2017年07月03日

巨人との出会いは、偶然の延長試合

鈴木尚広さん巨人ユニフォーム/講演依頼.comスペシャルインタビュー

どうして野球の道に進むことになったのでしょうか?

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビュー焼肉店を営んでいた父が高校時代に野球をやっていて、長男はプロ野球選手にする、と決めていたそうなんです。だから、生まれたときから野球をやることは決まっていたんですよね(笑)。それで幼稚園もほとんど行かずに父と野球の日々でした。これがまた厳しくて。

それこそ今も覚えているのは、砂場で足を縛られて、立ったまま父が投げる玉を受ける練習をしたこと。大人の投げる玉ですから怖いんですが、足が縛られているのでよけられない。でも、10球捕るまで帰れないんです。父がいつも言っていたのは、基本の大事さ。基礎をしっかり身につけることでしたね。

そうやって自然に野球に染まっていって、小学校から近所のリトルリーグに入るんです。監督のもとで練習もしますが、僕にとってはコーチは父。家に帰っても、また練習です。父の指摘の通りに修正すると、しっかり結果が出たりするんです。だから、頼らざるを得ない存在でした。

中学校に入ると勿論野球部に入るわけですが、実際に入部してみると、野球部の監督は野球経験がない方だったんです。しかし、その先生は福島県の400m走の記録を持っていた。練習では野球よりもひたすら走らされたんです。その結果、走力が磨かれて、陸上の試合や大会によく呼ばれました。野球部の練習もしながら、陸上で走り続けたりする。当時はキツかったんですが、ここで徹底的に足を鍛えられたんです。人生には、一見関係ないと思うことでも、何らかの意味があるものなんですね。当時の自分はそんなことには気づきませんでしたが、今振り返ってみると、この時の経験が本当に良かったんだと思います。

野球部ではレギュラーポジションを取って、高校は強豪校からお誘いをもらいました。でも、行く選択をしませんでした。強豪校に入っても、レギュラーにならないと意味がないと思っていました。でないと、プロの目に留まるはずがない。となると、3年間で絶対に成長できていないといけません。これはリスクが高いと思いました。むしろ、のびのびとレギュラーでやれる学校のほうがいいんじゃないか、と。それで、父とも相談して、野球部の練習を見に行った、家の目の前にあった相馬高校に入りました。

甲子園に出ていないのに、どうしてドラフト指名を受けられたんでしょうか?

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビュー

3年の夏の大会は3回戦で終わりました。ただ、1年生のときに、東北大会でベスト8に入っていたりしたんですよね。ショートを守って1番や3番を打って。そうすると、2年の春からスカウトの人たちが練習を見に来始めたんです。初めてプロを意識したのは、このあたりから。ただ、それでも非現実の世界でしたよね。

だから、大学に進学するつもりだったんです。ほぼ、決まってもいて。ところが、関東の球団のスカウトが熱心に何度も通ってきてくださって。高校生ですから、まだ球団とは話せず、親や監督に対応してもらっていたんですが、やっぱり何度も来られるとうれしいじゃないですか。それで、プロを考えてみたらどうだ、と親に言われるようになって。ただ、これは巨人ではなかったんです。

2年生の春の大会でベスト4に入ったことがありました。準決勝は2試合で、僕は1試合目だったんですが、この試合が延長15回までもつれたんですね。実はこの第2試合で気になる選手がいると見に来ていたのが、巨人のスカウトだったんです。

ところが、第1試合が延長になって、僕の試合を見ることになった。しかもこのとき、僕はホームランを打ったりして大活躍するんです。ここで、巨人のスカウトの目に留まったんです。本当に偶然でした。延長になっていなかったら、後の僕はないです。ただ、巨人からは指名の確約はなかった。してくれたのが、関東の球団と関西の球団でした。

ドラフトの日は、本当にドキドキでした。もちろん前の晩は眠れませんでした。4位で指名ができる順番は、巨人、関西の球団、関東の球団でした。巨人の指名確約はありませんでしたから、関西の球団になるかもなぁと思っていました。ところが、巨人が先に4位指名したんです。

ちょうど体育の授業中でしたが、ドラフト指名が気になる僕は上の空ですよ(笑)。そんな中で「巨人が4位指名」と先生が飛んできて。その場は大騒ぎになりました。超重量打線が話題だった時代ですから、やはり足への期待が大きかったんだと思います。選手層は厚いですし、即戦力というより、先を見据えての指名ですよね。

ちなみに、何度も挨拶に見えていた関東の球団に行っていたら、早く1軍に上がってそれなりの活躍をしていたかもしれませんが、20年も現役を続けることはできなかったと思います。巨人だったから、足で突き抜けられた。巨人でしか、生きられない生き方ができたんだと思います。

ただ、入団したときは本当に衝撃でした。間違えたんじゃないか、と思いました。

普段の自分を本番で出すことが、いかに難しいかを痛感

6年間、2軍で過ごしているときは、どんなことをお考えでしたか?

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビュー

卒業前にドラフト選手だけの自主トレがあって、それからキャンプにも参加したんですが、圧倒的な力の差を感じました。身体も違う。スピードも違う。もちろん技術も違う。松井秀喜選手のバッティング練習は、違う練習をしているみたいでした。一人だけボールが違うんじゃないか。バットが違うんじゃないか。そんなふうに思えるくらい、ポンポンボールが飛ぶわけです。2軍選手でも、どんどん柵越えする。でも、金属バットから木製に代わった僕は、まったく飛ばないんですよ。

守備も違った。キャンプ3日目、牽制球のサインでベースカバーに入る練習だったんですが、ピッチャーに反応できなかったんです。ボールも速いし、モーションも速い。グローブで取れずに右手に当たってしまい、いきなり骨折してしまいました。

僕はキャンプを抜けて行った卒業式に、指を骨折したまま出ているんです。これがプロの現実なんだ、プロに入ろうなんて、簡単に言いすぎたんじゃないか、とすら思いました。

ですから2軍といっても、ついていくのが精一杯です。とりあえずプロの環境に慣れないといけないと思いました。与えられたものをこなしていくしかない。なんとか追いついて、自分を磨いていくしかない。

でも、僕は1年間で3回、骨折するんですね。骨折くんというありがたくないあだ名ももらってしまいました。骨折なんて、高校まで一度もしたことがないのに、です。それこそ、もっと骨を丈夫にしないと、とウナギの骨を食べたりしていました。入団間もなくケガをしやすい、というレッテルを貼られてしまっていましたから。

全員が1軍に上がれるわけではない厳しい世界。何か転機があったのですか?

5、6年目くらいになって、ようやく身体がついていくようになったんですが、それまでに気づいたことがあったんです。ひとつは、ただやっていてもダメだな、ということ。ちゃんと自分で考えないといけない、ということです。

例えば、何かミスをする。そうすると、原因が何だったのか、自分をきちんと見つめるようにしたんです。そうすると、同じ失敗を繰り返さなくなる。ここから、野球について深く考える、ということの大切さに気づいていったんですね。

ピッチャーの研究を始めたのもそうです。配球について勉強する。そうすると、考え方も視野も広まっていって、少しずつ結果も出るようになっていったんです。ただやるんじゃなくて、考えながらやる。何をやるべきかがわかっていったんですね。

もうひとつ、ケガをしやすいこともあって、トレーナーを付けることにしました。1軍選手はパーソナルトレーナーをつけていたりしましたが、2軍だとまだそこまでのお金の余裕がない。それでも、背伸びをすることにしたんです。

そうすると、やっぱり身体は変わっていくんです。それこそお金を払ってお願いしているわけですから、自分がやりたいこと、こんなふうになりたい、ということに対して的確に答えてもらえる。これは大きかった。それこそ、誰もこんなことはやってくれませんから。

ドラフトで入ると、2、3年は教育期間で、結果は求められないんです。でも、4、5年も経つと、もう球団は待ってくれない。成長しないといけない。そのために、自分でどう取り組みを進めるか。自分で考えられるか。これが問われたんだと思います。

そして原辰徳監督になって、チャンスがやってくるのですね?

どのチームも、足は魅力なんです。足の速い魅力ある選手は、どこも欲しい。ちょうど巨人は当時、突出した選手がいませんでした。しかも、原監督は新しいチームづくりのキーワードのひとつにスピードを挙げていました。ものすごくタイミングが良かったんです。たぶん、違う時代だったら、あるいは違う監督だったら、目に留まっていなかったかもしれません。

一方で、目に留めてもらえるだけの取り組みを、ずっと続けていたからこそ、チャンスがもらえたんだと思います。何もしないで待っていただけではチャンスは来なかった。右利きだと基本は右打ちになりますが、それを左打ちに変えて速さをより強調できるように自ら工夫したり、パーソナルトレーナーと速さにこだわったトレーニングを追求したり。準備ができていたからこそ、声をかけてもらえたんだと思うんです。

その意味では、野球に向かう情熱はもちろん、身体、体力、視野の広がり、投手の研究、トレーナーなど、それまで別々にやっていたことが、一気に合わさった瞬間が5年目くらいだったのかもしれません。それこそ、今年、頑張れなかったらクビかもしれない、と思っていましたから。危機感の中で必死になってやったからこそ、飛躍的に伸びたんだと思います。

とりあえず1軍でレギュラーになりたい、とずっと目標にしましたね。誰も触っていないまっさらなグラウンドに真っ先に入る、というのはスタメンの特権なんです。それをとにかく味わいたかった。

1軍デビューをして、感じたことはどんなことでしたか?

7年目でしたが、3月のオープン戦は出してもらっていたんです。ところが、ケガで開幕1軍に入れなかった。ところが、4月3日に上げてもらって。「明日から1軍に行くから」と。うれしかったですよね。お、きたな、と。でも、オープン戦とはまったく違っていたんです。

初めての出場は代打でした。代走ではないんです。相手は中日の川上憲伸投手でした。結果は三振。監督やコーチから、経験を積ませてやろう、という思いからの出場だったんだと思います。ただ、初めての1軍は驚きでした。まったく雰囲気が違うんです。鬼気迫るというか、緊張感がすごいというか。それこそ、2軍の試合の何十倍。オープン戦ともまったく違う。

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビュー正直、地に足がついていないような状況でした。なるほど、こういうことなのか、と思いました。普段、力を発揮できても、こういう場で出せないといけない、ということなんです。

実際、初めての代走のときは耳のすぐ横で心臓が鳴ってるんじゃないか、と思えるくらいでした。バクバク鳴っている。これは、とんでもないところに来てしまったと思いました。こんなところで走れない、と本気で思いましたから。

現役を引退するまで、気持ち良く走れる、なんてことは一度もありませんでした。いつも緊張感に包まれている。もちろん、期待されているのはうれしいし、高揚感もあってそれは幸せなんですが、1軍に上がったばかりの頃は、とてもそんなことを感じる余裕はありませんでした。打席に立つと緊張し過ぎて自分が自分でいられなくなるんです。普段の自分になれない。だから、いかにメンタルをコントロールするかが勝負なんだと、その時に学びました。

「自分の魅力は何か」を理解し、人と比べないこと

その難しいメンタルコントロールはどのようにするのですか?

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビュー大事なことは、逃げないことです。どんなことがあっても、自分から逃げない。必ず失敗はします。僕も失敗しました。そのときに、失敗を糧にできるかどうか。そのためにも逃げてはいけない。誰かのせいにしたり、コーチのせいにしたりしない。これでは絶対に結果は出ないし、次にはつながらない。

どうして失敗したのか。自分に向き合うんです。徹底的に考えるんです。そうすると、ちゃんとロジックができてくる。もちろん、失敗したら「すいません」と監督やコーチに謝ります。でも、ロジックをちゃんと理解してもらっていれば、何も言われません。監督やコーチも野球をよく知っているからです。

同じ失敗でも内容ある失敗ができるか。先を見据えた失敗だったか。それが大事なんです。野球には答えはありません。だから、「自分はこう思ったからこう行動した」と説明できるようになっていきました。そうすると、こいつはちゃんと考えているな、ということにもなります。また、使ってみようか、ということにもなるんです。

失敗は悔しいですよ。へこみます。引きずります。それこそ、僕の盗塁失敗でゲームセットになったこともある。悔しくて眠れない。でも、次の日は待ってはくれません。だから、しっかり反省して、切り替える。同じ失敗を二度としない。怖いけど行く。悩んでいるような時間はないんです。

プロの世界ですから、誰も慰めてくれたりしません。勝負は1対1。自分のことは、自分で成長させていかないと先はないんです。

あれだけの厚い選手層の中で、1軍で活躍できたのは、なぜでしょうか?

「自分の魅力は何か」を理解することですね。人と自分を比べない。長距離バッター、アベレージヒッター、守備、足……。それぞれ持ち味があるんです。その魅力をいかに出していくか。監督が使いたいと思う選手になるか。

それこそ全員、ホームランバッターを並べるわけにはいきません。だから、自分の長所だけを磨き続ける。必要な役割を自分で作る。FA補強で一流プレーヤーが入ってきても、ひるむ必要はありません。自分を磨けば、誰が来ても怖くないんです。

僕の場合は、足だけは負けない、と思っていました。絶対に負けない。そのために徹底的にトレーニングしていました。準備はオフから始まります。僕は地獄のトレーニングと呼んでいましたが、例えばランニングマシーンを中腰で横向きに走るんです。5分1セット。これはキツイです。苦しい。ただ、手応えはあります。安定感が出る。そうやって自分が変化していくことが大事なんです。自分が変われるのは、苦しい反面楽しいことでもあります。

そしてピッチャーの研究、反応の練習……。全投手70、80人を分析して、牽制やクセなどをまとめたノートを作っていました。相手を知っていれば自分の読みが当たる可能性も高まりますから。そしてシーズン中も、ベンチで見て、ベース上で見て、ノートを更新していく。相手も修正してきますから、それにまたこちらも反応する。

ただ足が速いだけでは、成功率は上がりません。どこまで確率を上げられるか、いろんな努力をしないといけない。その意味では、成功すべくして成功するんです。準備があるから、高い確率で結果が出てくるんです。

「足のスペシャリストに」というチーム方針には複雑な思いもあったのでは?

打って結果が出せなくなると、やっぱり使われなくなりますよね。そんな中で、経験も年齢も積んで、若いイキのいい選手も出てきて、レギュラー争いから一歩後退すると、後から出る役割にならざるを得ないわけです。そこから自然に代走が多くなった。

行きたくて行ったわけではないですよ。勿論葛藤もありました。でも、若い時と違って自分を受け入れられるようになって、レギュラーという拘りを捨てられたら、「代走」という新しい拘りが僕の中に生まれたんです。考えてみたら、スペシャリストは絶対的な存在なんですよ。そこで誰にも負けないポジションを築けたら、代わりがいないんです。チームには欠かせない存在。ちゃんと結果を出して、信頼を得られたら、2軍にも落とされないんです。

だから、一走に賭ける思いは強いです。朝、誰よりも早く球場入りして、7時間もかけて準備をしていたのは、僕が納得のいく走りをするためには、それだけの時間が必要だからです。しかも、一走は、いつ声がかかるかわからないんです。

でも一方で、そうした姿勢は人の信頼を生みます。結果だけ出せばいいわけではない。何もしない人間が、チームでは信頼を得られません。それこそ最後は、「お前がアウトになるのなら、しょうがない」と言われました。

そして僕自身も、仮に結果が出なくても、これだけやっていれば、自分を許せるようになっていきました。自分を許せるから、ますます逃げなくなった。自分の責任の中で、やるべきことをやったから、そういう境地に立てたんだと思います。

やらないといけないことをやり続けることは難しさもある。でも、それは大きな信頼を生みます。みんな見てくれているから。そして、自信を生む。自分への許しも生むんです。

何が鈴木さんをそこまで駆り立てていたのでしょうか?

鈴木尚広さん講演依頼.comスペシャルインタビューうまくなりたかった、ただそれだけです。すごくシンプルですが、子どもの頃からそれは変わりません。好きな仕事ですから。もとより答えがない。そしてチャレンジをすると、また新しい発見があったりする。使われていない何かが身体の中で見つかったりする。そこに気づける楽しさはありましたね。

でも、息抜きもしていたんですよ。僕は神社仏閣巡りが好きで、週に一度は訪れていました。四六時中、野球のことを考えていたら、心身ともに疲労してしまいます。違うことを、何かするといい。あとは美術館巡りもしていましたね。

引退を決めたのは、自分の中に揺らぎが生まれたから。後輩の指導にも責任感が生まれるようになって、自分の意識が揺らぎ始めたんです。僕は同時に2つのことはできない不器用な人間です。僕の仕事は一発勝負。ギリギリの勝負をさせてもらっている中で、後輩にも目が行きはじめた。そのことに気づいたことが大きかったですね。強いこだわりが自分自身に持てなくなったときは、引くときだと思っていました。

引き際は大事にしたかった。ボロボロまでやったら、立ち上がるまでに時間がかかるからです。いいときに決意して、次に向かうことが大事だと思っていました。

それこそ野球バカで終わりたくはありません。後輩に指導するのにも、野球以外の世界をもっと知らなければいけない。もっといろんなことを勉強して、新しい世界にもチャレンジして、人ともたくさん会って、新しい視野を持って、また野球に戻って、恩返しができたらと思いました。まずは野球から離れたのは、そのためです。

講演も大きな学びです。これまで会えなかったような人たちに会える。
僕のような人間が自分の持ち味を突き詰めて、スペシャリストとして自分の役割を見つけ、プロ野球という世界で長く生き抜くことが出来たこと、そのためにどんなことを考え、どんな失敗を重ねてきたのか。どうすれば成果を出すことができるのか。長く活躍するためには何が必要になるのか。きっと野球以外の様々な場面でも共通することがあるのではないかと思います。これからは出会った方々のサポーターになってあげたいと考えています。講演では僕なりに、お話をさせていただければと思っています。

鈴木尚広さんスパイク/講演依頼.comスペシャルインタビュー<「一走」に人生をかけた鈴木氏が現役引退まで共に戦ったスパイク>

取材・文:上阪 徹/写真:若松 俊之/編集:鈴木 ちづる
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