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読む講演会Vol.13

2018年02月23日

No.13 安部修仁/“読む講演会”クローズアップパートナー

安部修仁

安部修仁

株式会社吉野家ホールディングス会長

創業以来のバリューを、未来につなげていきたい。No.13 吉野家ホールディングス会長 安部修仁

成長性最優先から、倒産で安全性最優先の経営へ

No.13 安部修仁

今日は、V字回復の軌跡と称してお話をさせていただきます。僕の入社は1972年ですが、当時の吉野家は東京都内に5、6店舗があるだけでした。そこから1980年までの8年間が、言ってみれば、アーリーステージの急速成長の時代でした。この80年に、いろんな事情が重なって会社更正の申し立てをしまして、吉野家は、いわゆる倒産をすることになります。その後、東京地裁の管理下に入って、管財人の経営執行のもとにまったく別の経営が始まります。そこから終結するまで、87年まで7年間を要しました。創業成長期は、成長最優先、という概念で、本当にスピーディに経営判断も即断即決のハードワークの、起きている間はずっと仕事をするような急成長の時代でしたが、この成長性最優先から、まったく対極に振れた安全性最優先の経営ということに転換します。急成長の8年と安全性最優先の7年、合計15年間あったわけですが、これはまったく対極の経営の中で新たに育まれた技術やら習慣やら、まず我々自身、価値観を大転換しないといけませんでしたが、この15年は私にとっても吉野家という事業組織体にとっても、大変大きな、重要な15年でした。結果的に振り返ってみると、ここで大きな学習というか、今日に至る体質を作ってくることができたからです。チェーンというのは、小売り流通外食も全部そうですが、まず創業店でオリジナリティのあるバリュー、事業価値を作ります。その秀でたバリューを、今度は事業拡大していくために水平展開し、直線的に事業拡大する、というステップを経て行きます。吉野家の事実上の創業者は松田瑞穂です。創業店は築地店で、今も現存しています。彼の価値創造がいか程のコトか、僕自身がだんだんステップアップ、経営の立場に近くなるほど、本当に松田という創業者の経営の凄み、あるいは発想、探求心、実行力、執着心、ということを実感することになりました。

僕は1992年、42歳で社長になりましたが、そのときは吉野家は400店の単体だけでした。その後、リーダーの質量を豊富にしていく、という目的のために水平的にも垂直的にも、国内にも海外にも、いろんなブランドを新たに手がけながら、拡げてきました。現在は、吉野家事業を中心に寿司、ステーキ、さぬきうどんなど6事業部、国内は2300店、海外にも800店近くの展開をしていまして、合計で約3100店になります。海外のうち、780店は吉野家の海外店です。その出発店が、築地の吉野家です。吉野家の本当の創業は明治32年。ちょうどオリンピックの年に120年を迎えます。昔、江戸時代は日本橋に魚市場がありまして、関東大震災を経て、築地に移転します。事実上の創業者、僕らが親父と呼んでいる松田瑞穂は、第二次大戦のときに戦地から復員してくるんです。もともと法律の勉強をしていたので、本当は法曹界に行きたかったんですが、彼は東京大空襲で焼け野原になった築地で、家業の牛丼屋を継いだんです。当時、周辺の飲食店やら金物屋さんやらの小売店含めて、家業的な店を集めまして、東京都とかけあっています。今も現存していますが、フードセンターを作り、左端の角に、吉野家は戦後、復元するんです。10坪もない、当時は20席くらいの小さな店、というのが事実上の創業店です。彼は復員して戻ってきたわけですが、それでも家業を継いだ限りは、なんとか事業化して、社会的なものにしたい、という強い思いを持っていました。彼の使命感は2つです。戦地で死なせてしまった多くの若い部下たちのためにも、戦後の復興に向けて若い人たちを育てたいということ。そしてもうひとつが、やるからには、社会的な事業にしていきたいということ。彼はこの使命感を持ち、経営の目標を掲げて、さまざまに挑戦していくことになります。

「うまい、はやい」は築地から始まったから生まれた

使命感もそうでしたが、彼は、いろいろな目標をきちんと掲げていました。数字的にも、目標をきちんとメルクマールとして持っていました。例えば、築地店なら朝5時開店、昼の12時過ぎまでの限定的な営業時間で、年商1億円という事業規模を達成する。あの立地で、この数字は、相当な目標値だったと思いますが、そうするためにはどうするのか、に落とし込んでいきます。1日の来店客数を1000人にしたんですね。あの面積と営業時間と一般の人は立ち寄らないクローズドマーケットの中で、1000人の客数獲得は、とんでもない目標です。でも、そこから逆算して、ならば目標に至る条件は何か、というところを探っているのが、彼の類い希なところでした。吉野家が「価値の3要素」としている、「うまい、早い、安い」という3点の中の、うまい、早い、というのは、築地という特殊な環境の中で育まれたんです。1000食出す、というのは並大抵のことではなく、来店頻度を極限まで高めないといけない。もっというと、ユーザーに毎日来ていただける、という商品特性を作らないといけない。うまい、という条件は、後味と身体に馴染む食後感をテイストとして形成しなければいけないという思いから生まれています。この話になると僕はよく言うんですが、すき焼きと牛丼は似て非なるものなんです。A5の国産の特殊な高級肉、サシの入った肉で作られたすき焼きというのは、毎日、続けて食べられるようなものではない。その毎日は食べられないすき焼きを最初の原形としたのが牛丼ではあるんですが、それを毎日でも食べられるようにするために、素材の肉の特質も、タマネギの特質にもこだわりました。それを大きな鍋で加熱して煮るときに出てくるジュース、それとタレが相まって、独自の後味のいいテイストが出てくるようにしたんです。これがまず、松田が飽きない、毎日でも食べられる、とした「うまい」の条件でした。

もうひとつが「はやい」です。日本人は、サービスというものについて、世界中で最も感度が高い国民だと思うんですね。あなたにとってのサービスの定義は、というと、一人ずつそれぞれ違う説明が来る、という国です。松田のバリューづくり、オリジナリティづくりの個性的なところは、そのテーマ、<項目>の構成要件を最小単位までブレイクダウンしたら、それを構成する優先性の高い、テーマに集中特化してしまうことです。それ以外のものは思い切って捨てるんです。これは、彼のバリュー作りの特徴でした。サービスにはたくさんの要素があります。その中で優先順位を絞り込むわけですが、築地の特性のひとつは江戸前の粋、せっかちさです。魚市場の人たちは本当に忙しく走り回っていますから、ぼやぼやしていると本当に突き飛ばされます。そんな風情が、かつての築地にはありました。ですから築地でもいろんなサービスが求められたわけですが、松田がこだわったのが、「店に入ったらすぐに出てくる」というクイックサービスだったわけです。こうして松田は、吉野家のサービスの一優先事項を「はやい」に据えました。据えたら他のもの、例えばご機嫌伺いの「今日はいい天気ですね」なんてコミュニケーションはサービスの行動から全部捨てる。そうすることで、一優先を際立たせるわけですね。総花的にあれこれやると、この優先性の高い項目が損なわれてしまうんです。これは松田格言、松田語録のひとつとして残っています。「はやい」というものを最大のサービスに置いたら、邪魔する劣後のものはないほうがいい、と考える。僕らもやっていてわかるんですが、いろいろなことをやり始めると、途中でやめたり捨てたりというのは、本当に勇気がいることなんです。でも、総花的にやると優先性の高いことが際立ったことにならない。2つの要素、なくてはならないものに集中して際立たせたということです。

成果を挙げた社員には思い切り報いる

僕は、アルバイトとして新橋店に入りましたが、社員として入社すると築地店に配属されました。7、8時間の営業時間で少ない席数で1000席というのは、とんでもない集中の仕方と回転なんです。ほとんどのお客さんの注文は聞かない。毎日いらっしゃるヘビーユーザーですから、顔と注文を覚えて、入られた途端に鍋の前にいるリーダー、店長か代行者が、すぐにオーダーを作る。あの人は頭の大盛り一丁、この人は軽いお皿でネギ抜き一丁、入り口で顔を見ると注文を作る、ということが習慣的に行われていたんです。着席され、提供するまでに満席の状態の中で15秒。ほとんど信じられない世界です。作り置きしないで、お客さんが入られて、作って提供するまで、でいうと、たぶん世界一だと思います。もちろん速さを極めていくために、道具立ても、バックグラウンドとしての店に届くまでの準備の仕方、イクイップメントの作り方、チームのフォーメーション、すべてについて、そのために何をどうするか、ということを、ひとつずつ極めながら、その整合性をチームフォーメーションとしても作っていきます。これが吉野家の特徴なんです。

こうして、卓抜な価値、バリューを作ったあとは、一気呵成にチェーン化していくことになります。昭和32年に株式会社化するんですが、昭和30年代の半ばから、流通外食は一気にチェーン化をしていきます。それまで商業分野では、百貨店しかビッグビジネスにはならない、と言われていました。しかし、アメリカで生まれたチェーンストアという経営の概念と技術がビッグビジネスを商業分野でももたらす、という事例が次々に出てきました。広域流通外食の創業者たちはこぞってアメリカの事例を勉強していく、という中で、松田もご多分に漏れず、アメリカの事例を研究しながら、一気にこの規模拡大を図っていくわけです。僕らが入社した1972年は10店舗ない時期でしたが、すでにこのとき松田は、国内200店構想を持ち、ばく進していました。そのために組織開発、人材開発にプライオリティに置いて取り組みを進めていました。

本当に倍々ゲームの中で、40〜50店に至るくらいのところから、全国チェーン展開が始まりました。全国の主要都市に、吉野家の地区本部を作っていきました。松田の人の育て方は、大胆でした。僕も入社以来、いろんなセミナーなど、毎月の給料以上に教育投資をしてもらいました。それに加えて、評価もシビアでした。際だって成果をあげた人間にはインセンティブは高いんですが、成果をあげない人間には極めて冷淡。本当にできる人間には、新しいステージ、新しい課題をどんどん提供していきました。そしてステージアップして新しい仕事につくたびに報酬が上がっていく。一方、できない人間は同じ仕事からちっとも変わらない。報酬も変わらない。昭和40年代後半、給料は10万円に満たないのが普通でした。ところが当時、一番の店長は夏、冬、ボーナスが100万円出ました。僕は福岡が郷里でしたので、九州に作るときには地区本部長をやりたいと志願していました。店長を経て、スーパーバイザーを経験した若手には、次の場としてゼネラルマネージャーという地域の経営の場を用意してくれたんですね。僕は27歳でこの仕事につきました。経営やマネジメントの原形をここで学ぶことになりました。

100店舗を達成したら、翌年には200店舗が目標に

No.13 安部修仁

1977年、昭和52年に100店を達成したとき、翌年には倍数の200店を達成する、という宣言をしていました。77年に100店突破したとき、ご丁寧に「来年の8月、ホテルオークラで200店突破記念のパーティをやる」ということで予約をしていたんです。何かやろうと思ったら目標を掲げて、そこからただちに活動を始める、というのが松田のスタイルでした。ただ、200店までの100店ぶんの店舗が決まっていたわけではなく、ここから店舗物件の開発も始まりました。その意味では、さすがに乱暴な話でした。こういう講演では失敗の原因分析のほうが、学習効果があるので、これについても語らせれば1時間くらい語るんですが、ここではいくつかだけご紹介します。例えば、1年で100店作らないといけない。そうすると立地を吟味しないまま、契約を急ぐことになったりします。それまでは売り上げ予測を立て、慎重にいろんな要素で吟味し、及第点になるものを俎上に載せて開発していたのに、おろそかになってしまった。数、スピード優先でやったときには何が起きるのかというと、赤字店が比率として高まることになります。時間を節約し、慌てて交渉するとコストが高くなるんです。保証金も家賃も相手に有利なように収斂してしまう。売り上げ見込みも損ない、赤字店が増える。

もう1点、吉野家は肉はUSビーフにこだわっていました。12カ月の生育牛に6カ月以上、トウモロコシを中心とした穀物肥育をして育てていたのは、アメリカだけでした。しかも、数も確保できる。日本も穀物肥育をやっていますが、生産者が零細なので、量に対応できない。バラツキが大きいんです。動物性タンパクの商品は、味の決め手は、品種ももちろん作用しますが、品種以上にエサの種類と、そのエサをどのくらいの期間、与えているか、ということです。鶏豚牛、魚もそうです。その意味で我々の牛丼には、質的にも量的にも、コスト的にも最も適応しているのは、USビーフ以外にはなかった。吉野家はUSビーフの規格の中のショートプレートというバラ肉のところ、121の品番のものだけを仕入れていました。それを特殊なカットでお願いしていた。しかし、農畜産物は世界中そうですが、農業分野が最も貿易、とくに輸入に対しては障壁が高いわけですね。100店舗から200店舗になるということで、同じ品種のものを一年で倍数求めることになる。相場も上がるし、輸入制約上も独自調達は難しくなるんです。そこで松田は、独自の冷凍乾燥肉を研究開発していました。これなら輸入制約の外にあるので自由にやれる。しかし、技術開発は進めていたものの、完成しているとは言えなかった。ところが、牛肉の調達が難しくなり、質が伴わないうちにこれに先行的に手を出してしまうわけです。

ある時期から1割、それでも足りないので2割、最後は3割までのせて、相場を下げることと量を確保しようと考えたんですが、相場は変わらなかった。質を劣化させた上に、調達困難になったコストに合わせて値上げを決断せざるを得ませんでした。売り上げを落とすためには何をすればいいのかというと、まずくして値段を上げることです(笑)。これに限ります(笑)。売り上げも下げ、赤字店も増え、金融機関がここまでしか貸せないという限界を超えて投資がかさみました。しかも、その頃から同時並行で、アメリカの200店構想もぶちあげていました。その1年前からカリフォルニアとコロラド州に数店、展開は始まっていましたが、地区本部長をやった20代後半の僕を含めた4人のメンバーは、アメリカで新しくメトロポリタンにブランチを開くために、アメリカの大学に1年間、語学留学に派遣されていたんです。僕はイリノイ州のある大学に行って、79年8月から1年間通う予定だったんですが、行っている間の8カ月目、1980年4月に帰国命令が来て、その年の7月15日に会社更正の申し立てが行われることになりました。吉野家は成長真っ只中、日米イケイケどんどんで成長ドライブをかけている真っ最中に急遽、倒産したんです。

いいことのあとには、必ず悪いことが起こる

幸運だったのは、東京地裁から派遣された弁護士の先生方が、非常に志のある聡明で素晴らしい方々だったことです。ここから、それまでとは対極の経営の中で、僕らは多くのことを学びましたし、今につながるさまざまな新しい進化形の、新しい突然変異の中での進化DNAは、先生方に形成していただくことになります。これは、我々にはありがたいことでした。端的に前と何が違ったか。僕らが立体感を持って学習できた事例を申し上げると、創業経営というのは、ある種の創業経営者の自己実現の発揮だと思います。松田は志を持ち、社業を自らの「私の損得」以上に考え、フィロソフィーを浸透させていましたから、僕らは共感を持って彼の夢の実現が、僕らのオーバーラップした夢ということにできたんです。しかし、今日思ったことは明日実行する、というスピード感が当たり前で、政策発想も、そのための手段もフィクスしたモノとして松田から全部出るわけです。組織、人材は、それを実現するための装置になっていました。一方、弁護士先生流の経営は違った。僕らがまず戸惑ったのは、いろんな案件で、企画書や提案書を持っていくと、第一声が「これ、いつまでに決めなきゃいけないの」だったことです。僕らは、まったく初めて聞く、執行者からのリアクションでした。意味がわからなかった。決定のシステムがまったく違っていたんです。決めるまでに何をやるのかというと、目的に対しての手段として他の選択肢を求め、検討する。だから、別の手段、別の選択肢を、必ず複数で求める。そのときから僕も、決定とは、たくさんある選択肢の中から他の選択肢を全部捨てて、ひとつだけに絞る、ということだと自分の定義も変えました。安全性の経営感覚の実践の仕方のひとつでした。

また、新しく発想するものは必ず店舗で仮説検証の実験をやりました。それまでは思いついたことは翌日すぐ実行でしたが、店舗で売り上げを上げるテーマも、コストダウンするテーマも、全部、仮説に基づいた目標を計算して、その結果が得られるかどうか、店舗で実験したんです。すべてについて言えますが、最初は思った通りにはできません。したがって、その目標水準を達成するために、いろんな試行錯誤をしないといけない。それを経て目標値に至ったときに、それを全店にリリースする、ということにしました。中には、仮説通りにいかなくてボツにしたものもあったでしょう。人間が発想するものには間違いが多いのだと、つくづく感じたところです。

それやこれやで、吉野家は翌年から黒字化しました。僕らの再建は、まず原点に回帰することでした。初動は、吉野家の本来の強みを再現することです。吉野家は倒産でメディアからも世間からも総バッシングにあいました。ダメになったときは、全否定されます。でも、全否定しないといけないことはないんです。特に固有のオリジナリティや特徴というのは、長所と短所が合わせてそこに存在して個性になっています。それを全否定して取り組むと、個性的長所、持ち味が、全部殺されてしまう。そこで、まずは我々が自ら劣化してしまったポイントを一つずつ解明して、それを復元することを先決にやっていきました。質を高め、赤字店を減らし、粗製濫造してスキルの低かった店長が100人いましたからリトレーニングでスキルアップし、店長のスキルに足るものにバランスする店舗数に絞りました。これが翌年からの黒字化につながりました。

吉野家の再建は、前代未聞だったと思います。翌年から黒字化し、3年目に会社更生の弁済計画が始まり、5年間で100%収益弁済してしまったからです。他にこんな事例はなかったのではないかと思います。実際、87年には収益弁済で110数億円を弁済し終え、3年目くらいから売り上げも利益も良好な会社になっていきました。新株の発行も行い、セゾングループが資本を受け持ちました。ところが、セゾングループもバブル崩壊で瓦解し、そんな中で1992年、42歳のときに僕が社長になりました。1990年、倒産の10年後には株式を店頭に登録する、というIPOも果たしていました。83年に更生計画をつくる時、最小単位になった社員には、2、3年は時間を捨てたつもりで、混乱が鎮まり、軌道に乗るまでやっていこうと伝えていました。そして、社員持ち株会を作ろうと呼びかけていました。。本当なら自主再建もできたんですが、セゾングループに親会社になってもらっていましたから、持ち株会は、なんとか自立するためのひとつの手段でもありました。こうして90年の公開のときには、億万長者が出てくるんです。このとき、つくづく人間万事塞翁が馬を実感しました。いいことは必ず悪いことにつながるし、悪いことはいいことにつながる。自分の利害を超えて、苦しい2年間、3年間を耐えた仲間たちが、結果的に恵まれたわけです。やめていったみんなとも今でも年1回会いますが、あのときに残っていれば、と思った人もいたと思います。

牛丼しかないのに、牛丼販売を中止することに

No.13 安部修仁

後に僕は瓦解した会社の管財人なども引き受けることになりますが、ダメになったのは、どこが起点か、ずっとトレースしていくと、一番絶頂のときにだいたい種つけをしている、ということに気づけるんです。これ、個人も会社もみんなそうだと思います。結局、いいときって、調子に乗ってしまうんですね。良くなったら、お世話になった、まわりの方に感謝すればいいんですが、オレがやった、という驕りが出てくる。オレだったら何でもできる、と始める。それが、だいたい足を引っ張っていく種になっていることが多い。よくなったときもトレースしていくと、実はその起点は、一番ボトムのときに利害を超え、自分の役割だから、と頑張ったケースが多い。厳しい状況のもとではモチベーションが高まりませんが、そこで損得を超えていかに頑張れるか。実のところ僕自身も、モチベーションの源泉はない中でリーダーシップは醸成できたと思います。部下やら同僚やら、みんなのために全力で活動するということが、信頼感を作ってくれたのだと思います。92年に社長になったときには、本当に順調に進んでいる会社でした。無借金で、収益性も高い会社。5年で収益弁済したくらいですから。社長になっている間、2ケタの営業利益率、10%以上、いいときには14〜15%が何年か続きました。その最中に2004年、BSEの問題が勃発するんです。

僕が社長になって12年経過した2004年。厳密には、前の年の2003年、12月24日です。年末は12/28が東証の大納会でした。その日から、正月休みまで閉まりますから、正月の休業期間に行われる重要な営業方針の変更は、それまでに東証にリリースしないといけません。そんな中で24日の深夜にアメリカから電話がありました。だいたい深夜に入ってくる電話というのは、アメリカでも国内でもロクなことじゃないわけです。特殊なことが勃発している。このときもいくつかを想定しましたけど、その中の最悪の想定が、BSEの発生でした。もっぱらUSビーフを主原料にしておりましたので、もうほとんどその日に、これは再開するまで牛丼は休止しよう、と内々では決めていました。深夜だったので、幹部6名で毎朝8時から朝会というのをやっていましたが、彼らにメールを送って、彼らの立場と役割の中で、情報収集と当面の善後策を持ち寄って、早朝ミーティングをしました。このとき僕が牛丼は休止しようと言ったら、1人は不安と起こり得る事態を心配していましたが、みんなだいたい共有できまして、裏付けとしていろんなことをカテゴリー別に確認をして、翌日にはもう休止を決めました。牛丼休止は2年半に及びました。こんなに長くなるとは思いませんでしたが、安全の条件づくりでいえば、僕らは確信がありました。本当は半年未満で片付くのではなかろうか、と。でも、こういうものはだんだん騒動が大きくなって、政局のネタになっていくと、反対のための反対運動も出てきますから、長引くんです。でも、初動の3日、3週間、3カ月というのが、やっぱりキモでした。28日に東証で発表するまでに、国内のフランチャイジー、加盟店を東日本、西日本に分けて、我々の牛丼抜きでの営業の体制、商品の作り方、商品構成もろもろをメッセージしていたんです。これは、社内の幹部とコンセンサスを持っていたからできたことでした。それにしても、よくあの短期間の中で、決められたと思います。振り返ると、普段、自分の細胞をいかに眠らしているか、ですね。8割くらい、使っていないんです。ああいう急場になると、すべての細胞が活性化する。そうすると、たいていのことは短時間でできるんです。これは、こういうことが起きて、つくづくわかったことでした。

吉野家だったら、牛丼抜きでもきっとやれる

No.13 安部修仁

初動で休止を決めましたが、そうするとメディアも、社員の家族たちも、心配し始めました。単品の牛丼しかやっていない吉野家が、単品牛丼を1000店規模でやらない、というわけです。つぶれるんじゃないか、と。記者発表の中で申し上げたのは、うちの連中だったら、牛丼抜きでも半年か1年、時間をもらえば外食のアベレージ並みの売り上げ利益というのは、はじきだす、稼ぎ出す力を持っている、という確信でした。シナリオとしての根拠はないけれども、その確信だけはありました。みなさんにいまだに、他のところはみんなやれたのに、と言われます。肉はあるし、牛丼という商品自体を作ろうと思ったらやれないわけないじゃないかと。でも、やらなかった2つの理由がありました。一つは、短期対応で、ブランドイメージを損ないたくなかったこと。僕は、重要なテーマほど迷うんです。そのときは、時間軸に向かいます。短期当面の、刹那的な時間レンジでの判断と、長期レンジでの判断というのは、同じテーマでも右と左に判断が分かれるんです。迷ったときには、感情的に短期対応のショートレンジの軸でやりたい思いが出てくる。でも判断は長期レンジで行って、感情的に選択しない。いろんなものを振り返ったり、事例を眺めた上でいうと、そっちのほうが間違いが少ないと思います。迷ったときは5年後に自分を置いて、今の自分を俯瞰的に見て、別のほうに行こうとしている自分をときどき引き戻す、というようなこともありますけども。

吉野家の牛丼はほとんどヘビーユーザーで構成されていました。その方々の期待に応える。期待を裏切らないというのが、まず第一義だったんですね。別の素材でやると、タレの構成成分も変えないといけなくなる。肉汁とそれに合うタマネギの甘みとが加熱したときに出てくるものに、一番適合するタレを白ワインを中心に作っていました。素材が違うと、特に鍋物ですから合うものにするにはタレの構成成分も変えないと合わないわけです。結果的に味が違う。早く出せ出せと言いながら、別のものが出てくると、「これは吉野家の牛丼ではない」と怒り出すのが、吉野家のお客さんだと自負しておりましたので、そうならないための活動努力を僕らは続けてきたつもりでした。失望させるくらいだったら、永遠になくなるわけじゃないから、再開させるまで待とう、と。これが、ブランドイメージを守っていくことにつながる、と。

もうひとつは、それでもつぶれたんではしょうがないわけで、その意味では僕は松田が作り出した吉野家のバリューというのは、本当に高い目標、尋常ではない探求心と実行力と粘着性の執着心でなんとか達成する、というための発想やら、その工程、道程で、それこそが強みや特徴だと思っていました。素材の求め方から、キッチンに至るまでの保管、物流、キッチンオペレーションとチームフォーメーション、もろもろのことがこうでなければ、ということを突き詰めての、実践の仕方に吉野家の強みがある。だから、社員たちにも初動のところで、「うちの連中だったら半年や1年そこらで必ず牛丼抜きでも同業他社なみの売り上げ利益は作り上げることができるんだ、ということを確信しているし、そのことを外に言ってきたから」ということを最初に呼びかけたんです。あとは先達のおかげで、その時点ではキャッシュリッチになっていましたから、そのことへのステップと時間の余力を与えていただいていたことは大変大きかった。

誰に向けて何をいつまでにメッセージするか

というようなことで、さまざまに僕のこのときの目標は、牛丼抜きで、なんとか1店1日あたり500人の獲得客数になるような魅力的な商品を牛丼抜きで構成しよう、と。そのために4品目、MM4、メニューミックス4品目で500人をゲットしよう、ということと、それからそれを受けて5%の利益というものを、なんとか作り出そうとしました。みんなガムシャラにやってくれて、このときほど忙しかったことはなかったのではないかと思います。だいたい余計なことを考えるのは、暇だからです。問題提起やら何やらと称して、これがやれないのは、この部門が成果を出せないのは、あの部門がこうやらないからだ、なんてことをよく言ったりする。松田はそういうときは、相対しないで、一言「お前、暇なんだ」ということで返していました。自分で課題があって目標があって、期限があって、という中で、全力でやらないと達成できない中でやっていると、それ以外のこと、他のことに目が行かないんです。当時も、こういう状態の中だったと思います。そして、こういうときに大事なのは、誰に向けて何をいつまでにメッセージするか、そのための中身をどう作るか、ということです。カテゴリー別に、タイムリー性の時間レンジは違います。でも、完成度はなくてもタイムリー性の中でメッセージする、ということが大事なんです。稚拙なものでも、またメッセージすればいい。修正して、完成度を高めていけばいいんです。幹部たちには修正のたびに、そのことをメッセージして、共有していました。そうすると彼らは部門に持ち帰って各スタッフに、これがいつからこう変わる、と伝える。各スタッフは、自分の役割に基づいて課題と目標と時間レンジ、というロードマップを作れる。結果的に5%、500人達成のための、という一つの方向にベクトルを収斂させていけたと思います。

このときは、下期の立ち上がりの9月がトントンで、下期は黒字になりました。それでも、上期の大赤字は消せませんで、2004年度は赤字でしたけど。2004年度の下期以降は半期ごとを見ても、売上利益は高まっていって、500人と5%は2年を経たあと達成できました。瞬間的には7%まで行きました。それを経て2007年、経営の新陳代謝を目指して、吉野家ホールディングスという純粋持株会社にしました。こうした中で、窮状を克服していくという克服力と、ディフェンシブにもオフェンシブにも、高い目標を短い期限の中でチャレンジしていくというチャレンジングスピリット、この2つの克服力、挑戦する魂、という2つが吉野家のDNAだと改めて認識しました。これを未来につなげていきたい、ということで、毎週やっていました吉野家塾では、それをメッセージしていきました。社長に就任して以来、松田が作ったバリューをなんとか未来につないていかないといけない、とずっと考えていました。そのためにはマーケットの変化にアジャストしていく必要がある。目に見えるもの、、姿形あるものは諸行無常で全部変わります。今、吉野家にあるものは、牛丼も含め全部、変わる。30年で変わるものもあれば、10年で変わるものもあれば、1、2年で変えないといけないものもある。とにかく変わるんだ。変わるものについては、変わることを怯えて、それを保身になっていくと、本当に窮屈になっていくから、どうせ変わるものは変える、という能動的なつもりでやっていく、ということが有効ではなかろうか、ということを言っております。

(文:上阪徹)

安部修仁

安部修仁

安部修仁あべしゅうじ

株式会社吉野家ホールディングス会長

1949年福岡県出身。高校卒業後、プロのミュージシャンを目指して上京、バンド活動の傍ら、吉野家のアルバイトとしてキャリアをスタート。アルバイトからトップに上り詰めた叩き上げの経営者として知られる。 …

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