■経歴
1949年、広島県生まれ。 福山電波工業高校(現・近畿大学付属福山高等学校)から、
東京オリオンズ (現・千葉ロッテマリーンズ)に入団、
大きく振りかぶって真っ向から勝負する独特の「マサカリ投法」を生み出す。
ケガから復活し40才まで投げ続けた投手は他に類を見ない。
1992年、生月島を皮切りに『豪腕・村田兆治、島を行く』として、
全国の有人離島をまわり野球教室などを通して離島の人々とふれあい、 島おこしにも一役かっている。
今後、ライフワークとして勝ち数と同じ「215」以上の島を回るのを目標としている。
合わせて『マサカリ基金』を設立し、離島の人達の野球を支援したいと計画している。
2008年7月、かねてから目標としていた全国離島少年野球大会を開催。大会提唱者および名誉会長を務める。
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1967年
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ドラフト1位で東京オリオンズ(現ロッテ)に入団。
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1969年
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先発、完投、完封、安打、打点、得点と異例の初づくし勝利をあげた。 |
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1971年
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プロ入り4年目にまさかり投法を完成し初めて2桁勝利。 |
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1976年
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21勝をあげ最優秀防御率投手、奪三振王を獲得。 |
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1982年
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右肘痛で検査したが結果は手術以外に治療方法がないと診断される。 |
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1983年
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渡米して日本人選手として初めての手術を受ける。 |
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1985年
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シーズン初登板以来3週連続日曜日に完投勝ちし「サンデー兆治」の異名をとるなど
話題をふりまきながら開幕から11連勝し不死鳥のごとく蘇り17勝5敗でカムバック賞を受賞。 |
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1987年
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62年には無死球完封試合達成、2000奪三振(史上13人目)と記録を重ね、
ケガから復活し40才まで投げ続けた。 |
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1995年
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この年より3年間、福岡ダイエー・ホークス、投手コーチを務める。 |
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2001年
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プロ野球マスターズリーグ(プロ野球OBリーグ)では、東京ドリームスに所属。
マサカリ投法で無失点、最速138キロの好投を見せる。
その後、140キロのスピードボールも記録をする。 |
| 2005年 |
野球殿堂入り。
現在は野球評論家として活躍をすると共に、プロ野球OB13人により
長崎県対馬市に設立された対馬まさかりドリームスの監督兼投手。 |
■主な講演テーマ
「人生先発完投」
順風満帆に送っていた野球人生に突如起こった肘の故障。
今後の野球人生をかけてその肘の手術に挑むまでの心の葛藤や術後リハビリ中のモチベーションの維持、
そして再びマウンドに上がり200勝を挙げるまでの目標の持ち方を中心に語ります。
また、真剣勝負から学んだ精神力鍛錬法などのお話をします。
■講演料金目安
要相談
■主な著書
『剛球直言』 (小学館)
『右腕の傷あと』 (マガジンハウス)
『村田兆冶の直球人生』(日刊スポーツ出版社)
『先発完投わが人生』 (トクマブックス)
『哀愁のストレート』(青春出版社)
『速球の流儀』 (ワニマガジン社)
『まだ現役には負けられない!-自分の人生、自分がエース!先発完投で生き抜いて』
(プレジデント社)
●村田兆治氏が大会提唱者・名誉会長
「国土交通大臣杯 第1回全国離島交流中学生野球大会」開催記者会見の様子(2008年7月1日)
村田氏のライフワークでもある「離島の野球教室」の活動が、全国の離島の中学生を集めた
全国大会という形で結実しました!
・村田氏の会見コメントより(要旨抜粋)
| <開催記者発表会見にて> |
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▲参加自治体の町長たちと団結 |
「私は現役引退後の18年前から離島をまわり、子供たちに野球を教えることをライフワークとして続けています。今まで訪れた島は全国50箇所以上、延べ100回にのぼります。
ただでさえ外部との接触が少ない離島の子供たちに、「本物」を「現場で」見せることで、自分自身の今のレベルを知り、そして「もっと頑張ろう!」と夢を持ってもらうことを目的に続けてきたこの活動ですが、私だけでなく、各島の市町村長さんのご協力によって、今回のような大会を開催することができました。
また、この大会は単に離島の中学生を集めて野球の試合をするだけでなく、“離島振興”の意味もあります。少子高齢化や燃料の高騰など、逆風が吹く離島を活性化させ、離島から何かを変えていこうと考えています」
【大会概要】
■国土交通大臣杯 全国離島交流中学生野球大会
開催地: 東京都大島町
会 場: 大島町野球場・マイアミ球場
期 日: 2008年7月25日(金)〜28日(月)
参加自治体: 10自治体
(北海道奥尻町・新潟県佐渡市・東京都大島町・同 三宅村・
同 八丈町・三重県鳥羽市・島根県隠岐の島町・愛媛県上島町・
長崎県対馬市・鹿児島県屋久島町)
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