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  「講演依頼.com」トップ > 広瀬一郎プロフィール > 寄稿記事「スポーツマンシップを考える」


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 「『スポーツマンシップ』を考える」
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スポーツジャーナル5/6号 2003年 (財)日本体育協会

馴染み深いが意味不明?

「宣誓!我々は、スポーツマンシップに則って、正々堂々と闘うことを誓います。」

高校野球を始め、青少年のスポーツ競技大会の開会式でお馴染みの光景で繰り返されるフレーズである。ところがいざこの「スポーツマンシップ」という言葉の意味を問われると、ほとんどの方は口ごもるに違いない。同様に、私にとってもこの言葉は馴染み深いが不明確な言葉であった。しかも、その言葉の意味を説明してもらった記憶すらないのだ。

先日、某大学のスポーツによるセレクション入学者のガイダンスで、「スポーツマンシップ」の講演を行ったのだが、200名余りのスポーツエリートの中で、誰一人としてこの意味を説明できなかったばかりでなく、説明を受けたものもいなかった。甲子園に出場した野球エリートも10数名おり、当然ながら開会式の「宣誓!」の場にはいたのである。「では一体スポーツマンシップを理解しないまま、それに則ってプレーするのは可能なんだろうか?」当方の意地悪い質問に、彼等はただうつむいたままであった。改めて指摘されれば、誰にでもこのおかしさ、あるいは「不健全さ」は理解できよう。もっとも、スポーツを行なう者のほとんどにとって、スポーツの場で何度も繰り返し聞かされている以上、スポーツを実践する上で守らなければならない重要なものであり、「体力の強弱」や「技の巧拙」といった物理的な要素ではなく、精神的な価値に関することであるのは理解されているだろう。同時にまた、スポーツに関わっている周りの誰もが同様に考えているのではないかと考え、この点を疑ったこともなかったに違いない。だが考えてみれば、誰もがその重要性を知っていながらその意味を誰にも説明されていないまま、従って正しく理解しているかどうかを確認しないままでいることを不自然だと感じていなかった、この事実こそが「不健全さ」の極みなのではないだろうか。こういった類の不健全さこそは、スポーツの対局にあるものであり、相容れないものなのであるはずだ。

その場でもスポーツエリートである彼等を慰めたのだが、この「不健全さ」の責任の多くは彼等に帰すことはできない。第一に指導教育する側の責任であることは明らかであり多言を要すまい。

斯く言う筆者も恥ずかしながらこの「不健全さ」に気付いたのは、不惑を越えてからであったことをここに告白しなければなるまい。


スポーツマン=いい奴(Good fellow)

 逆にその不自然さに気づくと、「スポーツマンシップとは一体何なのだろうか?」という疑問が頭から離れなくなったのである。ある時に当時小学校4年生の長女の国語辞典を何気なく開いてみて、「スポーツマン」という言葉を調べてみた。するとその辞書には「運動能力に秀でた人」と書いてあったのである。直感的に「これはおかしい」と思い、そこでオックスフォードの英英辞典を開いてみた。そこには「Sportsman=Good fellow」(=いい仲間)」と記されていたのである。この彼我の差には「目からウロコ」どころではない。大変なショックであった。

「運動という物理的な尺度がスポーツマンであるかどうかの判断基準」であるはずがない。「スポーツマンシップ」をスポーツマンらしさとするなら、スポーツマンらしく振舞えと言われてきた身としては、「スポーツマン」とは、何らか人間の内面的な規範、つまり倫理的な側面であると思われたのである。



最近の文献では発見できず

 その後いろいろな文献で「スポーツマンシップ」を調べたのだが、なかなか十分な説明を見つけることができなかった。とうとう昭和38年に出版された「新体育学講座」の第14巻「コーチのためのスポーツモラル」で、初めて真正面から「スポーツマンシップ」を取り扱っている本に出会うことが叶ったのである。どうも70年代に日本の体育行政の方針が大転換し、それ以降学校では「競争的」なことを意図的になるべく扱わないこと。従って「勝敗」に拘ることを「悪」として扱い、「スポーツ」をなるべく「勝敗」から遠ざけようとしてきたことが判明した。(実は昨年の10月に「スポーツマンシップを考える」という本を上梓したおり、あるスポーツ社会学者の大御所から「何で今更?」という質問を頂いた。70年代を境に、この点の理解にはギャップがあるようだ。)


「運動」と「スポーツ」は違う

 我が国では、未だに「運動」と「スポーツ」を混同している。前述のように権威ある国語辞典においてもそれが堂々とまかり通っているのだ。産婦人科の先生から「赤ちゃんには適度に運動させてくださいね」などというアドバイスがなされる。決して「適度にスポーツさせてくださいね」とは言われない。なぜなら、赤子には運動はできるが「スポーツ」はできないからだ。「スポーツ」には物理的な「運動」ではない、概念的、知的な要素が不可欠なのである。

そういえば未だにスポーツから「勝敗」の要素を遠ざけようとする人たちは少なくない。筆者にはそれが理解できない。彼等にとっては、「元々スポーツは、気晴らしだった」から、「勝敗」は不可欠ではないということらしい。それなら「気晴らし」と呼べばいい。何もスポーツと名乗る必要は無いのではないか、と思う。当方の理解は、


スポーツ=「運動」+「ゲーム」

であり、ゲームとは「勝敗」を楽しむ「遊び(play)」なのである。従って選手はplayerと呼ばれる。「ゲーム」とは物理的な存在ではなく「概念」である。従って「運動」を描くことは可能だが、ゲーム概念を内包したスポーツそのものを描くことはできない。かつて78年のWカップで地元アルゼンチンを初優勝に導いたRメノッティは、「サッカーというモノは存在しない。ただサッカーをする人間が存在するだけだ。」という名言を吐いている。蓋し至言と言うべきではないだろうか。「ゲーム→勝敗」の要素を排除したスポーツは、ほとんど言語矛盾だとしか思われない。

また「遊び」であるためには、「自発的」に「楽しむ」ことが不可欠である。従って「自発的に(voluntary)」「楽しまない」スポーツも存在しない。あるいは「意味」がない。(無論、「スポーツでないから価値がない」などということではない。ただ「スポーツと呼ぶに価しない」だけなのである。)

言うまでもなく、スポーツにおいて「勝つこと」は第一の目的である。だが、そこには自ずと「勝つことが意味のあることである」という前提が存在する。意味の無い「勝ち」に拘ることは、それこそ本当の意味で無意味なのだ。では、「勝ち」に意味を与えるパラダイムとは何か?そこで登場するのがスポーツマンシップなのである。

前述の「新体育学講座」には、スポーツマンシップとは畢竟「尊重(respect)」する心であるという記述がある。尊重とは、「理解」し「判断」し、その「価値」を認めることである。「同意」は必ずしも必要としない。立場の違いを理解し、その上で価値を認めることが尊重することなのである。スポーツにおける尊重の対象は、以下の3つである。


   (1)相手 (2) 審判 (3)ルール

 なるほどこれらのどれ一つを欠いても、ゲームは成立しなかろう。ルールを尊重せずに反則して勝つことに意味はあるのだろうか?何らかのアンフェアなことが理由で、やる気を喪失した相手に勝って「楽しい」だろうか?こう考えると、スポーツマンシップとは「尊重」であり、スポーツを成立させる最も根源的な概念であることが合理的に理解できるのではないだろうか。


奇麗事ではなく(強化のためにも)

 残念なことにわが国では、この言葉がせっかく知られていながら、その理解を促進させることを怠ってきた。この事実は否定できず、かつ重い。というのは、競技において世界のトップレベルで戦うときに、「日本人は個人では弱いがチーム力で勝負する」、とよく言われるが、その際の「個人の力」とは必ずしも肉体的な部分だけではなく、むしろ個人の判断力という部分が大きいのである。トップ・レベルでの戦いには、プレーヤーの肉体強化だけではなく人格的な強化が求められるという点の指摘が一般的になってきた。人格的な強化の必要とは、将に「スポーツマンシップ」の指導欠如から派生してきたのであると考えられる。例えば「尊重」とは、他から強制されてできるものではない。飽くまで当人が自主的に理解し、判断することが必要なのである。スポーツマンシップとは普段から「個人」としての判断力を磨かない限り身につくことはない。スポーツが元来「自発的」なのであれば、自発的な判断がないところにそもそもスポーツは成立しない。

翻って海外に目を転ずれば、この点の指導にぬかりはない。例えば、アメリカのサッカー協会が発行している「ジュニアのためのサッカークリニック」という本の中には、「ゲーム中に交代させられた選手が、まだできるのに!とふてくされた態度を示すことがあるが、コーチはこれを決して許してはいけない」と書いてある。日本では「フォア・ザ・チーム(チームのために)」とか「監督の指示に従わなければいけないから」などが、その理由だと考えられよう。しかし「交代で入る選手への尊重(思いやり)」を欠いた態度が「スポーツマンシップにもとる」と、理由を説明して注意せよ、と明記されているのである。交代を言われたら次に交代で入る仲間に「頑張れよ」と励ますこと。これが「仲間への尊重」なのである。

Good Loserの説明

 英語には"He is a good sport."という言い回しがあり、彼は信頼に足る人物だという意味だ。ある人が真にスポーツマンであるかどうかは、究極的には勝負に負けた時の態度で分かる。なぜなら「勝ち」が至上の目的だからだ。負けた時に素直に負けを認め、それでいて頭を垂れず、相手を称え、意気消沈せずにすぐ次に備える人が真のスポーツマンだ。なるほどそれがGood Loserであるならば、確かに信頼できるGood fellow(いい仲間)に違いない。

現在のサッカー日本代表の監督ジーコが、かつて82年のWカップでブラジル代表の「黄金のカルテット」の中心だったのは有名である。アントラーズの監督トニーニョ・セレーゾと元日本代表監督のファルカン、そしてソクラテスの4人で作られる中盤は、将にサンバを踊っているように華麗でファンタスティック、史上最強の中盤と言われ絶対的な優勝候補だった。ところがイタリアに負け準決勝進出を逃した。ブラジル選手の落胆は諮りしれようがない。祝勝に沸くイタリア代表がホテルに戻ろうとした時に、ジーコが1人でイタリアのチーム・バスに乗り込んで、試合中にジーコをガンガン蹴っていた「殺人者」ジェンティーレのところにやってきた。車中は皆固唾を飲んで見守っていると、突如ジーコは握手を求め、「ナイス・プレー!いいチームだ。絶対に優勝しろ」と言って帰っていったのだ。これこそGood Loserと呼ぶべき態度ではないか。真のスポーツマンが増えれば、日本の競技レベルも上がるだろうが、それだけでなく日本の社会全体が随分と健全になるのではないか。そんな期待もあながち夢物語だとも言えなかろう。

今後我が国においてもスポーツの日常の場で、「スポーツマンシップ」という言葉が頻繁に使われることが必要だろう。特に少年層の現場において、指導者が自分の言葉で「スポーツマンシップ」の価値を説明する必要がある。かの地ではそれはスポーツの場にとどまらない。生活の場で規範が問題になるときに、頻繁に引用される。例えば、米国第26代大統領のセオドア・ルーズベルト(愛称「テディ」)は狩を趣味としていたが、ある時罠にかかった熊を打つのは「スポーツマンシップに反する」として射撃を拒否し逃がした。この逸話からテディ・ベアは誕生したのである。

次の世代がスポーツマンシップを理解した世代となるのか、我々の責任は決して軽くは無いのである。

 
 


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