボラアンテナを入れて、海外の放送を見ていました。アメリカンフットボールとか、大リーグとか。それはもう勉強していました。今も美術館めぐりをして、絵の本とかを出していますよね。とにかく、とことんやる人です。

あと印象的なのは、サッカーの三浦知良さん。メールをやりとりする仲ですが、本当にサッカーのプロだなぁと思います。自分の身体を熟知しています。あの年齢で現役。彼はすごく努力もしているけど、よくわかっているし、考えてますね。あとは、陸上の室伏広治さんもそう。筋肉がどう動いていくか、なんてことにも本当に詳しい。それぞれの専門分野でとことん勉強している人はプロフェッショナルだなぁ、って思いますよね。

――スポーツといえば、小倉さんはオリンピックを自ら現地で中継されることも話題になりますね。

iv61_03僕自身、昔陸上をやっていて、オリンピックに出たかったんです。もちろん行けませんでしたけど。実際には、オリンピックに行きやすいのは局アナで、タレントでは難しいんです。でも、僕がオリンピックを心底好きなのをわかってくれて、「小倉さんが行ったら」と言ってくれた人がいた。シドニー五輪のときは、金曜から月曜までの弾丸ツアーでした。日本時間の月曜の朝、本番の5分前にスタジオに戻ってくるような強行スケジュール。でも、おかげで、マラソンのQちゃんの金メダルも見られました。アテネ、北京、ロンドンも行かせてもらいました。冬季五輪も長期間はいられませんが、ソチも現地に行って、フィギュアの決勝を見ることになっています。

やっぱり現地に行くと違うんですよ。もう長くやっていますから、選手も僕のことを知っている。アテネのときは、僕が柔道の応援に行くと選手が次々に金メダルを取ったこともあって、小倉が見る試合はメダルが取れる、というジンクスまであって。僕を見つけると選手の家族が「小倉さん、こっちこっち」なんて言ってくれるんです(笑)。

だからこそ、メダルを取った後、選手にも家族にもインタビューができました。他の局は困ってたみたいですよ。インタビューすると、いつも僕が近くにいるから(笑)。テレビカメラに映っちゃうわけですよ。 すごいスポーツ好きだというのを、みんな知ってくれていますから、選手も信用してくれているんじゃないでしょうか。取材しやすいし、友達になっちゃうことも多い。でもその分、選手の本音を番組でも届けられる。ありがたいことです。

――いつも元気でパワフルですが、意外にも長く糖尿病を患っておられるんですよね?

糖尿とともに、もう30年。インスリンを打ち始めて20年です。みんな病気のことはカミングアウトしませんが、僕はオープンにしてきました。それこそ一病息災。そのかわり、早く起きて、自分のコンディションを知るために、血糖値を計り、血圧を計り、脈をとり、結果に応じてインスリンを打つ量も自分で決めています。

 食事を摂るときも、食べる前に血液を採って血糖値を計ってから、必要な量のインスリンを打ちます。病院からは、これだけ、と指示をされますが、お医者さんには、僕がその日、何を食べるかとか、どのくらい食べたか、なんてわからないじゃないですか。だから、自分でやらないといけない。最近では、料理をパッと見て、何カロリーかだいたいわかります。これなら血糖値がこのくらい上がる。その分、下げないといけないから、このくらいインスリンを増やそう、なんてことを毎日やっていますね。

 食べたものは、ノートに細かく書いています。血糖値の数字も、インスリンの量も。それこそ30年分のデータがある。お医者さんより僕のほうが詳しいんです(笑)。自分の身体ですからね。それこそ、自分で糖尿病を患っているお医者さんはいないので、本当の苦しみは知らないんです。痩せるのが大事、と言われますけど、インスリンって体重が増えるんですよ。そんなことも、糖尿病じゃない人にはわかりませんからね。55歳を過ぎるとダイエットも難しくなります。歩く距離も少なくなるから、気をつけないといけないんですよ。

  健康には、人一倍気を遣っています。年1回は人間ドッグを受けて、細かく調べてもらって。そのデータを、ホームドクターのところに持って行って、いろいろ相談している。お医者さんと友達になったりもしますね(笑)。一緒に食事に行ったり、ゴルフに行ったり、旅行に行ったり。お医者さんと親しくなっておくといいですよ。

――一方で、多彩な趣味を楽しんでおられます。

  趣味は持っておいたほうがいいですよね。できれば、健康の維持、というためだけじゃない趣味を持っておきたい。その点では、ゴルフはいいと思うんです。僕は46歳で始めたんですが、シングルをできるだけ長く維持して、エイジシュートを絶対やりたいです。夫婦で始めたので、共通の会話も生まれます。始めたら楽しくて、毎日のように300発、400発と打っていました。朝起きると、バネ指になってしまって。それでもまた練習する(笑)。

ゴルフはハンディが使えますから、いろんな人と楽しめます。ジョギングもいいと思いますけど、どうしても腰や膝に負担がかかる。だから、無理をしないことが大事です。ずっと30分走り続ける、というよりは、合間に季節の花を楽しんだり、出会ったワンちゃんの頭をなでたり。そんなふうにすると、同じ公園を走るのも楽しみになる。

自転車も、サイクリングコースがあります。無理に公道をスピードを出して走るだけが自転車じゃない。うまくゆとりを持って楽しむといいと思うんです。山登りも、東京でいえば、高尾山でもいい。ゆるやかな山を、カメラを手に写真を撮りながら登っていく。そういう楽しみ方もあると思うんですよね。登山と写真、みたいに2つのテーマを結びつけるのも楽しむコツだったりしますよ。何でもいいからまず始めてみる。始めてみると、意外な興味が湧いてきたり、次の目標も見つかったりするものです。

僕は映画を見たり、本を読んだりするときも、夫婦でやってみるんです。一緒に映画を見に行って、感想を言い合ったりしている時間は楽しい。そして夫婦関係は、せっつかないこと。ゴルフなんか行くと、ついつい「そこのスイングがダメだよ」なんて言いたくなるものですが、言わない。女房に聞かれたら、初めて言うようにする。そうしないとうまくいかない。夫婦で共通の趣味を持つときの、鉄則ですね。

――最後に、今後の目標をお聞かせください。

ひとつは、音楽ですね。音楽の良さをもっといろんな人に伝えていきたいと思っています。これまでも、若いミュージシャンを見つけて、世に出て行くお手伝いをするのが好きだったんです。おかげで、親しくなって、今もお付き合いしているミュージシャンがたくさんいます。EXILE、綾香、コブクロ、ゆず…。音楽って、やっぱりいいんですよ。その啓蒙を、もっともっとしていきたい。

 僕も昔バンドをやっていたんですが、なかなか楽器を触る機会がなくて。でも、60歳からドラムを始めたんです。今も1時間くらいは叩くようにしています。もともとギターやベースを弾いていたんですが、なかなか手が動かない。何か目標があったほうがいいんじゃないかと思っていた矢先、昔の仲間と酒を飲むことがあって、ただ酒を飲むのもつまらないし、またやろうよ、となりましてね。道楽としてバンドをやろうと思っています。

 仕事としては、巨泉さんは50歳セミリタイア、55歳リタイアと言われていましたが、僕は働けるうちは働こうと最近は思うようになりました。同級生たちが定年を過ぎてヒマになったのか、やたら小学校や中学校のクラス会をやりたがるんですが、そういうところに行くと、「小倉は頑張っているな」「小倉がやっていてくれて、うれしいよ」なんてみんなにも言われて(笑)。

  年齢構成から行くと、日本に高齢者はどんどん増えていく。でも、だからこそ頑張ってテレビに出ておく必要があるとも思っています。高齢者の意見を、誰も聞いてくれないことが、普通になっていきますから。何らかの形で、自分が活きる番組をやり続けていきたい。できるだけ長く、元気に出ていたい、と思っています。

講演はどんなテーマでもOKですよ。僕は講演のためだけの準備はしないんです。その場で、来ている人たちに「何が聞きたいですか」なんて聞いて始めることもある(笑)。ライブが勝負だし、面白いんです。普段から引き出しはたくさん作っていますから。いろんな話で、楽しんでもらえたら、と思います。

――本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました。

取材・文:上阪徹 /写真:若松俊之 /編集:鈴木ちづる
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