第四回
「成功の裏側」 青島 健太さん
テレビのスポーツキャスターやスポーツライターとして有名な青島健太さんが以前在籍していたヤクルトスワローズを退団してから今日に至まで、いったいどのような経験をされてきたのかを知っている人はどの程度いるのであろうか?ぽっとテレビに出演してなんとなく有名になったんじゃないの、なんて考えている方々も多いはず。
成功した人たちの成功したあとの華やかな姿だけを見て、ただ 漠然とその姿にあこがれているだけでは、とうていその人たちのようにはなれないし、成功のための真理にたどり着くことは絶対にできない。真言密教の開祖、空海を空海ならしめたのは
あまり資料の残っていない空白の7年間と言われている。真理 は大抵こういった空白の部分に宿るものである。
今回はスポーツライターとして「飯」が食えるようになるまでの、青島健太を綴ってみたい。そこに真の青島健太が存在すると私は、確信している。
慶応大学から東芝に進みヤクルトに入団したのが27歳の時。 青島さんは当時をこう振り返る。
「27歳と随分高齢でプロ野球の世界に入りましたが、10年 はこの世界で飯を食っていきたいと、そう思っていました」 プロ初打席で初ホームランを放った氏である。この思いも決して不可能な思いではなかったはずだ。
「確かに怪我もあったんですけど、精神的な怪我の方が重要でしたね。どういったらいいんでしょう。簡単に言うと集中力がプッツンしちゃったんです。あいつを蹴落としてでもレギュラ
ーの座を奪い取ってやるぞ、みたいな、集中力が。この集中力がなくなるとプロ野球選手としては失格ですね」
5年間在籍したヤクルトを退団した後のオフ、新しい人生を模索中に、東京広尾の図書館で知り合ったオーストラリア人との
会話がヒントとなり、半年間の研修の後、オーストラリアへ日本語教師として渡る。
「オーストラリアの何もない地区でしたね。欲望を満たせるものが何もない。ただただ今後の自分の生き方について考える以外、何もないんです。それに加え、地域の人たちとコミュニケーションが取れない。英語が上手くしゃべれないでしょ、伝えられないんですよ。僕が本当にしゃべりたいこと、細かいニュアンスなどが。だからより自分を見つめ直す時間が増える。そうしているうちに、とにかく伝えてくて伝えたく仕方なくなっ
てきたんです。何でもいいから伝えたくて。考えているだけじゃなくてね」
このとにかく伝えたいという思いが、今の青島さんの原点であ ると言う。また同時に野球というものに対しても再度考え直させられたと言う。
「オーストラリアで知り合った人々との交流を通して、厳しい プロ野球生活の中で忘れかけていたスポーツをする喜びや、楽 しみ方を思い出しましたね。そのスポーツの素晴らしさの伝えてとなりたい。そして、とにかく伝えたいという欲求との思いが物凄いエネルギーで合致して、スポーツライターとしてやるぞ、と決意できたんです」
決意とともに青島さんは帰国することとなるわけですが、ただ 決意して、帰国したからと言ってそんなに直ぐに食(職)にあり付けるわけではない。
「なんとかなるまではライター以外にアルバイトをしていましたね(笑)。そんなに直ぐに飯が食えるわけじゃないですから」 小さな実績を重ねるうちに漸く、「Number」などのメジ
ャー誌の依頼を受けるようになったと言う。そしていくつかの 連載がNHKスポーツ番組の目に止まり、テレビ出演となる。 青島健太メジャーデビューの始まり、1993年、ヤクルト退団3年後のことである。
とかく華やかな部分だけを見ては軽はずみに夢を語り、全く真実や真理を見つめようとはしない。真実や真理ほど泥臭いものはないからだ。成功者は必ず、目に見えない裏側で、それ相応
に努力や苦労を重ねてきているはずである。成功者になりたけ れば、真理を見抜いた努力や苦労をせよ。別にやみくもな努力 や苦労をしろと言っているわけではない。それほど無意味なも
のはないからだ。我々は平等な「人間」である。優劣など絶対 に存在しない。もの事を軽く捉えず、真剣に見抜く。真剣に見 抜く気があれば必ずや真理が見えてくる。真理が見えればこっ
ちのものだ。その真理を体得するために真剣に行動すればいい。 誰にでも出来るはずである。真剣に頑張り。生き抜く。そんな人生が絶対に気持ちいいはずだ。
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